…したい10題

【愛したい】

「あまり根を詰めるな。少し休め。」
羽鳥は吉野にそう声をかけた。
だが吉野は「ああ」と生返事を返してきた。
多分その言葉の意味までは、頭に入っていないだろう。

吉野はあの事件の後、ずっとふさぎこんでいた。
だが今はそれがまるで嘘のように、必死に仕事をしている。
そしてついに、今月分もどうにか入稿できそうなところまで来た。
相変わらずのデット入稿になるだろうが、かまわない。
月の前半はほとんど何もしていない状態だったのだから、驚異的なスピードだ。

羽鳥としては、不満をおぼえるところでもある。
結局、通常の半分の時間で描き上げたことになるのだから。
こんなことが出来るのなら、毎回やって欲しい。
そうすれば多分、羽鳥の労働時間は格段に減るだろう。
睡眠時間も休みも多くなる。

そこまで考えて、羽鳥はふっと笑った。
こんなペースで毎回やられたら、それはそれで心配になるだろう。
それに仕事にかこつけて、吉野の家に出入りする機会も減ってしまう。
吉野は怪我もなく生きているし、仕事への情熱も取り戻した。
それで充分ではないか。

羽鳥は真剣な表情で筆を進める吉野の横顔を見つめていた。
実年齢よりも子供っぽく見えるいつもの吉野ではない。
張り詰めた緊張感は、まぎれもなくプロのものだ。
こういうアンバランスさが吉野の魅力だと、羽鳥は思う。
いつまでも見守っていたい。愛したい。

羽鳥は飲み物を用意するために、キッチンへ向かった。
コーヒーと、疲れが取れるような甘い菓子でも添えてやろう。
その後は印刷所に電話して、締め切りの交渉だ。
今の吉野のために、羽鳥がしてやれることはたくさんある。

*****

「疲れた。。。」
「大丈夫ですか?」
帰宅した恋人の第一声に、雪名は思わず木佐の顔を見た。
だが確かに疲れた顔をしているその表情は、笑顔だった。

今日は事件の後、律が初めて出勤した。
木佐は律を一日中構い倒していたといっても、過言ではない。
律が席を立とうとすると、まず声をかけて止め、用件を聞き出す。
コピーや他部署へ持って行く書類、果ては飲み物の買い出しまで、横からひったくった。
そうしておいて、飴やらチョコやら煎餅やらと菓子を差し入れる。
律は「もう大丈夫ですから」と苦笑し「太っちゃいますよ」と文句を言った。

だがそれをしたのは、木佐だけではなかった。
羽鳥も美濃も何くれとなく律に声をかけて、律の仕事や雑用を引き受けていた。
高野だけはいつもの通り律に仕事を言い渡していて、変わらないと思われた。
だが昼食時になって律に「昼メシ買ってきてやる」と声をかけ、周りを驚かせた。
やはり鬼編集長も人並みの優しさがあるのかと。
とにかく律はアイドル並みにチヤホヤされ、編集部はイベント状態だ。
全員律の身体を気遣ったことは間違いないが、ほとんど楽しんで悪ノリしたというのが正解だろう。
疲れたは疲れたのだが、心地よく楽しい疲れだった。

雪名はもちろんそんな編集部の雰囲気など知る由もない。
だが木佐の表情が明るくなったことに、心の底から安堵していた。
どうやら木佐はつらい事件を乗り越えたのだろう。
何だかその笑顔が綺麗になったように見えるのは、惚れた欲目だろうか。

だが雪名にはたった1つだけ心残りなことがある。
それはこの件に関して何も出来なかったということだ。
木佐が元気を取り戻した理由は、怪我をした後輩が復帰したこと。
後輩の頑張る姿を見て、木佐も負けていられないと思ったらしい。
こういう時に思い知るのだ。
社会人と学生の差、年齢の差、そして一緒にいられない時間の長さ。

「俺、将来漫画家になろうかな。」
「え?」
「木佐さんに担当になってもらえば、ずっと一緒にいられるでしょ?」
木佐は雪名の提案に、本当に驚いたようだった。

「雪名が画家になったら丸川から画集出せばいいだろ?そしたら俺、美術に異動するから。」
「うわ。。。それスゴイですね。」
「有名になって、俺を出世させてくれよ。」
少し考えた後、木佐は思わぬことを言い出した。
どちらかと言えばネガティブ思考の恋人が、前向きになっていることに嬉しくなる。

このままこの人が笑っていて欲しい。この人を愛したい。
雪名は決意を新たにしながら「メシにしましょうか」と笑った。

*****

「小野寺、起きろ。」
高野は眠っている律の肩を揺すった。
怪我をしている場所が痛まないように、そっとだ。
目を開けた律の瞳が、かすかにうるんでいる。

事件後に初出勤した律を、高野は今日も部屋に連れ込んだ。
実は退院してから、律はずっと高野の部屋に泊まっている。
いや隣室であるから、泊まっているという表現は的確かどうか。
高野は律のために、夕食の用意をするのだ。
だから夕食時に高野の部屋で食事をして、夜はそのまま眠る。
そして朝も一緒に食事をして、昼用に手作りの弁当を渡される。
律はそうしながら退院から出勤までの日を過した。

さすがに同じベットで眠っても、高野が律を抱くことはなかった。
何しろ一時期は命が危ないとまで言われるほどの怪我をしたのだから。
高野は律の怪我が治るまで、身体をつなげることはしないと心に誓っていた。
こうやって律を腕の中に閉じ込めて、おだやかに眠れば心は満たされる。
身体は律を抱きたいと訴えるが、高野はそれを押さえ込んで待つつもりだ。

だが夜、律は時折ひどくうなされる。
額や身体に冷たい汗をかきながら「痛い」と声を上げるのだ。
そして涙を浮かべながら「助けて、先輩」と手を伸ばす。
そのたびに高野はそっと律を揺すって起こし、涙を拭って抱きしめるのだ。

エメラルド編集部の面々は、もう律がすっかり元通りだと思っている。
今日は木佐を筆頭に、羽鳥も美濃も面白おかしく律を甘やかしていた。
だけど律の心の傷は深い。
未だに恐怖は悪夢となって、律を苦しめ続けている。

「俺、やっぱり自分の部屋で寝ます。」
「ダメだ。ここにいろ。」
「高野さんに世話をしてもらっているのに。その上寝不足にまでしてしまったら」
「ここにお前がいなかったら、不安でもっと眠れない。」

愛したい。傷ついているくせに高野の心配をしている律を。
負けず嫌いで、ひねくれてて、それでも前向きでかわいいこの存在を。
高野は起き上がろうとした律の身体を離さなかった。

【続く】
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