真夜中5題

【創造ブラック/破壊ホワイト】

「はかい、しん?」
あまりにも聞き慣れない言葉で、吉野は咄嗟に漢字と意味が当てはめられなかった。

羽鳥が編集部を去り、ついに小野寺律が編集長に就任した。
ついにかつて高野が立て直したエメラルド編集部のメンバーは、律だけになったのである。
事前に聞かされていた吉野は、ごく自然にそれを受け止めた。
羽鳥がいなくなったことで、心細くないと言えば嘘になる。
だけどそれは言っても仕方がないことだし、律の負担を考えれば大したことではない。
それに羽鳥とは仕事を離れても、恋人同士なのだ。
どうしても助けが欲しくなったら、手を伸ばせば届く場所にいる。

それよりも吉野が驚いたのは、律が吉野の担当も続けると聞いたときだ。
最近の吉野は律のやり方に慣れ、律とのやり取りを楽しむ余裕さえある。
だから担当が変わらないのは、ありがたい限りではある。
だが自分で言うのも何だが、吉野は作家の中でも手がかかる方だと思う。
編集長という激務と吉野の担当。これを両立できるのだろうか?
だが少なくても、担当として話をするときの律は、まったく以前と変わらなかった。

「小野寺編集長の通り名、聞いた?」
唐突に、編集長としての律の噂話を始めたのは、柳瀬だった。
入稿を終えて一段落し、久し振りにアシスタントではなく友人として、2人で外出した。
大好きな「ザ☆漢」新刊の初回限定、小冊子付き特装版を買うのが目的。
だがもちろんそれだけではなく、画材や服を見たり、食事をしたり。
歳と共に一緒に出掛ける機会も減ったが、だからこそこうして過ごす時間は楽しい。

「律っちゃんの通り名?知らないよ。何、それ?」
2人が向き合っているのは、チェーン店の定食屋だ。
それなりに2人とも高給取りなのだが、庶民的な店の方が性に合う。

「白の女王、破壊神」
「はかい、しん?」
あまりにも聞き慣れない言葉で、吉野は咄嗟に漢字と意味が当てはめられなかった。
そしてようやく「破壊」という言葉を頭に浮かべて、思わず焼き魚をほぐす箸を止めた。
本当は唐揚げ定食にしたかったけど、揚げ物は避けたのだ。
メニューを選ぶのに、カロリーだとか野菜を取らなきゃなんて考える年齢になったのは少々寂しい。

「なに、そのSF漫画みたいな呼び方」
吉野は率直な感想を口にする。
丸川の作品じゃないけど、人類が自分たちを捕食しようとする巨人と戦う漫画があった。
咄嗟にそれ連想してしまうほど、何だか怖い呼び名だ。

「何でそんな呼び名がついたのかは知らない。でも怖がられているらしい。」
柳瀬はそう答えながら、吉野がパスした唐揚げを食べていた。
自炊派の柳瀬は常日頃から、野菜中心の健康的な食生活をしている。
だから外食の時、こってりしたものを食べるのはささやかな贅沢なのだという。

「今度、聞いてみようっと」
吉野は恨めし気に、柳瀬の口に消えていく唐揚げを見ながら、そう言った。
もちろん柳瀬はそんな視線に気づいており、わざと見せつけるようにして食べている。
吉野はため息をつきながら、少々自棄気味に味噌汁をすすった。

白の女王。破壊神。
ドラマチックな通り名は、ひょっとしたら漫画のネタになるかもしれない。
そう思うと心ときめくのだが、少しだけ不安でもあった。
もしかしてオーバーワークでキレたところで、ついた通り名ではないか。

だとしたら自分にだって、責任はある。
吉野は喉に引っかかった魚の小骨を、顔をしかめながらゴクリと飲み下した。

*****

ったく、こんなに化けるとは。
横澤は、月刊エメラルドの新編集長の手腕を評価せざるを得なかった。

かつて高野がエメラルド編集部を立て直し、羽鳥、そして律へと引き継がれた。
だが進化を遂げたのは、何も彼らだけではない。
横澤もまた、高い地位へと上がっていた。
現在の役職は課長であり、コミックス部門責任者だ。
以前のように書店を回ったり、他の部署との折衝する仕事は、若い営業部員たちの仕事。
横澤はそんな彼らの案を決裁したり、仕事ぶりを監督したりする立場になった。

「本当に申し訳ない。こっちもいろいろと忙しくてさ。」
パソコンでデータをチェックしていた横澤は、そんな声を聞き取って顔を上げた。
視線の先では、未だ横澤の部下である逸見が頭を下げている。
逸見はかつての横澤のポジションで仕事をしていた。
書店や他部署を回ったり、新たに加わった後輩営業部員の面倒を見たり。
横澤は逸見が忙しく動き回っているのを見ると、あの頃は楽しかったなと思ったりする。
出世すると、どうしても管理する仕事が多くなる。
若さにまかせて、とにかくがむしゃらに走り回っていたことが懐かしくなるものだ。

逸見が頭を下げていたのは、2人の編集部員。
1人は昨年エメラルド編集部に配属されたばかりの新人編集、そしてもう1人は最近就任した新編集長。
実は先程、エメラルド編集部から提出された企画書を、営業部が忘れてしまっていたことが発覚した。
エメラルド編集部の2人は、その件で営業部に来ていたのだ。
横澤はそのキーボードを打つ手を止めると、こっそりと彼らのやり取りに注目した。

「本当にごめんね。何せ『ザ☆漢』の方に手を取られてて」
逸見は手を合わせて、もう1度謝罪した。
最近「ザ☆漢」の実写映画が決まり、営業部はそのPRで忙しかったのだ。
企画書を忘れるなんて初歩的な失態を犯したのは、そのせいだ。

「謝る気がないのに、形だけ頭を下げるのはやめていただきたい。」
軽い調子で謝る逸見に、新編集長、小野寺律は、冷たい口調でそう言い放った。
その瞬間、逸見も他の営業部員たちも表情を強張らせた。
整った顔立ちの律は、冷たく睨むだけでかなり怖い。
一気にその場の空気が凍り付いてしまったようだ。

「そういうのは時間の無駄。それよりそちらのせいで狂ったスケジュール、挽回できますか?」
律は冷やかにそう言い放った。
確かに逸見は、丸川では後輩であり、かわいらしい童顔の新編集長を無意識になめていた。
少しあやまれば許してくれるだろうと、軽く考えていたのだ。
逸見は背筋を伸ばすと「すみません。すぐにフォロー案を出します」と、今度こそ本気で頭を下げた。
この勝負は明らかに律の勝ちだった。

律にエメラルドの編集長が務まるのか。
そんな意見が丸川書店内に飛び交っていたことは、横澤も知っている。
律の能力が低いという訳ではなく、高野と羽鳥が偉大過ぎたのだ。
前任の2人に比べて、律は少々力が足りないのではないかと。

だが律はそんな声を力で薙ぎ払っていった。
今回の逸見のように、自分を下に見ていると思う人間には、先輩であろうと関係なく喧嘩を売る。
そのやり方は高野の手法に似ているが、それを踏襲しているわけではない。
高野や羽鳥が苦労して作り上げたノウハウでも、もっといいやり方があればバッサリと捨てているらしい。
むしろ彼らにさえ喧嘩を売っているようなスタンスなのだ。

逸見を黙らせた一件で、律は「白の女王」と呼ばれるようになった。
律は編集長就任以来、白っぽいクリアカラーの服を選んで着ている。
それとあの逸見への空気を凍らせるような睨みを合わせた異名だ。

ったく、こんなに化けるとは。
横澤は、月刊エメラルドの新編集長の手腕を評価せざるを得なかった。
目の敵にしていた時期もあるし、和解して頼もしい若手として期待した時期もある。
だがこんな風に成長するとは誤算だ。
嬉しい気持ちはあるのだが、同じくらいの勢いで呆れている。

ちなみに逸見との件は、吉野が律の異名を耳にする1ヶ月ほど前のことだ。
ここからさらに律には「破壊神」という名も手にすることになる。

*****

「創造主ブラックと破壊神ホワイト。どっちがかっこいいと思います?」
律が挑発的に問いかけると、吉野は困ったように首を傾げる。
そのリアクションを楽しみながら、律は女王のように優雅に微笑んだ。

「何か律っちゃん、すごいあだ名がついてるみたいじゃない?」
ある日の吉野宅での打ち合わせで、吉野は取ってつけたようにそう言った。
相変わらずこの漫画家は、取り繕うのが下手だ。
本人としては、ふと思い出したという感じで質問したのだろうがバレバレ。
本当は聞きたくてたまらないのだろう。

「白の女王、破壊神、ですか?」
律がそう聞き返すと、吉野は「そう。それ!」と身を乗り出してくる。
やっぱり興味津々なのではないか。
律は「吉野さんの耳にまで入ってるんですねぇ」と苦笑する。

白の女王。
それは編集長に就任したばかりのとき、営業の逸見を威嚇した時についた名だ。
白という形容詞には、思い当たる節がある。
黒っぽい服装を好んだ高野や、やはり黒やグレーのスーツが多かった羽鳥。
彼らと一線を画するにはまず格好からと、編集長就任以来、白っぽいクリアカラーの服を選んで着ているのだ。
だけど女王ってのは、何だ。
童顔のせいでなめられるのが嫌で強気な表情を作っているが、やはり女王は納得いかない。

そして破壊神。
律は高野や羽鳥が確立したスタイルでも、気に入らないものはバッサリと変えた。
例えば印刷所との期限の交渉。
高野は毎月、余裕を持った日数を提示し、印刷所はそれでは無理と突っぱねるという手順を踏んでいた。
そこで両者の中間を取る形で期限を決めれば、双方の顔が立つ。
羽鳥もそのやり方を踏襲していた。

だけどそれはある意味、無駄だ。
どちらも最初からこれでは無理だと思える日付を言い、駆け引きをする。
時間にすれば大したことではないが、毎月やるのはバカバカしい。
だから律は最初から絶対に譲れない日を提示し、相手が何を言っても変えなかった。
これで毎月の無駄なやり取りが省けるのだ。

律はその勢いで、高野や羽鳥がやっていたことでも無駄と思うことは次々と切った。
こういう余計なものは壊していく律のスタンスを評して、破壊神の名がついたのだ。
でもこれもまた律は、納得がいかない。
破壊というのはわかるが、なんで神なのか?

「それで白の女王、破壊神かぁ。かっこいい~~♪」
律の説明を聞き終えた吉野が、感嘆している。
そんなにカッコいいものじゃないと、律は思う。
しかも最近は今さらのように高野や羽鳥が「黒の王」とか「創造主」なんて言われていたりするのだ。
これまた意味不明だ。
なんでわざわざ職場を離れた人間に、律の通り名に合わせた呼び名をつけるのか。

「でも律っちゃん、無理してない?」
吉野はふと真面目な表情になって、そう言った。
律は一瞬、その意味を考えて首を傾げる。
編集長になって、高野と羽鳥を越える。
そのためになめられないようにと、選んだのは強気の攻め。
女王だの神だのと言われるほどにつっぱって、疲れないのかということだろう。
それにきっと吉野の担当を続けていることも気にしている。

「無理なんかしてませんよ。むしろ楽しいです。」
律はごく自然にそう答えた。
そこには嘘も無理もない。
編集長として、自分の才覚で本を出せることが嬉しくてたまらないのだ。
吉野の担当の件だって、吉野は魅力的な作家だし、編集長と兼務することで羽鳥越えができる。
白の女王?破壊神?何とでも言うがいい。
今こそ七光りだとか、高野や羽鳥ほどの実力がないとかいうヤツらを見返すチャンスなのだ。
これが楽しくないとしたら、この世に楽しいことなんか1つもない。

「律っちゃんが楽しいなら、別にいいや。その呼び名、ネタにしてもいい?」
「あんまり嬉しくないですけど、売れるならなんでもありです。」
吉野と律は顔を見合わせて、ニンマリと笑う。
知り合った頃は、編集者に頼りっきりの作家と少女漫画に転身したばかりの新人編集者。
だけど今では2人とも、かなり成長したはずだ。
そしてもちろんまだここで足を止める気なんかない。

「創造主ブラックと破壊神ホワイト。どっちがかっこいいと思います?」
律が挑発的に問いかけると、吉野は困ったように首を傾げる。
そのリアクションを楽しみながら、律は女王のように優雅に微笑んだ。

【続く】
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