真夜中5題
【サヨナラ】
ついに、俺の番か。
律は唐突に目の前に現れた曲がり角に、ただただ困惑していた。
小野寺律が丸川書店に就職してから、早いもので数年。
その間にいろいろなことがあった。
文芸希望だったのに、いきなりエメラルド編集部への配属を命じられた。
これが波乱万丈の始まりだ。
10年振りに初恋の人と再会することになった。
実に1年以上の時間をかけて、もう1度恋に堕ちた。
高野がエメ編を去り、編集長が変わった。
そして木佐が異動になり、その2年後美濃も異動になった。
次々と先輩たちと去っていくのは寂しいが、仕方がないこととも言える。
何しろエメラルドの主な購買層は10代女子なのだ。
年齢を重ねれば、どうしても10代の感性からは遠ざかる。
いくら努力を重ねても、三十路または四十路になれば、無理が出る職場なのだ。
後輩の編集部員たちも何人か入ってきたが、すでに辞めた人間が何人もいる。
これは感性の問題ではなく、仕事がきつくて続かなかったのだ。
こうしていくつものサヨナラを経験して、律もついに三十路を過ぎた。
そうなってみて初めて、木佐が「三十路にはきつい」なんて言っていた気持ちがわかる。
確かに年齢と共に体力は墜ちていくことを痛感するのだ。
そんな日常を送る律は、編集長の羽鳥と共に、編集部の部長に呼び出された。
一応、会社の組織図上では律の上司に当たるが、あまり喋ったことはない。
仕事で直接指示を受けたりするようなことがないからだ。
だから呼び出される理由がまったくわからない。
なにかヘマでもしただろうか。
「文芸の編集部員が、来月で退社することになったんだ。」
会議室で部長と向かい合い、おもむろにそう切り出されて、ようやく理解した。
つまりこれは異動の内示。
律に文芸に移れと言う命令なのだ。
ついに、俺の番か。
律はその事実を、皮肉なことだと思った。
いつかは文芸に行きたいと漠然と考えてはいたが、それはまだ先だと思っていた。
どうしてあんなに文芸に行きたかったあの頃ではなく、今なんだろう?
それに文芸に異動するとなると、いろいろ問題がある。
律は唐突に目の前に現れた曲がり角に、ただただ困惑していた。
*****
よりによって、小野寺か。
羽鳥はあまりのタイミングの悪さに、舌打ちしたい気分だった。
「文芸の編集部員が、来月で退社することになったんだ。」
それは、律の異動の内示だった。
律と一緒に部長に呼ばれて、羽鳥はそれを聞かされた。
エメラルド編集部は、若いからこそ務まる部署ではあると思う。
主な購買層である10代少女の父親くらいの年齢になってしまっては、つらい部分がある。
そういう意味で、律の異動は年齢的にはいいタイミングなのだろう。
「急なことで悪いが、早急に文芸の経験者が欲しい。」
部長の言葉に、律は戸惑っているようだ。
だけど畳み掛けるような口調には、有無を言わせぬものがある。
一応律にも選択権は持たせている。
だけど実際は、余程の理由がない限り、拒否はできないと思う。
実は2週間ほど前、羽鳥自身も異動の内示を受けていた。
そろそろエメラルド編集部を離れて、別の分野で活躍してみないかと。
こちらは急な話ではない。
何しろ編集長ともなれば、引き継がなければならないことも多い。
そして後任をしっかりと育てなければならない。
1年くらい時間をかけて、次の世代に引き渡す予定だったのだ。
だが律の話は違った。
ベテランの文芸担当が急に離れることになったから、とにかくすぐに補充したい。
そこで目をつけられたのが、律だったのだ。
何しろ前の会社では、何人もの大物作家を担当している。
社内で何とかしようと思ったら、これ以上の適任はないのかもしれないが。
よりによって、小野寺か。
羽鳥はあまりのタイミングの悪さに、舌打ちしたい気分だった。
なぜなら自分の次の編集長は、間違いなく律だと思っていたからだ。
木佐も美濃ももういない。
年齢やキャリア、能力をを考えると、律が最適のはずだったのだ。
それに単純に律が抜けることだけを考えても、気が遠くなりそうだ。
今や羽鳥に次いて、エメラルドのナンバー2となった律は、担当も多い。
それに問題が多い作家を一手に引き受けているのだ。
この穴を受けるだけでも、かなり大変だ。
「考えておいてくれ。」
部長の言葉で、この面談は終わった。
羽鳥は律や部長に気取られないように、心の中でため息をつくしかなかった。
*****
「何だ、その仏頂面は」
高野は恋人の不機嫌な表情に、不満を漏らしていた。
「ただいま」
玄関のドアが開き、律が帰宅した。
先に帰って、食事の支度をしていた高野は「おかえり」と答えた。
相変わらず隣同士に住む高野と律だが、夜はほぼ高野の部屋で過ごしている。
会社から帰宅するのも、朝出て行くのも、高野の部屋。
ほとんど同棲状態で、律の部屋は物置になりつつあった。
「高野さんは、知ってたんですか?」
律は靴を脱ぐなり、高野に質問を浴びせた。
何のことかはだいたい見当がつく。
どこか責めるような目をしているし、多分間違いない。
「何だ、その仏頂面は」
高野は恋人の不機嫌な表情に、不満を漏らしていた。
質問に答える前に、そこだけはツッコんでおきたかったのだ。
当の律は「別に顔は関係ないでしょ」と素っ気ない。
「質問に答えると、事前に何か聞いてたわけじゃない。でもこうなるかなとは思ってた。」
その言葉に、律は「なるほど」と頷いた。
高野は1年ほど前、週刊誌の編集長から文芸に移っていた。
つまり律が内示通りに異動を果たせば、再び同じ職場で働くことになる。
文芸の人手不足は深刻だった。
ここ最近、本を読む人間が減っているのだと痛感してしまう。
そんな中で、ベテラン編集部員の1人が退社することになった。
とにかく即戦力が欲しいと、上層部に打診していたのだ。
以前の会社で文芸を担当していた律が候補に挙がるのは、予想の範囲内だ。
「俺の表情だけで、質問の内容までバレちゃうんですね。」
苦笑する律に、高野はドヤ顔で「まぁな」と答えてやった。
それ以上、言うことはない。
もしこのまま内示が確定すれば、律にとって初めての異動になる。
これはこれで編集者として、いい経験になるだろう。
こうしてサヨナラを繰り返して、成長していく。
「それにしても」
高野は思わずひとりごちた。
まだ律は知らないだろうが、羽鳥にも異動の話があることは知っている。
羽鳥本人が、エメラルドを離れた時のことなど高野の体験談を聞きに来たからだ。
まったくこの2人が同時期に離れたら、エメラルドはかなり大変なのではなかろうか。
もう1つふと思ったのは、吉川千春こと吉野千秋のことだ。
高野がいた頃には、羽鳥にかなり依存していたような気がする。
それに今は、律も手を焼いているようだ。
羽鳥と律が編集部を去ったら、作品に影響しないだろうか。
「何か言いました?」
律にそう問われて、高野は「いや、何でもない」と受け流した。
今や部外者である高野に、できることはないからだ。
【続く】
ついに、俺の番か。
律は唐突に目の前に現れた曲がり角に、ただただ困惑していた。
小野寺律が丸川書店に就職してから、早いもので数年。
その間にいろいろなことがあった。
文芸希望だったのに、いきなりエメラルド編集部への配属を命じられた。
これが波乱万丈の始まりだ。
10年振りに初恋の人と再会することになった。
実に1年以上の時間をかけて、もう1度恋に堕ちた。
高野がエメ編を去り、編集長が変わった。
そして木佐が異動になり、その2年後美濃も異動になった。
次々と先輩たちと去っていくのは寂しいが、仕方がないこととも言える。
何しろエメラルドの主な購買層は10代女子なのだ。
年齢を重ねれば、どうしても10代の感性からは遠ざかる。
いくら努力を重ねても、三十路または四十路になれば、無理が出る職場なのだ。
後輩の編集部員たちも何人か入ってきたが、すでに辞めた人間が何人もいる。
これは感性の問題ではなく、仕事がきつくて続かなかったのだ。
こうしていくつものサヨナラを経験して、律もついに三十路を過ぎた。
そうなってみて初めて、木佐が「三十路にはきつい」なんて言っていた気持ちがわかる。
確かに年齢と共に体力は墜ちていくことを痛感するのだ。
そんな日常を送る律は、編集長の羽鳥と共に、編集部の部長に呼び出された。
一応、会社の組織図上では律の上司に当たるが、あまり喋ったことはない。
仕事で直接指示を受けたりするようなことがないからだ。
だから呼び出される理由がまったくわからない。
なにかヘマでもしただろうか。
「文芸の編集部員が、来月で退社することになったんだ。」
会議室で部長と向かい合い、おもむろにそう切り出されて、ようやく理解した。
つまりこれは異動の内示。
律に文芸に移れと言う命令なのだ。
ついに、俺の番か。
律はその事実を、皮肉なことだと思った。
いつかは文芸に行きたいと漠然と考えてはいたが、それはまだ先だと思っていた。
どうしてあんなに文芸に行きたかったあの頃ではなく、今なんだろう?
それに文芸に異動するとなると、いろいろ問題がある。
律は唐突に目の前に現れた曲がり角に、ただただ困惑していた。
*****
よりによって、小野寺か。
羽鳥はあまりのタイミングの悪さに、舌打ちしたい気分だった。
「文芸の編集部員が、来月で退社することになったんだ。」
それは、律の異動の内示だった。
律と一緒に部長に呼ばれて、羽鳥はそれを聞かされた。
エメラルド編集部は、若いからこそ務まる部署ではあると思う。
主な購買層である10代少女の父親くらいの年齢になってしまっては、つらい部分がある。
そういう意味で、律の異動は年齢的にはいいタイミングなのだろう。
「急なことで悪いが、早急に文芸の経験者が欲しい。」
部長の言葉に、律は戸惑っているようだ。
だけど畳み掛けるような口調には、有無を言わせぬものがある。
一応律にも選択権は持たせている。
だけど実際は、余程の理由がない限り、拒否はできないと思う。
実は2週間ほど前、羽鳥自身も異動の内示を受けていた。
そろそろエメラルド編集部を離れて、別の分野で活躍してみないかと。
こちらは急な話ではない。
何しろ編集長ともなれば、引き継がなければならないことも多い。
そして後任をしっかりと育てなければならない。
1年くらい時間をかけて、次の世代に引き渡す予定だったのだ。
だが律の話は違った。
ベテランの文芸担当が急に離れることになったから、とにかくすぐに補充したい。
そこで目をつけられたのが、律だったのだ。
何しろ前の会社では、何人もの大物作家を担当している。
社内で何とかしようと思ったら、これ以上の適任はないのかもしれないが。
よりによって、小野寺か。
羽鳥はあまりのタイミングの悪さに、舌打ちしたい気分だった。
なぜなら自分の次の編集長は、間違いなく律だと思っていたからだ。
木佐も美濃ももういない。
年齢やキャリア、能力をを考えると、律が最適のはずだったのだ。
それに単純に律が抜けることだけを考えても、気が遠くなりそうだ。
今や羽鳥に次いて、エメラルドのナンバー2となった律は、担当も多い。
それに問題が多い作家を一手に引き受けているのだ。
この穴を受けるだけでも、かなり大変だ。
「考えておいてくれ。」
部長の言葉で、この面談は終わった。
羽鳥は律や部長に気取られないように、心の中でため息をつくしかなかった。
*****
「何だ、その仏頂面は」
高野は恋人の不機嫌な表情に、不満を漏らしていた。
「ただいま」
玄関のドアが開き、律が帰宅した。
先に帰って、食事の支度をしていた高野は「おかえり」と答えた。
相変わらず隣同士に住む高野と律だが、夜はほぼ高野の部屋で過ごしている。
会社から帰宅するのも、朝出て行くのも、高野の部屋。
ほとんど同棲状態で、律の部屋は物置になりつつあった。
「高野さんは、知ってたんですか?」
律は靴を脱ぐなり、高野に質問を浴びせた。
何のことかはだいたい見当がつく。
どこか責めるような目をしているし、多分間違いない。
「何だ、その仏頂面は」
高野は恋人の不機嫌な表情に、不満を漏らしていた。
質問に答える前に、そこだけはツッコんでおきたかったのだ。
当の律は「別に顔は関係ないでしょ」と素っ気ない。
「質問に答えると、事前に何か聞いてたわけじゃない。でもこうなるかなとは思ってた。」
その言葉に、律は「なるほど」と頷いた。
高野は1年ほど前、週刊誌の編集長から文芸に移っていた。
つまり律が内示通りに異動を果たせば、再び同じ職場で働くことになる。
文芸の人手不足は深刻だった。
ここ最近、本を読む人間が減っているのだと痛感してしまう。
そんな中で、ベテラン編集部員の1人が退社することになった。
とにかく即戦力が欲しいと、上層部に打診していたのだ。
以前の会社で文芸を担当していた律が候補に挙がるのは、予想の範囲内だ。
「俺の表情だけで、質問の内容までバレちゃうんですね。」
苦笑する律に、高野はドヤ顔で「まぁな」と答えてやった。
それ以上、言うことはない。
もしこのまま内示が確定すれば、律にとって初めての異動になる。
これはこれで編集者として、いい経験になるだろう。
こうしてサヨナラを繰り返して、成長していく。
「それにしても」
高野は思わずひとりごちた。
まだ律は知らないだろうが、羽鳥にも異動の話があることは知っている。
羽鳥本人が、エメラルドを離れた時のことなど高野の体験談を聞きに来たからだ。
まったくこの2人が同時期に離れたら、エメラルドはかなり大変なのではなかろうか。
もう1つふと思ったのは、吉川千春こと吉野千秋のことだ。
高野がいた頃には、羽鳥にかなり依存していたような気がする。
それに今は、律も手を焼いているようだ。
羽鳥と律が編集部を去ったら、作品に影響しないだろうか。
「何か言いました?」
律にそう問われて、高野は「いや、何でもない」と受け流した。
今や部外者である高野に、できることはないからだ。
【続く】
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