真夜中5題

【BLOOD CAKTEL】

「俺を挑発しているのか?」
「トリのタイミングが悪いんだろ!」
不意に訪れた羽鳥の問いを、吉野は文句で返した。

客観的に考えても、自分の方が正しいと思う。
確かに吉野はちょうどシャワーを浴びたばかりで、パンツ1枚にタオルを肩に引っかけた状態。
だけど別に羽鳥を挑発しているわけではない。
なぜなら羽鳥は事前連絡なく、いきなり吉野宅に現れたのだから。
しかもドアチャイムを鳴らすこともなく、合鍵で部屋に入ってきた。

「で、何か用事?」
吉野はまだ濡れている髪をガシガシとタオルで拭きながら、キッチンに向かう。
そして冷蔵庫からトマトジュースを取り出すと、ボトルのままゴクゴクと飲んだ。
以前はこういう時飲むのは、水かお茶だった。
その習慣が変わったのは、口うるさい担当編集のせいだ。

少しでも栄養を取ってください。
先生が倒れたら、連載を楽しみにしている読者が悲しみます。
羽鳥の後任の美人担当編集は、エメラルドの伝統を見事に受け継いでいる。
スパルタで、原稿のためなら容赦がない。
だけど読者のためと言いながら、実は吉野の身体のことを心配してくれている。

「大事な話だ」
羽鳥は真面目な口調で、リビングのソファに腰を下ろした。
その言葉に、吉野は思わす背筋が伸びる。
会社帰りなのだろうが、羽鳥はスーツ姿。
そして大事な話ということは、つまり編集長モードなのだ。

「服着てくるから、ちょっと待って」
吉野は羽鳥を残したまま、寝室に駆け込んだ。
慌ててベットに脱ぎっぱなしにしていた服を身につけていく。
そうしながら、何だか妙な予感がしていた。
こういう感じのとき、出てくるのはだいたい悪い話のような気がする。
気難しい顔の編集長は、何を言うのか。
ひょっとして、作品に対するクレームとかだろうか。

「仕事なら、律っちゃんと一緒に来ればいいのに」
思わずポツリと文句がこぼれ出てしまう。
羽鳥の後任の編集者に、吉野は絶対の信頼を置いていた。
それにプライベートでも友情を築いている。
何しろ羽鳥と柳瀬のような元々の知り合い以外で、ニックネームで呼ぶ唯一の仕事関係者だ。
こういうとき一緒にいてくれると心強いのだが。

「お待たせ、編集長!」
吉野は服を身につけると、陽気な振りを装ってリビングに戻った。
羽鳥が仕事で来ているのなら、こちらもプロとして答えなくてはいけないだろう。
親しくても、仕事とプライベートは分けること。
それが現編集者から叩き込まれた教えの1つだ。

*****

「12回目だぞ」
高野は冷やかにそう告げた。
律は「すみません」と言いながら、ため息をつく。
高野はすかさず「13回目」と応じた。

仕事が終わった夜、律は例によって高野の部屋にいた。
だがため息をついてばかりだ。
理由はわかっている。
先日、突然出された文芸への異動の内示。
そのことに律はまだ戸惑っているのだ。

「作家にはまだ言ってないのか?」
「まだです。俺自身が気持ちの整理がついてないのに言えませんよ」
律は異動の内示をうけるかどうか、まだ迷っているようだ。
確かにことわることもできなくはない。
ただそれをすると、上からの覚えが悪くなることは間違いない。

「心配は吉野さんか?トリもお前もいなくなったら、大変だろう」
「まさか。あの人はそんなにヤワじゃないですよ。」
高野は思わず口元を緩めた。
律はきっぱりとそう言い切るのが、頼もしかったのだ。

高野がエメラルドの編集長だった頃、吉野の羽鳥への依存度は尋常ではなかった。
幼なじみが仕事の相棒になり、恋人へと変わった。
だからどうしても普通の漫画家と編集者の関係にならなかったのだ。
その頃の頭があるからだろう。
羽鳥と律がエメ編を去った後のことを考えると、高野は吉野の心配をしてしまう。

だが律はその辺のことは、しっかりやったらしい。
吉野の心配など微塵もしていない様子には、律と吉野、双方の成長が見て取れる。
それなら高野も心配は無用ということだ。
律は自分の将来だけを考えて、迷っているのだから。
納得するまで考えて、悔いのない道を選べばいい。

高野はキッチンに向かうと、グラスに氷を入れた。
作るのはレッドアイ、ビールをトマトジュースで割ったカクテルだ。
律が何かを悩んでいるとき、高野はこれを出してやることが多くなった。
かわいい恋人の困ったところは、酒を飲み始めると止まらないし、酔うとからむ。
考えた末にこれと決めたのが、これだ。
トマトジュースでアルコール度数も薄まるし、何よりただの酒より健康にいい気がする。

「ほらよ」
高野は律のまえに、血のように赤いカクテルを置いてやる。
律は「ありがとうございます」と一礼すると、さっそくグラスを口に運んだ。
実は律の様子を見ながら、少しずつビールの量を減らしたりもする。
いよいよヤバそうなときには、トマトジュースに炭酸水で割ったりするが、律は気づかないようだ。

「俺、これでトマトジュースが好きになりました。吉野さんにもすすめたんですよ。」
律は赤いカクテルを飲みながら、機嫌がいい。
よしよしこの調子。
気持ちよく酔わせて、絡み酒の前で終わらせるのには少々技がいる。

*****

「そう遠からず、小野寺はお前の担当から外れる」
羽鳥は単刀直入にそう告げた。
遠回しな言い方はしない。
吉野はきっと、何事かと身構えているだろうからだ。

「わかってるよ。だってトリ、エメラルドを離れるんだろ?」
吉野は軽い口調でそう答える。
羽鳥がその内示を受けていることは、もう吉野に話してある。
そのときにはまだ律の異動話はなかったから、後任の編集長は律になるだろうと告げていたのだ。
そうなれば手のかかる吉野の担当など、できなくなるだろうと。

「状況が変わったんだ。小野寺にも異動話が出た。俺より先にエメ編を去るかもしれない。」
「え?律っちゃんもトリもいなくなるの?」
「・・・そうだ」
羽鳥が同意すると、微妙な沈黙が落ちた。
エメ編に高野も木佐ももういないし、律と羽鳥も去ろうとしている。
不安を感じるなという方が無理だろう。

「そっか。律っちゃんもいなくなるのか。」
だが吉野は冷静にその事実を受け止めている。
羽鳥はその反応を見ながら、律に感謝していた。
自分が吉野の担当だった時には、吉野を甘やかしてしまっていた。
いや、今思えば自分がいなければ吉野はダメだという状況に酔っていたのかもしれない。
だが律はしっかりと吉野に伝えていた。
吉野の本に関わる出版社や印刷所、書店員たちへの敬意、読者への感謝、そしてプロの作家としての自覚。
だからこそ不安な気持ちを隠して、冷静に応じることができている。

「いずれ小野寺が自分で言うだろう。そのときに動揺しないように先に言ったんだ。」
「うん、ありがとう。」
「余計なお世話だとはわかってるが」
「いや。よかったよ。律っちゃんにはお世話になったから。快く送り出してあげたい。」

吉野は穏やかに微笑している。
その笑顔はカラ元気なのかもしれない。
だけどまぎれもなく、吉野の成長の証だ。

「泊まってくでしょ?律っちゃんとトリの門出を祝って、飲もうよ。」
「そうだな。」
「そうだ。レッドアイ作ろう!最近律っちゃんがハマってるんだって。」
「レッドアイ?トマトジュースのカクテルだよな?」
「そう。ビールのトマトジュース割り。綺麗な赤で、何か血か濃くなった気になるって」
「確かに、ビールを飲むよりも健康によさそうだな。」

羽鳥は頷いて「着替えてくる」と立ち上がった。
ここからはもう恋人モードだから、スーツはいらない。
置かせてもらっている部屋着に着替えて、部屋飲みを楽しむことにしよう。

その前にキッチンの冷蔵庫を開けて、食材をチェックする。
これでできるトマトジュースに合う酒のつまみ。
頭の中で素早く考えながら、羽鳥はネクタイを緩めた。

【続く】
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