夕方5題
【電車の向こう】
「それじゃ行きます!最初はグー!」
勢いよく響く2人の掛け声に、羽鳥は完全に圧倒されていた。
勝手知ったる吉野宅で、羽鳥は吉野と律が相対するのを見ていた。
いつも通りの無表情には見えていると思う。
だが内心はかなり混乱していた。
なぜならどうにも、違和感がぬぐえないのだ。
吉野のことは幼い頃から知っているし、律だって今は頼もしい部下だ。
だが3人で顔を合わせる時には、いつも丸川書店の中なのだ。
なぜよりによって恋人の部屋で、3人でいるのだ。
しかも恋人と部下は「勝負」をするのだと言う。
そして羽鳥に「審判」をするようにと、一方的に決められてしまった。
「どっちが勝っても恨みっこなしですよ!」
「もちろん、望むところだ!」
律と吉野は、吉野の執筆机の前に立ちながら、向かい合っていた。
いったいなぜ2人が勝負することになったのかというと、もちろん理由がある。
新連載の方向性にどうしても意見の一致を見ない2人は、ある勝負を決着をつけることにしたのだ。
「それじゃ行きます!最初はグー!」
勢いよく響く2人の掛け声に、羽鳥は完全に圧倒されていた。
吉野と律が決めた勝負の内容は、まさかの「あっち向いてホイ」だ。
先に3勝した方が勝ち。
次の新連載は、勝った方の案を採用する。
「じゃんけんぽん!あっち向いてホイ!」
2人の声が重なり、まずはじゃんけんに勝った律が吉野の顔の前で指を左に振った。
だが吉野は首を上に向けて、律の攻撃をかわす。
すぐに2人は「じゃんけんぽん!」とまた声を張り上げた。
こんなことでいいのか?
羽鳥は勢いよく拳を振り上げた恋人と部下を見ながら、未だ困惑している。
2人に任せてみようと思い、今まで見守ってきたその結末が「あっち向いてホイ」とは。
こんなふざけたことを許していいものなのか。
でも本音を言えば、実は愉快だと思っていたりもする。
どうしても意見が合わないなら、こんなやり方もおもしろいじゃないか。
編集長としては、面白い作品ができるなら、その過程は多少ふざけていたって問題ない。
2人の前では何とか渋い表情を保っているが、これはこれでいい。
それにしても気になるのは2人の距離だ。
何だかただの漫画家と編集者から、一気に親しい友人みたいになっているのだ。
吉野とこんな風な距離感で付き合っている人物を、羽鳥は1人知っている。
凄腕のプロアシとして有名な猫目の男は、羽鳥の恋敵でもある。
まさか。羽鳥はにわかに恐怖を覚えた。
吉野に近づく他の男には嫉妬するが、律だけは安全だと思っていた。
作家と向き合う姿勢は真摯だし、何より律に想いを寄せる男がいる。
だけどもしかしたらと心配になるほどの親密だ。
「やった。まず俺の1勝ですよ、吉野さん!」
律が高らかに宣言すると、吉野が「まだ1勝じゃん、これからだ!」と叫ぶ。
まるで子供のように「勝負」をしている。
羽鳥は秘かにため息をつくと、黙って2人の勝負を見守り続けた。
*****
「連載開始第1回にして、アンケート1位です!」
律は高らかに宣言したが、高野は微妙な気分で頷いた。
吉野の新連載は、連載早々話題になっていた。
王道ベタベタ乙女路線が売りの吉川千春作品。
この路線が好きな読者からは、絶対の支持を集める。
だけど悪く言えば、代わり映えがしないとも言えるのだ。
だが今回の作品は、その路線を完全に逸脱していた。
敢えてジャンル付けをするなら、ミステリーとかサスペンスとか言えるかもしれない。
初回はまだまだプロローグだが、読者の興味を引く伏線がすでにいくつもある。
まったく全容は見えないだろうが、とにかく壮大な謎が隠されている。
第1回はそんな煽りたっぷりの内容になった。
高野はそれを一読者として、読んだ。
吉野の作品どころか、エメラルドの中にもあまり類を見ない作品だ。
はっきり言って、掛け値なしに面白い。
そしてこの企画はほとんど律が考え、吉野に提案したのも律だと聞いて、少なからず驚いた。
「連載開始第1回にして、アンケート1位です!」
律は高らかに宣言したが、高野は微妙な気分で頷いた。
それは数時間前、帰宅したばかりの律からの報告だった。
高野としては喜ばしいことだが、同時にどんなトリックを使ったのか気になっていた。
「吉野さん、よくあの内容を承知したな」
高野は半分ウトウトと眠りかけている律にそう言った。
ここは高野の部屋のベットの中だ。
2人とも何も身に着けていない状態、つまり「コト」に及んだ後だった。
今まで吉野にこの手の提案をしたことはあるのだ。
ここまで思い切ったものではないにしても、今までにないような話にしてはどうかと。
高野もそれとなく言ったことがあるし、羽鳥はそれ以上だろう。
だが2人が成しえなかったことを、律がしてしまったのだ。
「あっち向いてホイ、です。」
律はぐったりと目を閉じたまま、そう答える。
高野は思わず「は?」と聞き返した。
「コト」の後のしどけない姿と零れ落ちた言葉に、ギャップがあり過ぎたからだ。
「あっち向いてホイで、俺が勝ったので。今回は俺の企画を受け入れてもらいました。」
「何だ、そりゃ」
「吉野さんもそれでいいってことだったので」
「つまり勝因は運か?」
「違います!」
律はここでようやく目を開けた。
だがやはり眠気を完全に制圧したわけではなさそうで、トロンとしている。
その顔が可愛くて、高野はもう1度「コト」に及びたくなったが、かろうじて堪えた。
「吉野さん、あっち向いてホイでじゃんけんに負けると、最初は必ず上を向くんです。」
「はぁぁ?」
「つまり必勝パターンを見つけたんです。だから俺の作戦勝ちです。」
「編集者の作戦が、あっち向いてホイか?」
「何言ってるんです。バレないように2回わざと負けたんですよ。」
律は眠気で呂律が怪しい口でそう言うと、またしても目を閉じてしまった。
高野は「マジかよ」と呟いたが、今度こそ寝息を立て始めてしまう。
まさかの快挙の必勝法はあっち向いてホイ。
高野は苦笑しながら律の髪をくしゃくしゃとなでたが、起きる気配はなかった。
「頑張れ」
高野は律の寝顔にそっと語りかけた。
連載を作家と共に1から作り上げる作業は、大変だ。
それは行先のわからない電車で旅をするようなものだ。
どのくらいの速度で、どこまで行くのか、それは乗ってみないとわからない。
早く降りるかもしれないが、思いのほか遠くへ行けるかもしれない。
電車の向こうに何があるのかは、最後までわからないのだ。
律と吉野はその電車に乗った。
高野はもうそこに関わることはできないが、きっと大丈夫だろう。
2人は順調に信頼関係を築いているし、羽鳥もいる。
これから作り上げていく物語を、一読者として楽しむことにする。
それにしても気になるのは、吉野との関係だ。
律に近づく他の男には嫉妬するが、吉野だけは安全だと思っていた。
それに確認したわけではないが、吉野と羽鳥は恋人同士で、他の男が入る余地などないと確信していたのだ。
だけどもしかしたらと心配になるほどの親密だ。
一応マメに羽鳥に探りを入れておく方がいいのかもしれない。
高野はそんなことを考えながら、恋人の身体を抱き寄せた。
【終】「夜5題」に続きます。
「それじゃ行きます!最初はグー!」
勢いよく響く2人の掛け声に、羽鳥は完全に圧倒されていた。
勝手知ったる吉野宅で、羽鳥は吉野と律が相対するのを見ていた。
いつも通りの無表情には見えていると思う。
だが内心はかなり混乱していた。
なぜならどうにも、違和感がぬぐえないのだ。
吉野のことは幼い頃から知っているし、律だって今は頼もしい部下だ。
だが3人で顔を合わせる時には、いつも丸川書店の中なのだ。
なぜよりによって恋人の部屋で、3人でいるのだ。
しかも恋人と部下は「勝負」をするのだと言う。
そして羽鳥に「審判」をするようにと、一方的に決められてしまった。
「どっちが勝っても恨みっこなしですよ!」
「もちろん、望むところだ!」
律と吉野は、吉野の執筆机の前に立ちながら、向かい合っていた。
いったいなぜ2人が勝負することになったのかというと、もちろん理由がある。
新連載の方向性にどうしても意見の一致を見ない2人は、ある勝負を決着をつけることにしたのだ。
「それじゃ行きます!最初はグー!」
勢いよく響く2人の掛け声に、羽鳥は完全に圧倒されていた。
吉野と律が決めた勝負の内容は、まさかの「あっち向いてホイ」だ。
先に3勝した方が勝ち。
次の新連載は、勝った方の案を採用する。
「じゃんけんぽん!あっち向いてホイ!」
2人の声が重なり、まずはじゃんけんに勝った律が吉野の顔の前で指を左に振った。
だが吉野は首を上に向けて、律の攻撃をかわす。
すぐに2人は「じゃんけんぽん!」とまた声を張り上げた。
こんなことでいいのか?
羽鳥は勢いよく拳を振り上げた恋人と部下を見ながら、未だ困惑している。
2人に任せてみようと思い、今まで見守ってきたその結末が「あっち向いてホイ」とは。
こんなふざけたことを許していいものなのか。
でも本音を言えば、実は愉快だと思っていたりもする。
どうしても意見が合わないなら、こんなやり方もおもしろいじゃないか。
編集長としては、面白い作品ができるなら、その過程は多少ふざけていたって問題ない。
2人の前では何とか渋い表情を保っているが、これはこれでいい。
それにしても気になるのは2人の距離だ。
何だかただの漫画家と編集者から、一気に親しい友人みたいになっているのだ。
吉野とこんな風な距離感で付き合っている人物を、羽鳥は1人知っている。
凄腕のプロアシとして有名な猫目の男は、羽鳥の恋敵でもある。
まさか。羽鳥はにわかに恐怖を覚えた。
吉野に近づく他の男には嫉妬するが、律だけは安全だと思っていた。
作家と向き合う姿勢は真摯だし、何より律に想いを寄せる男がいる。
だけどもしかしたらと心配になるほどの親密だ。
「やった。まず俺の1勝ですよ、吉野さん!」
律が高らかに宣言すると、吉野が「まだ1勝じゃん、これからだ!」と叫ぶ。
まるで子供のように「勝負」をしている。
羽鳥は秘かにため息をつくと、黙って2人の勝負を見守り続けた。
*****
「連載開始第1回にして、アンケート1位です!」
律は高らかに宣言したが、高野は微妙な気分で頷いた。
吉野の新連載は、連載早々話題になっていた。
王道ベタベタ乙女路線が売りの吉川千春作品。
この路線が好きな読者からは、絶対の支持を集める。
だけど悪く言えば、代わり映えがしないとも言えるのだ。
だが今回の作品は、その路線を完全に逸脱していた。
敢えてジャンル付けをするなら、ミステリーとかサスペンスとか言えるかもしれない。
初回はまだまだプロローグだが、読者の興味を引く伏線がすでにいくつもある。
まったく全容は見えないだろうが、とにかく壮大な謎が隠されている。
第1回はそんな煽りたっぷりの内容になった。
高野はそれを一読者として、読んだ。
吉野の作品どころか、エメラルドの中にもあまり類を見ない作品だ。
はっきり言って、掛け値なしに面白い。
そしてこの企画はほとんど律が考え、吉野に提案したのも律だと聞いて、少なからず驚いた。
「連載開始第1回にして、アンケート1位です!」
律は高らかに宣言したが、高野は微妙な気分で頷いた。
それは数時間前、帰宅したばかりの律からの報告だった。
高野としては喜ばしいことだが、同時にどんなトリックを使ったのか気になっていた。
「吉野さん、よくあの内容を承知したな」
高野は半分ウトウトと眠りかけている律にそう言った。
ここは高野の部屋のベットの中だ。
2人とも何も身に着けていない状態、つまり「コト」に及んだ後だった。
今まで吉野にこの手の提案をしたことはあるのだ。
ここまで思い切ったものではないにしても、今までにないような話にしてはどうかと。
高野もそれとなく言ったことがあるし、羽鳥はそれ以上だろう。
だが2人が成しえなかったことを、律がしてしまったのだ。
「あっち向いてホイ、です。」
律はぐったりと目を閉じたまま、そう答える。
高野は思わず「は?」と聞き返した。
「コト」の後のしどけない姿と零れ落ちた言葉に、ギャップがあり過ぎたからだ。
「あっち向いてホイで、俺が勝ったので。今回は俺の企画を受け入れてもらいました。」
「何だ、そりゃ」
「吉野さんもそれでいいってことだったので」
「つまり勝因は運か?」
「違います!」
律はここでようやく目を開けた。
だがやはり眠気を完全に制圧したわけではなさそうで、トロンとしている。
その顔が可愛くて、高野はもう1度「コト」に及びたくなったが、かろうじて堪えた。
「吉野さん、あっち向いてホイでじゃんけんに負けると、最初は必ず上を向くんです。」
「はぁぁ?」
「つまり必勝パターンを見つけたんです。だから俺の作戦勝ちです。」
「編集者の作戦が、あっち向いてホイか?」
「何言ってるんです。バレないように2回わざと負けたんですよ。」
律は眠気で呂律が怪しい口でそう言うと、またしても目を閉じてしまった。
高野は「マジかよ」と呟いたが、今度こそ寝息を立て始めてしまう。
まさかの快挙の必勝法はあっち向いてホイ。
高野は苦笑しながら律の髪をくしゃくしゃとなでたが、起きる気配はなかった。
「頑張れ」
高野は律の寝顔にそっと語りかけた。
連載を作家と共に1から作り上げる作業は、大変だ。
それは行先のわからない電車で旅をするようなものだ。
どのくらいの速度で、どこまで行くのか、それは乗ってみないとわからない。
早く降りるかもしれないが、思いのほか遠くへ行けるかもしれない。
電車の向こうに何があるのかは、最後までわからないのだ。
律と吉野はその電車に乗った。
高野はもうそこに関わることはできないが、きっと大丈夫だろう。
2人は順調に信頼関係を築いているし、羽鳥もいる。
これから作り上げていく物語を、一読者として楽しむことにする。
それにしても気になるのは、吉野との関係だ。
律に近づく他の男には嫉妬するが、吉野だけは安全だと思っていた。
それに確認したわけではないが、吉野と羽鳥は恋人同士で、他の男が入る余地などないと確信していたのだ。
だけどもしかしたらと心配になるほどの親密だ。
一応マメに羽鳥に探りを入れておく方がいいのかもしれない。
高野はそんなことを考えながら、恋人の身体を抱き寄せた。
【終】「夜5題」に続きます。
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