花で一年
【01月:スイセン(自惚れ)】
「はぁぁ?読んだことがない!?」
思わず声が裏返ってしまい、高野はコホンと咳払いをする。
高野の剣幕に驚いた律は「うわ」と声を上げた。
高野は自分の部屋で、律と共に夕食をとっていた。
テーブルに並ぶのは、渾身の力作だ。
今日は律に新しい仕事の話をするつもりだが、その前に少し息抜きをさせようと思っていた。
パクパクと勢いよく料理を平らげる律には、わかっていないだろうが。
最近の律の様子は、少々目に余る。
自分の現状と将来について悩んでいるのはわかる。
だが表情が必死過ぎるのだ。
ミスだけはするまいと張りつめているから、そういうことになる。
他部署の人間から「怖い」などという評判も聞こえてくる。
少々引きつり気味のその表情が色っぽいなんて考えているバカは高野だけだろう。
いや、いるかもしれない。
灰谷とか、長谷川とか、危ないヤツはいる。
とにかく何とかリラックスさせないと、色々な意味でヤバいと思った。
「お前に『ザ★漢』の小説を書いて欲しいって依頼があった。」
ゆっくりと食事をして、好きな本や作家の話をして、すっかり和んだ。
このタイミングだろうと、高野はおもむろに本題を切り出す。
腹が満たされたせいか、律は何だか眠そうだ。
トロンとした目で高野を見上げると「俺、読んだことない、です」と言った。
「はぁぁ?読んだことがない!?」
思わず声が裏返ってしまい、高野はコホンと咳払いをする。
高野の剣幕に驚いた律は「うわ」と声を上げた。
どうやら眠気は吹き飛んだようだ。
それにしても予想外のことだった。
律は丸川書店に入社してから、熱心に色々な漫画作品を読みふけっていたのだ。
もちろん少女漫画中心だが、少年漫画にも手を伸ばしていたと思う。
まさか丸川一の発行部数を誇る人気漫画が未読であったとは。
「だって、今までの巻数が多すぎて、なかなか読めないんですよ。」
律は口を尖らせながら、言い訳がましくそう言った。
確かに人気漫画である故、刊行された巻数は確かに多い。
当然読破するには時間がかかるので、ついつい後回しになっていたというのが律の弁だ。
「それにしてもお前、丸川の漫画編集だろ?あれを読んでないってのは。。。」
「すみません!読みます。それでもって書きます!」
律は高らかにそう宣言すると「それも勉強ですよね」と言い添えた。
高野としては読んでいることは当たり前で、その上で書くかどうか相談しようと思ったのだ。
だが律は勢いで、一気に読んで書くと宣言してしまった。
「頑張ります!」
律はすっかりテンションが上がってしまっている。
高野は肩を落とすと、ため息をついた。
こうなると律はもう止まらないのだ。
高野にできることは、せいぜい無理をし過ぎないように注意しながら見守るだけだ。
*****
「ええ!?どうしてそんなこと!!」
後輩社員が電話の向こうの相手に声を荒げている。
どちらかといえばお調子者と思っていた彼の態度に、横澤は顔をしかめていた。
「どうしたんだ?」
受話器を置いてなお電話機を睨みつけている逸見に、横澤は声をかける。
逸見は横澤の方に向き直ると「それが」と顔を曇らせた。
いつになく真剣な表情に、横澤もただ事ではないと悟る。
「総務に問い合わせがあったそうです。作家の織田律はエメラルド編集部の小野寺さんかと」
「はぁ?誰がそんなこと」
逸見が答えたのは、以前に営業に在籍していた社員の名だった。
横澤にとっても先輩に当たるその人物は、存在さえ汚点とされている。
とにかく仕事をせず、仕事をしたようにみせかけるのが上手かった。
そんな仕事ぶりのせいで、他部署を巻き込んで、迷惑をかけられたのだ。
泥をもろにかぶって、一番ひどい目に合ったのは横澤だった。
「よくない噂は聞きます。新しい職場でも迷惑をかけて、今はどこにいったのか」
「でもヤツが何で小野寺のことを」
「わかりません。もしかしてお金目当てで脅迫とか」
「そこまで落ちてねーだろ」
そうは言っても、横澤にも根拠はない。
あの男と律はお互い顔くらいは知っているだろうが、ほとんど話したことはないはずだ。
「で、まさか喋ったのか」
「そのまさかです。教えちゃったみたいです。俺の同期のヤツが」
「はぁぁ!?」
織田律は吉川千春同様、プロフィールを明かさない作家ということになっている。
だが吉川千春と違い、正体は丸川書店の編集者なのだ。
当然秘密を知る者は多いし、必然的に口も軽くなる。
特に律の場合、デビューのいきさつが安易すぎた。
やっかみ半分で噂の的にする者も少なくないのだ。
「俺、エメ編に行ってきます。話しておいた方がいいですよね。」
「そうだな。。。あ、いや、俺が行く。」
横澤は逸見を制して、立ち上がった。
この場合、律への感情は二の次だ。
一応営業部の失態ということになるのだろうし、詫びておくべきだろう。
件の社員の狙いはわからないが、とにかく気をつけるに越したことはない。
だがやはり気が重い。
律溺愛中の高野には隠してはおけないし、喋れば雷が落ちるのは目に見えている。
そして今回ばかりは弁解の余地がない。
横澤は重い足取りで、エメラルド編集部に向かった。
*****
「ザ★漢」ってすごく面白い!
律はスキップする勢いで、会社から自宅マンションへ帰ろうとしていた。
高野から「ザ★漢」の小説の話を聞いた時、律はしまったと思った。
少女漫画編集になって、少女漫画は片っ端から読んだ。
少年漫画だって、暇を見つけて読んでいた。
それでも「ザ★漢」には手をつけなかった理由は1つだけ。
とにかく巻数が多いので、読み始めるには気合いがいる。
丸川の漫画の中で一番売れてる作品だから、勢いで読んではダメだ。
心の余裕があるときに、じっくり取り組まなくては。
そう思っているうちに、ついつい後回しになったのだ。
そんな自分に「ザ★漢」の小説の話が来たのは、きっといいかげん読めということだ。
勝手にそう思った律は「ザ★漢」を全巻、大人買いした。
桐嶋は無料でくれると言ったらしいが、自腹で買うのが律のポリシーだ。
そして自宅でじっくりと読み進めている。
これが煮詰まっていた律に、意外な効果をもたらした。
さすが丸川漫画の看板作品、面白さは言うまでもない。
読んでいるうちに、いくつも書きたい話が湧き上がってくるのだ。
しかもすでに出版間近となった作品までも、新たなイメージが浮かんできた。
印刷がないので、ぎりぎりまで手直しができるのが電子書籍の良さだ。
美濃の担当作家のスピンオフ小説「スイセン ~自惚れ~」に、シーンを1つ付け加えた。
高野に見せると「これは入れた方がいいな」と言ってくれた。
前回は加筆修正した部分が、ばっさりボツだったのだ。
まったく「ザ★漢」効果、恐るべしだ。
だけど律の悩みは解決していない。
作家、編集者、そして家を継ぐこと。
将来に迷ってはいたが、結局は編集者としての道を選ぶだろうと思っていたのに。
ここへ来て執筆の依頼があり、しかも書くことが楽しくなっている。
それに悩むことさえ、何だか楽しくなっているのだ。
最寄駅からマンションにたどり着いた律は、ふと足を止めた。
エントランス前に、1人の男が立っている。
こういうことは珍しくない。
オートロックのマンションだから、住民を訪ねて来て留守の場合、こうして待つしかないのだ。
だが律は、その男に見覚えがあった。
確か丸川書店の営業部の社員だった男だ。
横澤に資料を届けに行ったときに、何度か顔を合わせたような気がする。
いつのまにかいなくなっていて、退職したのだと聞いた。
高野さんに用事かな。
律は咄嗟にそう思った。
丸川書店の元社員が、このマンションの誰かと知り合いとは偶然すぎる。
高野と面識があって、訪ねて来たと考えるのが自然な気がした。
だが男は律と目が合うと、笑った。
ニッコリではなく、ニンマリという擬音が付きそうな、癇に障る笑顔だ。
どうやらこの男は律に用事らしい。
「織田律先生」
男は律の前に進み出ると、そう言った。
内緒にしている律の秘密を知っている。
こうなるともう嫌な予感しかしないが、避けて通ることは無理のようだ。
律はスーッと息を吸い込むと、意を決して、男の前に足を踏み出した。
【続く】
「はぁぁ?読んだことがない!?」
思わず声が裏返ってしまい、高野はコホンと咳払いをする。
高野の剣幕に驚いた律は「うわ」と声を上げた。
高野は自分の部屋で、律と共に夕食をとっていた。
テーブルに並ぶのは、渾身の力作だ。
今日は律に新しい仕事の話をするつもりだが、その前に少し息抜きをさせようと思っていた。
パクパクと勢いよく料理を平らげる律には、わかっていないだろうが。
最近の律の様子は、少々目に余る。
自分の現状と将来について悩んでいるのはわかる。
だが表情が必死過ぎるのだ。
ミスだけはするまいと張りつめているから、そういうことになる。
他部署の人間から「怖い」などという評判も聞こえてくる。
少々引きつり気味のその表情が色っぽいなんて考えているバカは高野だけだろう。
いや、いるかもしれない。
灰谷とか、長谷川とか、危ないヤツはいる。
とにかく何とかリラックスさせないと、色々な意味でヤバいと思った。
「お前に『ザ★漢』の小説を書いて欲しいって依頼があった。」
ゆっくりと食事をして、好きな本や作家の話をして、すっかり和んだ。
このタイミングだろうと、高野はおもむろに本題を切り出す。
腹が満たされたせいか、律は何だか眠そうだ。
トロンとした目で高野を見上げると「俺、読んだことない、です」と言った。
「はぁぁ?読んだことがない!?」
思わず声が裏返ってしまい、高野はコホンと咳払いをする。
高野の剣幕に驚いた律は「うわ」と声を上げた。
どうやら眠気は吹き飛んだようだ。
それにしても予想外のことだった。
律は丸川書店に入社してから、熱心に色々な漫画作品を読みふけっていたのだ。
もちろん少女漫画中心だが、少年漫画にも手を伸ばしていたと思う。
まさか丸川一の発行部数を誇る人気漫画が未読であったとは。
「だって、今までの巻数が多すぎて、なかなか読めないんですよ。」
律は口を尖らせながら、言い訳がましくそう言った。
確かに人気漫画である故、刊行された巻数は確かに多い。
当然読破するには時間がかかるので、ついつい後回しになっていたというのが律の弁だ。
「それにしてもお前、丸川の漫画編集だろ?あれを読んでないってのは。。。」
「すみません!読みます。それでもって書きます!」
律は高らかにそう宣言すると「それも勉強ですよね」と言い添えた。
高野としては読んでいることは当たり前で、その上で書くかどうか相談しようと思ったのだ。
だが律は勢いで、一気に読んで書くと宣言してしまった。
「頑張ります!」
律はすっかりテンションが上がってしまっている。
高野は肩を落とすと、ため息をついた。
こうなると律はもう止まらないのだ。
高野にできることは、せいぜい無理をし過ぎないように注意しながら見守るだけだ。
*****
「ええ!?どうしてそんなこと!!」
後輩社員が電話の向こうの相手に声を荒げている。
どちらかといえばお調子者と思っていた彼の態度に、横澤は顔をしかめていた。
「どうしたんだ?」
受話器を置いてなお電話機を睨みつけている逸見に、横澤は声をかける。
逸見は横澤の方に向き直ると「それが」と顔を曇らせた。
いつになく真剣な表情に、横澤もただ事ではないと悟る。
「総務に問い合わせがあったそうです。作家の織田律はエメラルド編集部の小野寺さんかと」
「はぁ?誰がそんなこと」
逸見が答えたのは、以前に営業に在籍していた社員の名だった。
横澤にとっても先輩に当たるその人物は、存在さえ汚点とされている。
とにかく仕事をせず、仕事をしたようにみせかけるのが上手かった。
そんな仕事ぶりのせいで、他部署を巻き込んで、迷惑をかけられたのだ。
泥をもろにかぶって、一番ひどい目に合ったのは横澤だった。
「よくない噂は聞きます。新しい職場でも迷惑をかけて、今はどこにいったのか」
「でもヤツが何で小野寺のことを」
「わかりません。もしかしてお金目当てで脅迫とか」
「そこまで落ちてねーだろ」
そうは言っても、横澤にも根拠はない。
あの男と律はお互い顔くらいは知っているだろうが、ほとんど話したことはないはずだ。
「で、まさか喋ったのか」
「そのまさかです。教えちゃったみたいです。俺の同期のヤツが」
「はぁぁ!?」
織田律は吉川千春同様、プロフィールを明かさない作家ということになっている。
だが吉川千春と違い、正体は丸川書店の編集者なのだ。
当然秘密を知る者は多いし、必然的に口も軽くなる。
特に律の場合、デビューのいきさつが安易すぎた。
やっかみ半分で噂の的にする者も少なくないのだ。
「俺、エメ編に行ってきます。話しておいた方がいいですよね。」
「そうだな。。。あ、いや、俺が行く。」
横澤は逸見を制して、立ち上がった。
この場合、律への感情は二の次だ。
一応営業部の失態ということになるのだろうし、詫びておくべきだろう。
件の社員の狙いはわからないが、とにかく気をつけるに越したことはない。
だがやはり気が重い。
律溺愛中の高野には隠してはおけないし、喋れば雷が落ちるのは目に見えている。
そして今回ばかりは弁解の余地がない。
横澤は重い足取りで、エメラルド編集部に向かった。
*****
「ザ★漢」ってすごく面白い!
律はスキップする勢いで、会社から自宅マンションへ帰ろうとしていた。
高野から「ザ★漢」の小説の話を聞いた時、律はしまったと思った。
少女漫画編集になって、少女漫画は片っ端から読んだ。
少年漫画だって、暇を見つけて読んでいた。
それでも「ザ★漢」には手をつけなかった理由は1つだけ。
とにかく巻数が多いので、読み始めるには気合いがいる。
丸川の漫画の中で一番売れてる作品だから、勢いで読んではダメだ。
心の余裕があるときに、じっくり取り組まなくては。
そう思っているうちに、ついつい後回しになったのだ。
そんな自分に「ザ★漢」の小説の話が来たのは、きっといいかげん読めということだ。
勝手にそう思った律は「ザ★漢」を全巻、大人買いした。
桐嶋は無料でくれると言ったらしいが、自腹で買うのが律のポリシーだ。
そして自宅でじっくりと読み進めている。
これが煮詰まっていた律に、意外な効果をもたらした。
さすが丸川漫画の看板作品、面白さは言うまでもない。
読んでいるうちに、いくつも書きたい話が湧き上がってくるのだ。
しかもすでに出版間近となった作品までも、新たなイメージが浮かんできた。
印刷がないので、ぎりぎりまで手直しができるのが電子書籍の良さだ。
美濃の担当作家のスピンオフ小説「スイセン ~自惚れ~」に、シーンを1つ付け加えた。
高野に見せると「これは入れた方がいいな」と言ってくれた。
前回は加筆修正した部分が、ばっさりボツだったのだ。
まったく「ザ★漢」効果、恐るべしだ。
だけど律の悩みは解決していない。
作家、編集者、そして家を継ぐこと。
将来に迷ってはいたが、結局は編集者としての道を選ぶだろうと思っていたのに。
ここへ来て執筆の依頼があり、しかも書くことが楽しくなっている。
それに悩むことさえ、何だか楽しくなっているのだ。
最寄駅からマンションにたどり着いた律は、ふと足を止めた。
エントランス前に、1人の男が立っている。
こういうことは珍しくない。
オートロックのマンションだから、住民を訪ねて来て留守の場合、こうして待つしかないのだ。
だが律は、その男に見覚えがあった。
確か丸川書店の営業部の社員だった男だ。
横澤に資料を届けに行ったときに、何度か顔を合わせたような気がする。
いつのまにかいなくなっていて、退職したのだと聞いた。
高野さんに用事かな。
律は咄嗟にそう思った。
丸川書店の元社員が、このマンションの誰かと知り合いとは偶然すぎる。
高野と面識があって、訪ねて来たと考えるのが自然な気がした。
だが男は律と目が合うと、笑った。
ニッコリではなく、ニンマリという擬音が付きそうな、癇に障る笑顔だ。
どうやらこの男は律に用事らしい。
「織田律先生」
男は律の前に進み出ると、そう言った。
内緒にしている律の秘密を知っている。
こうなるともう嫌な予感しかしないが、避けて通ることは無理のようだ。
律はスーッと息を吸い込むと、意を決して、男の前に足を踏み出した。
【続く】