夜5題
【月明かり】
次回こそ、月明かりが街を照らす時間になる前に終わらせよう。
毎回そう思うのに、今回も窓の外から月明かりが差し込んでいる。
例によって、吉川千春こと吉野千秋の原稿は遅れていた。
いや遅れていたなんて生やさしいレベルではない。
もう完全なるデット入稿ペースだ。
吉野と柳瀬たちアシスタントは、丸川書店の会議室で必死の作業をしていた。
どうしてもっと余裕を持って、描けないんだろう。
毎度おなじみの後悔と、自己嫌悪。
だが落ち込んでいる暇などない。
とにかく今は時間との戦いだ。
考えている前に、せっせと手を動かすしかない。
こういう時、担当編集が手伝ってくれたりする。
だが今回、手伝ってくれているのは小野寺律ではなかった。
今月はなぜが律の担当作家が軒並み不調なのだと言う。
律は今、もっと遅れている作家のところで、手伝いをしている。
だから今、写植を貼ったり、消しゴムをかけたりしてくれているのは、別の編集者。
もうすぐエメラルド編集部を去ることが決まっている木佐翔太だ。
やはり気心の知れた担当編集がいてくれた方が心強いと思う。
だけど今日に限っては、律がいないことにホッとしている。
その理由は昨日、律とちょっとしたことで言い争いをしたのだ。
それまで作品の話で、何度も言い合いをしたことはあった。
だがそれ以外のことで、あんなに声を荒げたことはない。
しかも今冷静に考えてみても、吉野は自分の方が正しいと思っている。
律があやまってくれなければ、どうにも気持ちがおさまらない。
余計なことを考えているせいか、さらに筆が遅くなってしまう。
吉野は張ってしまった肩を拳で叩いて、コリを解した。
集中、集中。
余計な迷いが絵に出てしまっては、読者に申し訳ない。
それにしても、どうして毎回こうなるんだろう。
次回こそ、月明かりが街を照らす時間になる前に終わらせよう。
毎回そう思うのに、今回も窓の外から月明かりが差し込んでいる。
吉野は思わずため息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
みんなを巻き込んでいる張本人に、ため息をつく資格なんかない。
毎度おなじみのこととはいえ、またしてもいろいろな人に迷惑をかけている。
1分でも1秒でも早く原稿を上げなくては。
吉野は懸命に手を動かした。
その横顔を木佐が盗み見ていたことには、まったく気が付かなかった。
*****
とにかく今は何とか入稿しなきゃ。
律は窓の外の月明かりを恨めしく思いながら、懸命に手を動かしていた。
今回、どういうわけか律の担当作家の不調が目立った。
理由はいろいろある。
体調を崩した者、アシスタントの都合がつかなかった者、そして毎回遅い者。
ちなみに吉川千春は3番目に該当する。
律は丸川書店近くのシティホテルの一室にいた。
今回、アクシデントで吉野以上に原稿が遅れている作家がいる。
彼女は地方在住なのだが、このままでは間に合わないと判断して、呼び寄せた。
そしてここを臨時の作業部屋として、昼も夜もぶっ通しで原稿と格闘しているのだ。
吉野さん、大丈夫かな。木佐さんが手伝ってくれてるみたいだけど。
律は写植を貼りながら、ふと思う。
昨日、吉野とちょっとしたことで言い争いをした。
内容はエメラルド編集部に補充される編集部員の話だ。
高野が編集部を去った後、ずっと1人少ない状態で仕事をしている。
しかももうすぐ木佐も去ることになっている。
当然補充は必要だ。
次の4月に、新卒の社員をエメ編にも入れてくれることになっている。
そしてもう1人、他の部署から編集部員を異動させることになっていたのだが。
その編集部員は「少女漫画なんてできない」と言い、異動を拒否した。
どうしても異動しなければいけないなら退職すると言い、説得にも応じなかった。
その話を聞いた吉野は「何、その人。わがままだね」と憤慨していた。
悪口ではあるが、それはきっと入稿の度にボロボロに疲れ果てる編集部員たちを心配してのこと。
その根底にあるのは、思いやりだ。
だけど律は思わず「そんな簡単な問題じゃないんですよ」と言い返してしまった。
なぜなら律には、少女漫画なんてやりたくないという気持ちがよくわかるのだ。
丸川書店に入社した直後、少女漫画編集を言い渡された時のショックは、今でも忘れられない。
当時は文芸志望であり、他の部署に行くなんてまったく考えなかった。
その後、少女漫画はたくさん読んだし、今はやりがいを感じている。
そんな今でさえ、あの時文芸に行けてたらよかったかもと思うことがあるのだ。
そこからちょっとした言い争いに発展し、何となく気まずい雰囲気のままなのだ。
やっぱり俺が悪い、と律は思う。
心配し、憤慨してくれる吉野に、礼を言うべきだったのだ。
あやまりたいのだが、今はそれどころではない。
とにかく今は何とか入稿しなきゃ。
律は窓の外の月明かりを恨めしく思いながら、懸命に手を動かしていた。
*****
こんなところで出しゃばるなんて、自分らしくないと思う。
だけど月明かりの綺麗な夜、ちょっとくらい先輩っぽいことをするのもありだろう。
日付が変わる頃、何とか吉野の原稿が仕上がった。
木佐翔太は出来上がった原稿に目を通して、チェックする。
本来なら担当編集の律がするべきことだが、今回は特別だ。
ホテルで作家と共に缶詰めになっている律に代わって、チェックも木佐がする。
本当ならこんなはずじゃなかった。
他の部署から編集者を1人回してもらって、今月からまた5人になるはずだった。
だけど異動してくるはずの編集者は「少女漫画なんてできない」と拒否したのだ。
おかげで結局4人のまま、修羅場を迎えることになったのだ。
その件で、律は吉野とちょっとした言い争いをした。
木佐はそれを律から聞いて、知っていた。
昨日、律が落ち込んでいるみたいだったので、聞き出したのだ。
まったくこの2人、かわいいな。
それが木佐のこの件に関する感想だった。
「原稿チェックOKです。それではお預かりします。」
木佐がそう告げると、吉野とアシスタントたちは大きく息をついた。
これで吉川千春の原稿は、完了だ。
木佐は原稿を印刷所に渡してから、急いでホテルにいる律に合流しなければならない。
急いで会議室を出ようとした木佐だったが、ふと足を止めた。
「小野寺は元々文芸志望で、少女漫画は不本意だったんですよ。」
木佐は吉野にそう告げた。
帰り支度を始めていた吉野は「へ?」と間の抜けた声を上げる。
そんな様子に苦笑しながら、木佐は言葉を続けた。
「だからやりたいことができない苦痛がわかるんですよ。」
「そう、なんですか?」
「編集者は会社員ですからね。作家さんとは違う。丸川だって第一希望の部署にいられる社員の方が少ないんです。」
「だから『そんな簡単な問題じゃない』って言ってたんですか。。。」
「ちなみに一応言っときますけど、今の小野寺は少女漫画編集一筋ですから。」
木佐は頭を下げると、会議室を出た。
こんなところで出しゃばるなんて、自分らしくないと思う。
だけど月明かりの綺麗な夜、ちょっとくらい先輩っぽいことをするのもありだろう。
【続く】
次回こそ、月明かりが街を照らす時間になる前に終わらせよう。
毎回そう思うのに、今回も窓の外から月明かりが差し込んでいる。
例によって、吉川千春こと吉野千秋の原稿は遅れていた。
いや遅れていたなんて生やさしいレベルではない。
もう完全なるデット入稿ペースだ。
吉野と柳瀬たちアシスタントは、丸川書店の会議室で必死の作業をしていた。
どうしてもっと余裕を持って、描けないんだろう。
毎度おなじみの後悔と、自己嫌悪。
だが落ち込んでいる暇などない。
とにかく今は時間との戦いだ。
考えている前に、せっせと手を動かすしかない。
こういう時、担当編集が手伝ってくれたりする。
だが今回、手伝ってくれているのは小野寺律ではなかった。
今月はなぜが律の担当作家が軒並み不調なのだと言う。
律は今、もっと遅れている作家のところで、手伝いをしている。
だから今、写植を貼ったり、消しゴムをかけたりしてくれているのは、別の編集者。
もうすぐエメラルド編集部を去ることが決まっている木佐翔太だ。
やはり気心の知れた担当編集がいてくれた方が心強いと思う。
だけど今日に限っては、律がいないことにホッとしている。
その理由は昨日、律とちょっとしたことで言い争いをしたのだ。
それまで作品の話で、何度も言い合いをしたことはあった。
だがそれ以外のことで、あんなに声を荒げたことはない。
しかも今冷静に考えてみても、吉野は自分の方が正しいと思っている。
律があやまってくれなければ、どうにも気持ちがおさまらない。
余計なことを考えているせいか、さらに筆が遅くなってしまう。
吉野は張ってしまった肩を拳で叩いて、コリを解した。
集中、集中。
余計な迷いが絵に出てしまっては、読者に申し訳ない。
それにしても、どうして毎回こうなるんだろう。
次回こそ、月明かりが街を照らす時間になる前に終わらせよう。
毎回そう思うのに、今回も窓の外から月明かりが差し込んでいる。
吉野は思わずため息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
みんなを巻き込んでいる張本人に、ため息をつく資格なんかない。
毎度おなじみのこととはいえ、またしてもいろいろな人に迷惑をかけている。
1分でも1秒でも早く原稿を上げなくては。
吉野は懸命に手を動かした。
その横顔を木佐が盗み見ていたことには、まったく気が付かなかった。
*****
とにかく今は何とか入稿しなきゃ。
律は窓の外の月明かりを恨めしく思いながら、懸命に手を動かしていた。
今回、どういうわけか律の担当作家の不調が目立った。
理由はいろいろある。
体調を崩した者、アシスタントの都合がつかなかった者、そして毎回遅い者。
ちなみに吉川千春は3番目に該当する。
律は丸川書店近くのシティホテルの一室にいた。
今回、アクシデントで吉野以上に原稿が遅れている作家がいる。
彼女は地方在住なのだが、このままでは間に合わないと判断して、呼び寄せた。
そしてここを臨時の作業部屋として、昼も夜もぶっ通しで原稿と格闘しているのだ。
吉野さん、大丈夫かな。木佐さんが手伝ってくれてるみたいだけど。
律は写植を貼りながら、ふと思う。
昨日、吉野とちょっとしたことで言い争いをした。
内容はエメラルド編集部に補充される編集部員の話だ。
高野が編集部を去った後、ずっと1人少ない状態で仕事をしている。
しかももうすぐ木佐も去ることになっている。
当然補充は必要だ。
次の4月に、新卒の社員をエメ編にも入れてくれることになっている。
そしてもう1人、他の部署から編集部員を異動させることになっていたのだが。
その編集部員は「少女漫画なんてできない」と言い、異動を拒否した。
どうしても異動しなければいけないなら退職すると言い、説得にも応じなかった。
その話を聞いた吉野は「何、その人。わがままだね」と憤慨していた。
悪口ではあるが、それはきっと入稿の度にボロボロに疲れ果てる編集部員たちを心配してのこと。
その根底にあるのは、思いやりだ。
だけど律は思わず「そんな簡単な問題じゃないんですよ」と言い返してしまった。
なぜなら律には、少女漫画なんてやりたくないという気持ちがよくわかるのだ。
丸川書店に入社した直後、少女漫画編集を言い渡された時のショックは、今でも忘れられない。
当時は文芸志望であり、他の部署に行くなんてまったく考えなかった。
その後、少女漫画はたくさん読んだし、今はやりがいを感じている。
そんな今でさえ、あの時文芸に行けてたらよかったかもと思うことがあるのだ。
そこからちょっとした言い争いに発展し、何となく気まずい雰囲気のままなのだ。
やっぱり俺が悪い、と律は思う。
心配し、憤慨してくれる吉野に、礼を言うべきだったのだ。
あやまりたいのだが、今はそれどころではない。
とにかく今は何とか入稿しなきゃ。
律は窓の外の月明かりを恨めしく思いながら、懸命に手を動かしていた。
*****
こんなところで出しゃばるなんて、自分らしくないと思う。
だけど月明かりの綺麗な夜、ちょっとくらい先輩っぽいことをするのもありだろう。
日付が変わる頃、何とか吉野の原稿が仕上がった。
木佐翔太は出来上がった原稿に目を通して、チェックする。
本来なら担当編集の律がするべきことだが、今回は特別だ。
ホテルで作家と共に缶詰めになっている律に代わって、チェックも木佐がする。
本当ならこんなはずじゃなかった。
他の部署から編集者を1人回してもらって、今月からまた5人になるはずだった。
だけど異動してくるはずの編集者は「少女漫画なんてできない」と拒否したのだ。
おかげで結局4人のまま、修羅場を迎えることになったのだ。
その件で、律は吉野とちょっとした言い争いをした。
木佐はそれを律から聞いて、知っていた。
昨日、律が落ち込んでいるみたいだったので、聞き出したのだ。
まったくこの2人、かわいいな。
それが木佐のこの件に関する感想だった。
「原稿チェックOKです。それではお預かりします。」
木佐がそう告げると、吉野とアシスタントたちは大きく息をついた。
これで吉川千春の原稿は、完了だ。
木佐は原稿を印刷所に渡してから、急いでホテルにいる律に合流しなければならない。
急いで会議室を出ようとした木佐だったが、ふと足を止めた。
「小野寺は元々文芸志望で、少女漫画は不本意だったんですよ。」
木佐は吉野にそう告げた。
帰り支度を始めていた吉野は「へ?」と間の抜けた声を上げる。
そんな様子に苦笑しながら、木佐は言葉を続けた。
「だからやりたいことができない苦痛がわかるんですよ。」
「そう、なんですか?」
「編集者は会社員ですからね。作家さんとは違う。丸川だって第一希望の部署にいられる社員の方が少ないんです。」
「だから『そんな簡単な問題じゃない』って言ってたんですか。。。」
「ちなみに一応言っときますけど、今の小野寺は少女漫画編集一筋ですから。」
木佐は頭を下げると、会議室を出た。
こんなところで出しゃばるなんて、自分らしくないと思う。
だけど月明かりの綺麗な夜、ちょっとくらい先輩っぽいことをするのもありだろう。
【続く】
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