夜５題
【おやすみ】
入稿前の修羅場は、何度経験しても好きになれない。
だけどもうこれで終わりかと思うと、名残惜しい気になるから不思議だ。
木佐翔太は来月末で、エメラルド編集部を去ることが決まっている。
数日後には新しい編集部員が入ることになっており、来月はきっと引継ぎが主な仕事になるだろう。
だけどのんびりと余韻を楽しませてくれるほど、エメ編は甘くない。
最後の最後までこき使われるだろうし、木佐もそれでいいと思っている。
今日は入稿日で、例によってデット入稿の吉川千春の手伝いをしていた。
当初の締切は午前中だったのだが、遅れに遅れて日付を跨いだ。
入稿前の修羅場は、何度経験しても好きになれない。
だけどもうこれで終わりかと思うと、名残惜しい気になるから不思議だ。
そしてそろそろ夜が明けはじめるだろう午前３時過ぎに、原稿は上がったのだった。
木佐は吉川千春こと吉野、そしてその担当の律と共に、作業をしていた会議室にいた。
吉野のアシスタントの３名の女性は、タクシーで帰宅した。
そして売れっ子プロアシの柳瀬は、何とこの時間に伊集院響氏の仕事場へ直行。
木佐も帰ろうとしたが、律が「俺、眠すぎて動けません」と言い出した。
「会議室は朝まで押さえてるんで、２時間ほどここで寝て始発で帰ります。」
律はそう言って、机に突っ伏している。
確かに高野がエメラルド編集部を去ってから補充もなく、木佐もまた去ろうとしている。
羽鳥、美濃、律の仕事量は、未だかつてないほど多いのだ。
ここで少し仮眠したい気持ちは、充分に理解できる。
「じゃあ俺もそうしようかな。」
木佐もその案に相乗りすることにした。
口に出して言うつもりはないが、３０歳を過ぎてから、徹夜仕事は身体、特に胃に堪えるようになった。
この状態でタクシーに乗るよりは、少し休んで電車で帰る方が身体に優しい気がする。
すると吉野も「俺もそうします」と言い出した。
木佐は律からも吉野からも離れた席に移動した。
幸い広い会議室に３人、お互いが気にならない距離を取ることができる。
ではおやすみと目を閉じようとした瞬間、机に突っ伏していた律がムクリと顔を上げた。
トロンとした目で木佐を見つめると、おもむろに口を開く。
「そういえば木佐さん、どうして美術誌への異動なんです？」
死ぬほどの眠気に襲われている今、その質問？
木佐は思わずつっこみたくなったが、そう言えばそういう話は一切していないことに気付いた。
今、ここで誤魔化すことは、そんなに難しくない。
だけどこの丸川出版にいる限り、おそらく木佐の事情はバレてしまうだろう。
だったら今ここでわざとらしい嘘などついても無駄だ。
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はするりとそう答えた。
言ってしまえば、簡単なことだ。
木佐はそのまま目を閉じて、眠りに落ちそうになる。
だが次の瞬間、律と吉野の「え～！？」という叫びに、飛び起きることになった。
＊＊＊＊＊
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はごく自然にそう答えた。
それを聞いた律と吉野は「え～！？」と絶叫していた。
ここ最近、吉野の原稿は特に遅れがちだ。
最近始まった新連載は、吉野の今までの作風とかなり違う。
吉野はまだそれに慣れずに、悪戦苦闘しているのだ。
だからどうしても筆の進みが遅くなるのだろう。
そしてデット入稿のフォローをしてくれるのは、もうすぐエメラルドを去ることになっている木佐だった。
木佐の担当作家は他の編集部員に割り振りつつあるので、一番余裕があるのだ。
「そういえば木佐さん、どうして美術誌への異動なんです？」
今回も何とか入稿を終えた午前３時過ぎ、すっかりおやすみモードになった律はそう聞いた。
何となく気になっていたのだ。
少女漫画から美術誌への異動なんて、前代未聞だ。
しかも美術は、美大を卒業した者を主に採用する。
木佐が異動を希望した時、かなり物議を醸したとも聞いている。
どうしてわざわざそんな道を選ぶことにしたのかと。
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はごく自然にそう答えた。
それを聞いた律と吉野は「え～！？」と絶叫していた。
なんでそんな重大事項を「どら焼き食べる？」っていうのと変わらない口調で言うのか。
「木佐さんの恋人って、画家さんなんですか！？」
「正確には画家の卵。あいつがいっぱしの画家になる前に、１人前の美術編集になりたいんだ。」
「すごい。ステキなお話です！」
いつの間にか吉野も身を乗り出しており、会話に割り込んできた。
おそらく漫画のネタにならないかと考えているのだろう。
「ああ、律っちゃんも知ってる人だよ。」
木佐は楽しそうにそう付け加えた。
その言葉に律は首を傾げた。
律と木佐の共通の知り合いは、作家か丸川書店の社員、もしくは印刷所か書店の人間だ。
画家の卵なんて、いないはずなのだが。
「それじゃもう１つヒント。俺の恋人も２人と同じだよ。」
「え？どういうことです？」
「だ・か・ら。男の人だってこと！」
「え～！？」
律は吉野と共に、もう１度絶叫することになった。
そして思わず吉野と顔を見合わせて「嘘ぉ！」と声を上げてしまう。
俺の恋人のこと、バレてる？
それに吉野さんの恋人も男の人？
律はただただ混乱しており、吉野も同じ理由で混乱していることに気付く余裕もなかった。
木佐はそんな２人を見比べながら「え？まさか知らなかった？」と驚いている。
ちなみに木佐の恋人が「ブックスまりも」の王子様のような店員だと知るのは、もう少し後のこと。
彼の初めての画集が、木佐の手によって出版されたことによってだ。
＊＊＊＊＊
「俺の恋人も２人と同じだよ。だ・か・ら。男の人だってこと！」
バレてる。どうして。
木佐の衝撃的な告白に、吉野は「え～！？嘘ぉ！」と叫んだ後、言葉も出なかった。
ようやく入稿を終えた後、吉野はさっさと帰りたかった。
だけど迷惑をかけた２人の編集者が、始発まで仮眠すると言う。
吉野のせいで振り回した２人を差し置いて、１人タクシーに乗ることは躊躇われた。
だけど残ってよかったと思う。
ここ最近手伝ってくれて、ニコニコと優しい編集者、木佐。
彼の思いもよらない恋愛話が聞けたのだから。
これは漫画のネタになりそうだ。
だがその矢先、木佐はとんでもないことを言い出したのだ。
「俺の恋人も２人と同じだよ。だ・か・ら。男の人だってこと！」
バレてる。どうして。
木佐の衝撃的な告白に、吉野は「え～！？嘘ぉ！」と叫んだ後、言葉も出なかった。
「小野寺さんの恋人さんも。。。男。。。の方ですか？」
ようやく我に返った吉野は、恐る恐る口を開く。
すると律は「吉野さんも、ですか？」と聞き返してきた。
もはや木佐の恋愛どころの話ではない。
吉野は律と顔を見合わせたまま、口をパクパクさせる。
聞きたいことはあるのだが、言葉が出ないのだ。
「うわ。こんなにわかりやすいのに、２人とも鈍すぎ」
「えぇ！？そんな！！」
木佐の言葉に、律がオロオロと答えている。
吉野はそんな２人のやり取りを、呆然と聞いていた。
「これ以上は教えてあげない。じゃあ、おやすみ！」
木佐はそのまま机に突っ伏して、寝てしまった。
疲れているせいだろう。
すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
だが吉野は眠れそうもないし、おそらくは律もそうなのだろう。
律の恋人。
木佐が気付いたということは、丸川書店の関係者だ。
また木佐は、吉野も気付いていると思っていたらしい。
だとしたらエメラルド編集部の関係者。
そんな風に消去法で考えると、思い当たる人物が１人いる。
そしてまた律も同じ考え方で、吉野の恋人に行き付いていることだろう。
吉野はもう１度、律を見た。
律も困ったような顔でこちらを見ている。
衝撃の事実発覚に、２人ともなすすべがないのだ。
【続く】
入稿前の修羅場は、何度経験しても好きになれない。
だけどもうこれで終わりかと思うと、名残惜しい気になるから不思議だ。
木佐翔太は来月末で、エメラルド編集部を去ることが決まっている。
数日後には新しい編集部員が入ることになっており、来月はきっと引継ぎが主な仕事になるだろう。
だけどのんびりと余韻を楽しませてくれるほど、エメ編は甘くない。
最後の最後までこき使われるだろうし、木佐もそれでいいと思っている。
今日は入稿日で、例によってデット入稿の吉川千春の手伝いをしていた。
当初の締切は午前中だったのだが、遅れに遅れて日付を跨いだ。
入稿前の修羅場は、何度経験しても好きになれない。
だけどもうこれで終わりかと思うと、名残惜しい気になるから不思議だ。
そしてそろそろ夜が明けはじめるだろう午前３時過ぎに、原稿は上がったのだった。
木佐は吉川千春こと吉野、そしてその担当の律と共に、作業をしていた会議室にいた。
吉野のアシスタントの３名の女性は、タクシーで帰宅した。
そして売れっ子プロアシの柳瀬は、何とこの時間に伊集院響氏の仕事場へ直行。
木佐も帰ろうとしたが、律が「俺、眠すぎて動けません」と言い出した。
「会議室は朝まで押さえてるんで、２時間ほどここで寝て始発で帰ります。」
律はそう言って、机に突っ伏している。
確かに高野がエメラルド編集部を去ってから補充もなく、木佐もまた去ろうとしている。
羽鳥、美濃、律の仕事量は、未だかつてないほど多いのだ。
ここで少し仮眠したい気持ちは、充分に理解できる。
「じゃあ俺もそうしようかな。」
木佐もその案に相乗りすることにした。
口に出して言うつもりはないが、３０歳を過ぎてから、徹夜仕事は身体、特に胃に堪えるようになった。
この状態でタクシーに乗るよりは、少し休んで電車で帰る方が身体に優しい気がする。
すると吉野も「俺もそうします」と言い出した。
木佐は律からも吉野からも離れた席に移動した。
幸い広い会議室に３人、お互いが気にならない距離を取ることができる。
ではおやすみと目を閉じようとした瞬間、机に突っ伏していた律がムクリと顔を上げた。
トロンとした目で木佐を見つめると、おもむろに口を開く。
「そういえば木佐さん、どうして美術誌への異動なんです？」
死ぬほどの眠気に襲われている今、その質問？
木佐は思わずつっこみたくなったが、そう言えばそういう話は一切していないことに気付いた。
今、ここで誤魔化すことは、そんなに難しくない。
だけどこの丸川出版にいる限り、おそらく木佐の事情はバレてしまうだろう。
だったら今ここでわざとらしい嘘などついても無駄だ。
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はするりとそう答えた。
言ってしまえば、簡単なことだ。
木佐はそのまま目を閉じて、眠りに落ちそうになる。
だが次の瞬間、律と吉野の「え～！？」という叫びに、飛び起きることになった。
＊＊＊＊＊
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はごく自然にそう答えた。
それを聞いた律と吉野は「え～！？」と絶叫していた。
ここ最近、吉野の原稿は特に遅れがちだ。
最近始まった新連載は、吉野の今までの作風とかなり違う。
吉野はまだそれに慣れずに、悪戦苦闘しているのだ。
だからどうしても筆の進みが遅くなるのだろう。
そしてデット入稿のフォローをしてくれるのは、もうすぐエメラルドを去ることになっている木佐だった。
木佐の担当作家は他の編集部員に割り振りつつあるので、一番余裕があるのだ。
「そういえば木佐さん、どうして美術誌への異動なんです？」
今回も何とか入稿を終えた午前３時過ぎ、すっかりおやすみモードになった律はそう聞いた。
何となく気になっていたのだ。
少女漫画から美術誌への異動なんて、前代未聞だ。
しかも美術は、美大を卒業した者を主に採用する。
木佐が異動を希望した時、かなり物議を醸したとも聞いている。
どうしてわざわざそんな道を選ぶことにしたのかと。
「恋人が画家になったんだ。だからそいつの担当になりたいんだよ。」
木佐はごく自然にそう答えた。
それを聞いた律と吉野は「え～！？」と絶叫していた。
なんでそんな重大事項を「どら焼き食べる？」っていうのと変わらない口調で言うのか。
「木佐さんの恋人って、画家さんなんですか！？」
「正確には画家の卵。あいつがいっぱしの画家になる前に、１人前の美術編集になりたいんだ。」
「すごい。ステキなお話です！」
いつの間にか吉野も身を乗り出しており、会話に割り込んできた。
おそらく漫画のネタにならないかと考えているのだろう。
「ああ、律っちゃんも知ってる人だよ。」
木佐は楽しそうにそう付け加えた。
その言葉に律は首を傾げた。
律と木佐の共通の知り合いは、作家か丸川書店の社員、もしくは印刷所か書店の人間だ。
画家の卵なんて、いないはずなのだが。
「それじゃもう１つヒント。俺の恋人も２人と同じだよ。」
「え？どういうことです？」
「だ・か・ら。男の人だってこと！」
「え～！？」
律は吉野と共に、もう１度絶叫することになった。
そして思わず吉野と顔を見合わせて「嘘ぉ！」と声を上げてしまう。
俺の恋人のこと、バレてる？
それに吉野さんの恋人も男の人？
律はただただ混乱しており、吉野も同じ理由で混乱していることに気付く余裕もなかった。
木佐はそんな２人を見比べながら「え？まさか知らなかった？」と驚いている。
ちなみに木佐の恋人が「ブックスまりも」の王子様のような店員だと知るのは、もう少し後のこと。
彼の初めての画集が、木佐の手によって出版されたことによってだ。
＊＊＊＊＊
「俺の恋人も２人と同じだよ。だ・か・ら。男の人だってこと！」
バレてる。どうして。
木佐の衝撃的な告白に、吉野は「え～！？嘘ぉ！」と叫んだ後、言葉も出なかった。
ようやく入稿を終えた後、吉野はさっさと帰りたかった。
だけど迷惑をかけた２人の編集者が、始発まで仮眠すると言う。
吉野のせいで振り回した２人を差し置いて、１人タクシーに乗ることは躊躇われた。
だけど残ってよかったと思う。
ここ最近手伝ってくれて、ニコニコと優しい編集者、木佐。
彼の思いもよらない恋愛話が聞けたのだから。
これは漫画のネタになりそうだ。
だがその矢先、木佐はとんでもないことを言い出したのだ。
「俺の恋人も２人と同じだよ。だ・か・ら。男の人だってこと！」
バレてる。どうして。
木佐の衝撃的な告白に、吉野は「え～！？嘘ぉ！」と叫んだ後、言葉も出なかった。
「小野寺さんの恋人さんも。。。男。。。の方ですか？」
ようやく我に返った吉野は、恐る恐る口を開く。
すると律は「吉野さんも、ですか？」と聞き返してきた。
もはや木佐の恋愛どころの話ではない。
吉野は律と顔を見合わせたまま、口をパクパクさせる。
聞きたいことはあるのだが、言葉が出ないのだ。
「うわ。こんなにわかりやすいのに、２人とも鈍すぎ」
「えぇ！？そんな！！」
木佐の言葉に、律がオロオロと答えている。
吉野はそんな２人のやり取りを、呆然と聞いていた。
「これ以上は教えてあげない。じゃあ、おやすみ！」
木佐はそのまま机に突っ伏して、寝てしまった。
疲れているせいだろう。
すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
だが吉野は眠れそうもないし、おそらくは律もそうなのだろう。
律の恋人。
木佐が気付いたということは、丸川書店の関係者だ。
また木佐は、吉野も気付いていると思っていたらしい。
だとしたらエメラルド編集部の関係者。
そんな風に消去法で考えると、思い当たる人物が１人いる。
そしてまた律も同じ考え方で、吉野の恋人に行き付いていることだろう。
吉野はもう１度、律を見た。
律も困ったような顔でこちらを見ている。
衝撃の事実発覚に、２人ともなすすべがないのだ。
【続く】
