花で一年
【10月:キンモクセイ(謙虚)】
ああ、もっと早く書かなくちゃ。
律は必死に焦る気持ちを押さえながら、パソコンのキーを叩いていた。
律は自宅でパソコンと向かい合っていた。
今日は三連休の最終日。
律はずっと家に閉じこもって、ひたすら文章を打ち込んでいる。
時折手を止めて、目を閉じる。
そして頭の中に浮かんでくる情景を、それを忠実に言葉に変換していく。
律にとって小説の執筆は、こうだったら面白いと想像の羽を広げ、それをひたすら文章にする作業だ。
律はこうして会社が休みの3日間、ずっと自宅で缶詰状態になっていた。
日に3回、高野がやって来て、食事を置いていってくれる。
とにかくこの3日の間に、短編小説を1つ書き上げなければならない。
こんなに必死になったのは、人生で数えるほどしかないと思う。
そんなことになったのには、もちろん理由がある。
もうすぐまた律の作品が、何作が電子書籍として出版される。
だが問題が起きた。
その作品は「キンモクセイ ~謙虚~」という短編。
律の担当作家である皆藤の人気漫画のスピンオフのはずだった。
だが土壇場になって、皆藤が「やはり出版したくない」と言い出したのだ。
彼女は律の作品を読んで、よく書けていると評価してくれた。
それでも彼女の中には抵抗があったようだ。
自分が作った物語は、あくまで自分の手ですべて描き切りたい。
律の熱意と、自分の中のポリシーの間で、皆藤はかなり迷ったようだ。
結局この物語は、ボツになった。
だが律は、毎月の誕生花をモチーフにして12の作品を用意している。
つまり1作欠けると、どうにもおさまりが悪くなるのだ。
だから律は代わりの物語を、必死に執筆しているのだった。
幸いにも頭の中で想像していた物語は、まだいくつもある。
その中の1つを選び出して、物語にしていくのは不可能ではない。
だが何しろ時間がない。
律は日頃は編集者として多忙な日々を送っており、執筆にかけられる時間は少ないのだ。
今だって何度も時計を確認し、その度に異様に早く進んでいる時間に驚く。
だがその驚いている時間さえ惜しい。
ああ、もっと早く書かなくちゃ。
必死に焦る気持ちを押さえながら、パソコンのキーを叩いていた。
*****
かなり追い詰められているな。
高野は目を血走らせながらパソコンのキーを叩き続ける律を盗み見て、そう思った。
まったく想定外のことだった。
作家の皆藤が、出版間近になって、律のスピンオフ小説を出したくないと言い出したのだ。
彼女も律の作品のクオリティの高さは認めている。
だがやはり自分の作品世界を、他人に預けるのが嫌だと言うのだ。
もし皆藤が若い作家であったなら、高野は説得を試みただろう。
作品の可能性は広がるし、認知度も上がると。
だが彼女はベテランで、締め切り破りも少なく、今まで我が儘など言ったことのない。
それに彼女なりに相当悩んだこともうかがえた。
こうなっては、もう出版させることはほぼ無理だ。
律が代わりに書き始めたのは、佐藤伊織の作品のスピンオフだった。
実は漫画の中で、ヒロインが一度失恋するという下りがある。
結局別の少年と恋をするのだが、そこに読者から手厳しい意見が寄せられていた。
曰く、唐突。ヒロインの恋の切り替えが早すぎて、軽薄に見えるというのだ。
律はその意見に、頭を悩ませていたのだ。
そこで律が作り上げたのは、失恋したヒロインが新しい恋に進むまでの間の話だった。
本編にはなかった小さなエピソードを加えて、ヒロインの心の変化を丁寧に綴る。
そうすることで、件の批判を和らげることができるだろう。
悪い状況を逆手に取った、一石二鳥の作戦だ。
佐藤伊織に打診したところ、予想通り大賛成してくれた。
編集の仕事に支障をきたしたくないから、三連休で書き上げる。
そう宣言した律は、自宅マンションにこもって、ずっとパソコンに向かっている。
だがやはり実際にこの状況で書くというのは、大変なことだった。
他の作品はすでに出来上がったものを、調整して手直しするだけだった。
つまり締め切りに合わせて小説を書くのは、律にとっては初めての経験なのだ。
心配した高野は、何度も食事を持って、隣室を訪れた。
本当はずっと一緒にいたいのだが、それでは律が気を使って集中できないこともわかった。
だが睡眠も休息も取らず、ひたすらパソコンに向かう律は、確実にやつれ、弱っている。
今までそんな漫画家を見て来たのに。
それが律だと思うと、高野は何だかひどく落ち着かない気分だった。
かわいそうで休ませてやりたいと思いながら、やつれた姿が色っぽいなんて思ってしまう。
だがこんなことを繰り返せば、いつか身体を壊してしまう。
律には作家か編集者、どちらかに専念させた方がいいのかもしれない。
高野は秘かにそう思いながら、律の世話を焼いていた。
*****
本当にこれでいいのかな。
律はできたばかりの小説を何度も読み直しながら、考え込んでいた。
「よく頑張ったな。」
律が何とか小説を書き上げたのは、3日目の深夜だった。
高野はねぎらいの言葉をかけてくれる。
そしてテーブルに突っ伏している律の髪をくしゃりとなでると、プリントアウトした小説に目を通し始めた。
「こんな経験すると、もう作家さんに原稿の催促、しずらくなっちゃいますよ。」
「ばーか。逆だろ。俺もやったんだからテメーらもちゃんとやれ、くらい言えよ。」
「そんな乱暴な」
律は顔を上げると、力なく笑いながら、小説に目を通す高野を見上げる。
高野の表情から察するに、酷い出来にはなっていないようだ。
とりあえず安堵すると、律は改めて、高野に向き直った。
「すみませんでした。食事とか、いろいろお世話になって。」
「あ?」
高野は小説から目を上げて、律を見た。
その表情は本当に予想外のことを言われて、驚いているという感じだ。
「編集者が作家の世話を焼くのは当たり前だろ?」
「・・・そうか。この場合、俺が作家で、高野さんが担当編集ですか。」
「何を、今さら」
高野は馬鹿にしたように笑うけど、その表情は優しかった。
労ってくれているのだと思うと、律も嬉しい。
「だいたい流れはいいと思う。細かいところは持ち帰ってチェックするから。」
高野はプリントアウトを持ったまま、出て行った。
とにかく明日は会社だから、今夜は少しでも律を休ませようという配慮だろう。
だが1人残された律は、できたばかりの小説をパソコン画面で読み返し始めた。
本当にこれでいいのかな。
律はできたばかりの小説を何度も読み直しながら、考え込んでしまう。
急いで書き上げて、読み返しもせずに渡すなんて、初めての経験だ。
何よりも律にとって「キンモクセイ ~謙虚~」は最初の皆藤の作品のスピンオフなのだ。
書き直した作品は、律の中ではあくまで間に合わせなのだ。
何よりこんな風に勢いで書き上げた小説は、読むに値するものなのだろうか。
律はため息をつくと、ようやく重い腰を上げた。
これ以上は、今考えても答えの出ない問題なのだ。
高野と相談しながら、調整を繰り返すしかないだろう。
それにしても編集者としてまだまだ一人前と言い難い自分が、作家としての悩みまで抱えるのはきつい。
多分この状態は、長く続けられないだろう。
律はそんなことを思いながら、3日振りの入浴のために浴室に向かった。
【続く】
ああ、もっと早く書かなくちゃ。
律は必死に焦る気持ちを押さえながら、パソコンのキーを叩いていた。
律は自宅でパソコンと向かい合っていた。
今日は三連休の最終日。
律はずっと家に閉じこもって、ひたすら文章を打ち込んでいる。
時折手を止めて、目を閉じる。
そして頭の中に浮かんでくる情景を、それを忠実に言葉に変換していく。
律にとって小説の執筆は、こうだったら面白いと想像の羽を広げ、それをひたすら文章にする作業だ。
律はこうして会社が休みの3日間、ずっと自宅で缶詰状態になっていた。
日に3回、高野がやって来て、食事を置いていってくれる。
とにかくこの3日の間に、短編小説を1つ書き上げなければならない。
こんなに必死になったのは、人生で数えるほどしかないと思う。
そんなことになったのには、もちろん理由がある。
もうすぐまた律の作品が、何作が電子書籍として出版される。
だが問題が起きた。
その作品は「キンモクセイ ~謙虚~」という短編。
律の担当作家である皆藤の人気漫画のスピンオフのはずだった。
だが土壇場になって、皆藤が「やはり出版したくない」と言い出したのだ。
彼女は律の作品を読んで、よく書けていると評価してくれた。
それでも彼女の中には抵抗があったようだ。
自分が作った物語は、あくまで自分の手ですべて描き切りたい。
律の熱意と、自分の中のポリシーの間で、皆藤はかなり迷ったようだ。
結局この物語は、ボツになった。
だが律は、毎月の誕生花をモチーフにして12の作品を用意している。
つまり1作欠けると、どうにもおさまりが悪くなるのだ。
だから律は代わりの物語を、必死に執筆しているのだった。
幸いにも頭の中で想像していた物語は、まだいくつもある。
その中の1つを選び出して、物語にしていくのは不可能ではない。
だが何しろ時間がない。
律は日頃は編集者として多忙な日々を送っており、執筆にかけられる時間は少ないのだ。
今だって何度も時計を確認し、その度に異様に早く進んでいる時間に驚く。
だがその驚いている時間さえ惜しい。
ああ、もっと早く書かなくちゃ。
必死に焦る気持ちを押さえながら、パソコンのキーを叩いていた。
*****
かなり追い詰められているな。
高野は目を血走らせながらパソコンのキーを叩き続ける律を盗み見て、そう思った。
まったく想定外のことだった。
作家の皆藤が、出版間近になって、律のスピンオフ小説を出したくないと言い出したのだ。
彼女も律の作品のクオリティの高さは認めている。
だがやはり自分の作品世界を、他人に預けるのが嫌だと言うのだ。
もし皆藤が若い作家であったなら、高野は説得を試みただろう。
作品の可能性は広がるし、認知度も上がると。
だが彼女はベテランで、締め切り破りも少なく、今まで我が儘など言ったことのない。
それに彼女なりに相当悩んだこともうかがえた。
こうなっては、もう出版させることはほぼ無理だ。
律が代わりに書き始めたのは、佐藤伊織の作品のスピンオフだった。
実は漫画の中で、ヒロインが一度失恋するという下りがある。
結局別の少年と恋をするのだが、そこに読者から手厳しい意見が寄せられていた。
曰く、唐突。ヒロインの恋の切り替えが早すぎて、軽薄に見えるというのだ。
律はその意見に、頭を悩ませていたのだ。
そこで律が作り上げたのは、失恋したヒロインが新しい恋に進むまでの間の話だった。
本編にはなかった小さなエピソードを加えて、ヒロインの心の変化を丁寧に綴る。
そうすることで、件の批判を和らげることができるだろう。
悪い状況を逆手に取った、一石二鳥の作戦だ。
佐藤伊織に打診したところ、予想通り大賛成してくれた。
編集の仕事に支障をきたしたくないから、三連休で書き上げる。
そう宣言した律は、自宅マンションにこもって、ずっとパソコンに向かっている。
だがやはり実際にこの状況で書くというのは、大変なことだった。
他の作品はすでに出来上がったものを、調整して手直しするだけだった。
つまり締め切りに合わせて小説を書くのは、律にとっては初めての経験なのだ。
心配した高野は、何度も食事を持って、隣室を訪れた。
本当はずっと一緒にいたいのだが、それでは律が気を使って集中できないこともわかった。
だが睡眠も休息も取らず、ひたすらパソコンに向かう律は、確実にやつれ、弱っている。
今までそんな漫画家を見て来たのに。
それが律だと思うと、高野は何だかひどく落ち着かない気分だった。
かわいそうで休ませてやりたいと思いながら、やつれた姿が色っぽいなんて思ってしまう。
だがこんなことを繰り返せば、いつか身体を壊してしまう。
律には作家か編集者、どちらかに専念させた方がいいのかもしれない。
高野は秘かにそう思いながら、律の世話を焼いていた。
*****
本当にこれでいいのかな。
律はできたばかりの小説を何度も読み直しながら、考え込んでいた。
「よく頑張ったな。」
律が何とか小説を書き上げたのは、3日目の深夜だった。
高野はねぎらいの言葉をかけてくれる。
そしてテーブルに突っ伏している律の髪をくしゃりとなでると、プリントアウトした小説に目を通し始めた。
「こんな経験すると、もう作家さんに原稿の催促、しずらくなっちゃいますよ。」
「ばーか。逆だろ。俺もやったんだからテメーらもちゃんとやれ、くらい言えよ。」
「そんな乱暴な」
律は顔を上げると、力なく笑いながら、小説に目を通す高野を見上げる。
高野の表情から察するに、酷い出来にはなっていないようだ。
とりあえず安堵すると、律は改めて、高野に向き直った。
「すみませんでした。食事とか、いろいろお世話になって。」
「あ?」
高野は小説から目を上げて、律を見た。
その表情は本当に予想外のことを言われて、驚いているという感じだ。
「編集者が作家の世話を焼くのは当たり前だろ?」
「・・・そうか。この場合、俺が作家で、高野さんが担当編集ですか。」
「何を、今さら」
高野は馬鹿にしたように笑うけど、その表情は優しかった。
労ってくれているのだと思うと、律も嬉しい。
「だいたい流れはいいと思う。細かいところは持ち帰ってチェックするから。」
高野はプリントアウトを持ったまま、出て行った。
とにかく明日は会社だから、今夜は少しでも律を休ませようという配慮だろう。
だが1人残された律は、できたばかりの小説をパソコン画面で読み返し始めた。
本当にこれでいいのかな。
律はできたばかりの小説を何度も読み直しながら、考え込んでしまう。
急いで書き上げて、読み返しもせずに渡すなんて、初めての経験だ。
何よりも律にとって「キンモクセイ ~謙虚~」は最初の皆藤の作品のスピンオフなのだ。
書き直した作品は、律の中ではあくまで間に合わせなのだ。
何よりこんな風に勢いで書き上げた小説は、読むに値するものなのだろうか。
律はため息をつくと、ようやく重い腰を上げた。
これ以上は、今考えても答えの出ない問題なのだ。
高野と相談しながら、調整を繰り返すしかないだろう。
それにしても編集者としてまだまだ一人前と言い難い自分が、作家としての悩みまで抱えるのはきつい。
多分この状態は、長く続けられないだろう。
律はそんなことを思いながら、3日振りの入浴のために浴室に向かった。
【続く】