花で一年

【06月:グラジオラス(用意周到)】

「俺って本当に、心が狭いんだな。。。」
木佐は思わずポツリと呟いていた。
すごくいい話のはずなのに、心から喜ぶことができないのだ。

会社から帰った木佐は、ある小説を読んでいた。
それは後輩の小野寺律の手によって書かれた短編で、タイトルは「グラジオラス ~用意周到~」。
木佐の担当作家、森本カナの作品の二次小説だ。
漫画の連載はすでに終わっており、その後日談のような小話だった。

「お前と森本カナが了承してくれたら本にしたい。とりあえず目を通してくれ。」
高野にそう言われて渡されたそれを、木佐は何度も読み返した。
会社で読み、こうして家に持ち帰ってまた読んでいる。
そしてその度にため息をついてしまうのだ。

話は本当によくできている。
それにキャラの性格や作品世界をよく理解して、丁寧に書かれているのもわかる。
何よりも文句なしに面白い。
ファンならば大いに喜ぶことは、間違いないだろう。

そして編集者としては、チャンスとも言えるだろう。
やはり連載が終わってしばらく経つ作品は、次第に読まれなくなってしまう。
コミックスの売れ行きも、連載時より落ちてしまうのは仕方がないことだ。
だがこの小説が出ることで、また読者の注目が向けられることも考えられる。

本当にいいこと尽くめの話なのに、気分が重く沈む。
その理由はわかりすぎるほどわかっている。嫉妬だ。
だがその対象は、作家としての律ではなく、編集者としての律だ。
この短編は、作品のことをかなり深く理解していなければ書けない。
担当作品でもないのにそれができる律の、編集者としての感受性を見せつけられた気分だ。

本当は年下の高野と羽鳥が編集長、副編集長であることだって、少々悔しいのだ。
だけどずば抜けた手腕を持つ彼らは特別な存在だと割り切れる。
だが律はコツコツと地味な努力をするタイプで、木佐と同じだと信じて疑わなかった。
そして経験年数から、自分が優位であると思い込んでいたのだ。
気が付けば小説を読みながら、どこかアラがないかと捜している自分に気付く。

「やっぱり、狭いよな。。。」
「何が狭いんです?」
不意に話しかけられた木佐は驚き、思わす「わぁ!」と声を上げた。
考えに没頭するあまり、今日からまた泊まりに来ていた雪名のことを忘れていた。

*****

「何が狭いんです?」
雪名は木佐に声をかけた。
木佐が「わぁ!」と声を上げたことで、自分が忘れられていたことがわかり、少しだけ傷ついた。

「どうしたんです?」
雪名はどことなく元気のない恋人に、そう声をかけた。
まったく不思議な人だと、雪名は思う。
すごく若い外見を持っている三十路の男。
不摂生な生活をしていても、その容貌は全然衰えない。
だけど心がふさいでいるときには、てきめんに表情が揺れる。
9歳も年上の男なのに、守ってあげたいなんて気持ちを起こさせるのだ。

「あ、えーと、その。詳しくは言えないんだけど、後輩のことを嫉妬してて」
木佐は言葉を選びながら、まるで懺悔のように告白した。
詳しくは言えないというのは、社外秘のことがあるのだろう。
グルグルと1人で抱え込むのは、悩みの元凶が雪名でないからだろう。
それでも隠さずに、話してくれるのが嬉しい。

「嫉妬、ですか」
「うん。ある後輩のこと、自分より能力は下だと思ってた。でもそうじゃないことがわかって」
「はい」
「で、危機感と自己嫌悪で、今ちょっと元気がない。」
「よくわかります。」

雪名は思わず大きく頷いていた。
木佐が驚いたように目を見開いて、雪名を凝視する。
視線の強さに照れながら、雪名もまた自分の悩みを打ち明けていた。

油絵を学ぶ雪名にとって、そんなことは日常茶飯事なのだ。
画家には、会社員のような入社年度の序列は関係ない。
後輩だろうとなんだろうと、いい作品が評価されるだけだ。
下級生の絵を見て、嫉妬したり、肝を冷やしたりしたことなど、数えきれない。

「お前も大変だな。っていうか俺より全然大変だ。」
木佐は雪名を見上げると、しみじみとそう言った。
あまりにも素直なリアクションに、雪名は思わず笑っていた。

****

「お前も大変だな。っていうか俺より全然大変だ。」
木佐は心の底からそう思い、そのまま口にした。
そして弱音を吐いてしまったことが、恥ずかしくなった。

後輩である小野寺律の実力を知って、少々落ち込んだ。
だけど雪名に「よくわかります」と言われて、驚いた。
しかも雪名はもっとシビアに、実力だけで評価される世界に身を置いている。

「俺ね、枠は1つじゃないって思うことにしてます。」
「わく?」
「ええ。素晴らしい作品、優秀な画家の枠って意味です。人数制限はないでしょ?」
「誰かが成功したからって、自分が落とされるじゃないってこと?」
「そうです。競争じゃなくて、刺激を受けて、こっちも成長するって感じで」

雪名らしい考え方に、木佐も笑顔になった。
律が木佐の予想よりも力のある編集者だから、何だというのか。
別にそれで木佐の価値が下がるわけでもない。
むしろ律や高野たちに刺激を受けて、自分のスキルも上がる。
そうやってプラスに考えた方がいいに決まっている。

木佐はもう1度、手の中にある律の小説に目を落とした。
森本カナは雪名も好きな作家だ。
きっとこの小説を読んだら、雪名も喜ぶだろう。
今、これを読ませることができないのが無念だ。

「今、エメラルドで面白い企画が進行中なんだ。」
「へぇぇ、楽しそうですね。」
「うん。まだ言えないけど、すごく言いたい。」
「そんなにステキな企画なんですか?」
「公表してもいいことになったら、真っ先に言うよ。」
「そのときはまたバンバン売りますね!」

ほら、考え方1つで気持ちも明るくなる。
後は雪名のような熱心な読者のために、できることをするだけ。
木佐は再び律の小説に目を通し始めた。
編集者として曇りのない目でチェックするためだ。

【続く】
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