夜5題
【食べて?】
「今までありがとうございました。」
木佐は一同に向かって、頭を下げる。
湧き上がった温かい拍手が、今までの仕事を称えてくれているようで嬉しかった。
今月も何とか入稿を終えた翌日。
エメラルド編集部を去ることになった木佐翔太の送別会が開催された。
場所は丸川書店近くのダイニングバーだ。
木佐がこの店に入ったのは初めてだ。
会社の近くなのだが、最近オープンしたばかりの店なのだ。
律っちゃんも大人になったなぁ。
木佐は甲斐甲斐しく働く律を見ながら、頬を緩めた。
エメラルド編集部に来たばかりの頃は、飲み会の幹事なんて仕事は苦手そうに見えた。
事実「何で俺が」とぶつぶつ言っていたと思う。
だけど今は頼もしいものだ。
自分から幹事を引き受けて、店決めから仕切りまで立派にこなしている。
参加メンバーも、木佐が最後に礼を言いたい人を集めてくれている。
エメラルド編集部の面々と、前編集長の高野、そして営業の横澤と逸見。
メニューも、木佐の好きなものが多かったりするのだ。
まったく頼もしく成長したものだ。
「律っちゃん、働いてばかりいないで、ちゃんと食べて?」
木佐はくすぐったいような思いで、そう声をかけた。
幹事として動き回っているせいで、食事ができないとしたらかわいそうだ。
律が「大丈夫、食べてますよ」と答えた時、見知った人間が店に現れた。
「みなさん、吉野さんがいらっしゃいました~!」
会が盛り上がってきた中盤、律は声を張り上げた。
吉川千春こと吉野千秋が、遅れて店に現れたのだ。
木佐は最後の何か月かで、担当作家を全て残るメンバーに割り振った。
そして入稿前の修羅場は、いつも吉野の原稿を手伝っていたのだ。
今まで担当した作家たちには挨拶をすませたが、吉野とは何となくそのままになっていた。
この場でちゃんと挨拶できるから、木佐としてもありがたい。
だが次の瞬間、吉野の後ろから入ってきた人物を見た木佐は、思わず固まってしまった。
「え!?ええ~!?」
驚きの声が止まらない。
なぜなら吉野と談笑しながら現れた人物は、間違いなく木佐の恋人だからだ。
しかも花束など抱えていたりするから、王子様のような容貌がますます目立つ。
「偶然会ったんで、誘っちゃいました。」
吉野がそう告げると、雪名が「飛び入りです」と応じる。
律も素知らぬ顔で「雪名さんも来てくれたんですか?」なんて言っている。
だけどこれは間違いなく確信犯だ。
律っちゃん、やってくれるなぁ。
木佐は思わず律の顔を見た。
律は思いっきりのドヤ顔で、視線を合わせてくる。
吉野、そして雪名まで巻き込んで、してやられたのだ。
だけど最後だし、面白いからいいか。
木佐はそう思い直した。
律と吉野の恋人を言い当てた仕返しを、まんまとされたわけだが、不思議と気分は悪くない。
それより漫画編集としての最後を、雪名に見送られることが嬉しかった。
*****
「それじゃ、行きましょう!」
吉野は勢い込んで、そう告げた。
これは大事なミッション、失敗は許されない。
木佐の送別会が始まる1時間ほど前。
吉野は律から、1つのミッションを言い渡されていた。
それは木佐の恋人である雪名を連れて、送別会に合流することだ。
そして雪名とは偶然会って、誘ったという体を整える。
木佐の恋人が、あのブックスまりもの店員だということには驚いた。
律も、勝手に吉野に教えていいのか少し迷ったようだ。
だけど木佐は吉野の相手をすでに知っている。
それならばと律は、木佐の恋人の名を教えてくれたのだ。
吉野は作家としてサイン会などをすることはなかったから、雪名と言われてもピンと来なかった。
だけどブックスまりもの名物店員だと言われて、すぐにわかった。
吉野もあの書店で「ザ☆漢」を何度も買っており、王子様のような店員には見覚えがあったのだ。
事前の準備で、吉野は律と共にブックスまりもに出向いて、雪名に会った。
そして木佐の送別会当日、遅れて参加する吉野と偶然出会った素振りで参加してほしいと頼んだ。
そんな偶然を装うのは、もちろん木佐のためだ。
ごくごく内輪の飲み会に、いきなり雪名が参加するのは不自然すぎる。
万が一にも、木佐と雪名の関係を勘ぐられないように。
それを面倒だとは思わなかった。
木佐の漫画編集の締めくくりに、雪名という花を添えたかったからだ。
「木佐さんへのサプライズ!ですか」
雪名はいきなり現れた律と吉野に、かなり驚いていた。
しかも自分と木佐との関係を知っていると聞かされれば、警戒もする。
それでも送別会でサプライズ登場してほしいと頼んだら、2つ返事で快諾したのだった。
そして送別会当日、吉野と雪名は開始1時間前に待ち合わせていた。
花屋に立ち寄り、花束を買ってから、遅れて参加する。
いきなり恋人が現れて、花束を渡されたら、木佐はかなり驚くだろう。
それが律が立案し、吉野が実行する木佐へのサプライズだった。
「でも本当に俺が参加しちゃっていいんスかね?」
大きな花束を抱えて、送別会の店に向かいながら、雪名は少し迷っているようだ。
吉野は「いいに決まってるよ!」と笑顔で答えた。
「木佐さんが喜ぶよ。主役がいい気分で終われば、問題ないって!」
「そんなもんですかね?でも仕事関係の話とかもできないんスけど」
「だったらたくさん飲んで食べて?食事1回、儲かったと思えばいいと思う。」
能天気な吉野の発言に、雪名が笑う。
そして2人は、意気揚々と送別会が行われているダイニングバーに向かった。
後は他の参加者の手前、うまく偶然出会ったことを装えればいい。
「それじゃ、行きましょう!」
吉野は勢い込んで、そう告げた。
これは大事なミッション、失敗は許されない。
*****
サプライズ、成功!
律は驚いている木佐の顔を見て、頬を緩ませた。
木佐がついにエメラルド編集部を去る。
それは律にとって初めての、先輩との別れだった。
その前に高野がエメラルド編集部を離れているが、意味合いは全然違う。
エメラルドでは、高野は先輩というよりは上司だった。
しかも恋人で隣に住んでいて、今も夜はほぼ毎晩一緒にいる。
だから厳粛な気持ちで先輩を送り出すのは、初めての経験なのだ。
一方で、先日木佐の恋人が誰だか知ってしまったことがある。
そしてそれ以前に、律と高野の関係を見抜かれていたことも。
だったら最後の最後で、ちょっとしたサプライズを仕掛けてみよう。
そこで吉野と共に、秘かに準備を進めてきたのだ。
「木佐さんに花束を渡していただけますか?」
律は遅れて現れた吉野が連れて来た雪名に、シレッとそう告げた。
会の他の参加者たちも、雪名とは顔見知りばかり。
しかも適度に酒が入っているから、誰も雪名の登場に不審を抱いていないようだ。
「わかりました。」
雪名は律に向かって頷くと、花束を持って木佐の前に進み出た。
その姿はまるで姫にプロポーズする王子様だ。
そして蕩けそうな笑みを浮かべて「お疲れ様でした」と花束を渡す。
木佐が呆然と花束を受け取っているのを見て、律は計画が成功したことを確信したのだった。
「吉野さん、ありがとうございました。」
送別会は2次会までつつがなく終わり、木佐と雪名が寄り添うように帰っていく。
それを見送った律は、羽鳥と一緒に帰ろうとしていた吉野を呼び止めて、礼を言った。
吉野がいなければ、さりげなく雪名を参加させることはできなかったと思う。
「いえ。俺も木佐さんにサプライズしたかったし。」
「だったらよかったです。」
律と吉野は顔を見合わせて笑う。
作家と担当編集というよりは、共犯者の笑みだ。
「そうだ、小野寺さん。お願いがあるんですけど。」
「何です?」
「俺も『律っちゃん』って呼んでいいですか?」
律は一瞬、言葉に詰まった。
木佐が律を呼ぶときに使っていた呼称。
最初は何だか子ども扱いされているようで、嫌だった。
だけど今はそんなに悪くないと思っている。
もうこの呼び方をする人はいなくなってしまった。
だったら吉野が使ったところで、何の問題もない。
「もちろんかまいませんよ。」
「じゃ、律っちゃん。これからよろしく。」
吉野が差し出す手に、律も手を差し伸べた。
そして固い握手と共に、この夜はお開きになった。
【終】「真夜中5題」に続きます。
「今までありがとうございました。」
木佐は一同に向かって、頭を下げる。
湧き上がった温かい拍手が、今までの仕事を称えてくれているようで嬉しかった。
今月も何とか入稿を終えた翌日。
エメラルド編集部を去ることになった木佐翔太の送別会が開催された。
場所は丸川書店近くのダイニングバーだ。
木佐がこの店に入ったのは初めてだ。
会社の近くなのだが、最近オープンしたばかりの店なのだ。
律っちゃんも大人になったなぁ。
木佐は甲斐甲斐しく働く律を見ながら、頬を緩めた。
エメラルド編集部に来たばかりの頃は、飲み会の幹事なんて仕事は苦手そうに見えた。
事実「何で俺が」とぶつぶつ言っていたと思う。
だけど今は頼もしいものだ。
自分から幹事を引き受けて、店決めから仕切りまで立派にこなしている。
参加メンバーも、木佐が最後に礼を言いたい人を集めてくれている。
エメラルド編集部の面々と、前編集長の高野、そして営業の横澤と逸見。
メニューも、木佐の好きなものが多かったりするのだ。
まったく頼もしく成長したものだ。
「律っちゃん、働いてばかりいないで、ちゃんと食べて?」
木佐はくすぐったいような思いで、そう声をかけた。
幹事として動き回っているせいで、食事ができないとしたらかわいそうだ。
律が「大丈夫、食べてますよ」と答えた時、見知った人間が店に現れた。
「みなさん、吉野さんがいらっしゃいました~!」
会が盛り上がってきた中盤、律は声を張り上げた。
吉川千春こと吉野千秋が、遅れて店に現れたのだ。
木佐は最後の何か月かで、担当作家を全て残るメンバーに割り振った。
そして入稿前の修羅場は、いつも吉野の原稿を手伝っていたのだ。
今まで担当した作家たちには挨拶をすませたが、吉野とは何となくそのままになっていた。
この場でちゃんと挨拶できるから、木佐としてもありがたい。
だが次の瞬間、吉野の後ろから入ってきた人物を見た木佐は、思わず固まってしまった。
「え!?ええ~!?」
驚きの声が止まらない。
なぜなら吉野と談笑しながら現れた人物は、間違いなく木佐の恋人だからだ。
しかも花束など抱えていたりするから、王子様のような容貌がますます目立つ。
「偶然会ったんで、誘っちゃいました。」
吉野がそう告げると、雪名が「飛び入りです」と応じる。
律も素知らぬ顔で「雪名さんも来てくれたんですか?」なんて言っている。
だけどこれは間違いなく確信犯だ。
律っちゃん、やってくれるなぁ。
木佐は思わず律の顔を見た。
律は思いっきりのドヤ顔で、視線を合わせてくる。
吉野、そして雪名まで巻き込んで、してやられたのだ。
だけど最後だし、面白いからいいか。
木佐はそう思い直した。
律と吉野の恋人を言い当てた仕返しを、まんまとされたわけだが、不思議と気分は悪くない。
それより漫画編集としての最後を、雪名に見送られることが嬉しかった。
*****
「それじゃ、行きましょう!」
吉野は勢い込んで、そう告げた。
これは大事なミッション、失敗は許されない。
木佐の送別会が始まる1時間ほど前。
吉野は律から、1つのミッションを言い渡されていた。
それは木佐の恋人である雪名を連れて、送別会に合流することだ。
そして雪名とは偶然会って、誘ったという体を整える。
木佐の恋人が、あのブックスまりもの店員だということには驚いた。
律も、勝手に吉野に教えていいのか少し迷ったようだ。
だけど木佐は吉野の相手をすでに知っている。
それならばと律は、木佐の恋人の名を教えてくれたのだ。
吉野は作家としてサイン会などをすることはなかったから、雪名と言われてもピンと来なかった。
だけどブックスまりもの名物店員だと言われて、すぐにわかった。
吉野もあの書店で「ザ☆漢」を何度も買っており、王子様のような店員には見覚えがあったのだ。
事前の準備で、吉野は律と共にブックスまりもに出向いて、雪名に会った。
そして木佐の送別会当日、遅れて参加する吉野と偶然出会った素振りで参加してほしいと頼んだ。
そんな偶然を装うのは、もちろん木佐のためだ。
ごくごく内輪の飲み会に、いきなり雪名が参加するのは不自然すぎる。
万が一にも、木佐と雪名の関係を勘ぐられないように。
それを面倒だとは思わなかった。
木佐の漫画編集の締めくくりに、雪名という花を添えたかったからだ。
「木佐さんへのサプライズ!ですか」
雪名はいきなり現れた律と吉野に、かなり驚いていた。
しかも自分と木佐との関係を知っていると聞かされれば、警戒もする。
それでも送別会でサプライズ登場してほしいと頼んだら、2つ返事で快諾したのだった。
そして送別会当日、吉野と雪名は開始1時間前に待ち合わせていた。
花屋に立ち寄り、花束を買ってから、遅れて参加する。
いきなり恋人が現れて、花束を渡されたら、木佐はかなり驚くだろう。
それが律が立案し、吉野が実行する木佐へのサプライズだった。
「でも本当に俺が参加しちゃっていいんスかね?」
大きな花束を抱えて、送別会の店に向かいながら、雪名は少し迷っているようだ。
吉野は「いいに決まってるよ!」と笑顔で答えた。
「木佐さんが喜ぶよ。主役がいい気分で終われば、問題ないって!」
「そんなもんですかね?でも仕事関係の話とかもできないんスけど」
「だったらたくさん飲んで食べて?食事1回、儲かったと思えばいいと思う。」
能天気な吉野の発言に、雪名が笑う。
そして2人は、意気揚々と送別会が行われているダイニングバーに向かった。
後は他の参加者の手前、うまく偶然出会ったことを装えればいい。
「それじゃ、行きましょう!」
吉野は勢い込んで、そう告げた。
これは大事なミッション、失敗は許されない。
*****
サプライズ、成功!
律は驚いている木佐の顔を見て、頬を緩ませた。
木佐がついにエメラルド編集部を去る。
それは律にとって初めての、先輩との別れだった。
その前に高野がエメラルド編集部を離れているが、意味合いは全然違う。
エメラルドでは、高野は先輩というよりは上司だった。
しかも恋人で隣に住んでいて、今も夜はほぼ毎晩一緒にいる。
だから厳粛な気持ちで先輩を送り出すのは、初めての経験なのだ。
一方で、先日木佐の恋人が誰だか知ってしまったことがある。
そしてそれ以前に、律と高野の関係を見抜かれていたことも。
だったら最後の最後で、ちょっとしたサプライズを仕掛けてみよう。
そこで吉野と共に、秘かに準備を進めてきたのだ。
「木佐さんに花束を渡していただけますか?」
律は遅れて現れた吉野が連れて来た雪名に、シレッとそう告げた。
会の他の参加者たちも、雪名とは顔見知りばかり。
しかも適度に酒が入っているから、誰も雪名の登場に不審を抱いていないようだ。
「わかりました。」
雪名は律に向かって頷くと、花束を持って木佐の前に進み出た。
その姿はまるで姫にプロポーズする王子様だ。
そして蕩けそうな笑みを浮かべて「お疲れ様でした」と花束を渡す。
木佐が呆然と花束を受け取っているのを見て、律は計画が成功したことを確信したのだった。
「吉野さん、ありがとうございました。」
送別会は2次会までつつがなく終わり、木佐と雪名が寄り添うように帰っていく。
それを見送った律は、羽鳥と一緒に帰ろうとしていた吉野を呼び止めて、礼を言った。
吉野がいなければ、さりげなく雪名を参加させることはできなかったと思う。
「いえ。俺も木佐さんにサプライズしたかったし。」
「だったらよかったです。」
律と吉野は顔を見合わせて笑う。
作家と担当編集というよりは、共犯者の笑みだ。
「そうだ、小野寺さん。お願いがあるんですけど。」
「何です?」
「俺も『律っちゃん』って呼んでいいですか?」
律は一瞬、言葉に詰まった。
木佐が律を呼ぶときに使っていた呼称。
最初は何だか子ども扱いされているようで、嫌だった。
だけど今はそんなに悪くないと思っている。
もうこの呼び方をする人はいなくなってしまった。
だったら吉野が使ったところで、何の問題もない。
「もちろんかまいませんよ。」
「じゃ、律っちゃん。これからよろしく。」
吉野が差し出す手に、律も手を差し伸べた。
そして固い握手と共に、この夜はお開きになった。
【終】「真夜中5題」に続きます。
5/5ページ