夕方5題

【オレンジ郷愁】

「俺の意見は撤回します。」
律にしては、かなりな譲歩のつもりだった。
だが吉野は「え~?」と不満そうな声を上げたのだ。

律と吉野は、丸川書店の会議室にいた。
何度目になるかわからない、新連載の打ち合わせだ。
本当に意見が合わないのだ。
従来通りの作風を守りたい吉野と、思い切って路線変更したい律。
根幹のところで、意見が真逆に分かれてしまった。

だがもうそろそろ方向性を決めなければならない。
埒が明かない言い合いを繰り返している場合ではないのだ。
何としても今日中には決めてしまいたい。

律は壁の時計を確認する。
打ち合わせ開始時間は、午後2時。
何とか窓の外がオレンジに変わる前に、決着をつけたい。
そうなるとやはり自分が折れるしかないだろうと思う。
だから律は、打ち合わせの第一声で一大決心を告げたのだ。

「俺の意見は撤回します。」
律にしては、かなりな譲歩のつもりだった。
だが吉野は「え~?」と不満そうな声を上げたのだ。
律は内心「なんでだよ!?」とツッコミを入れてしまう。
自分の意見が全面的に通るというのに、何が不満だというのか。

「小野寺さん、心から俺の意見に納得したわけじゃなくて、時間がないから折れただけでしょ?」
そういうことか。
どうやら吉川千春大先生は、すっきりしないらしい。
律が心から納得していないことが気に入らないのだ。
実はこの漫画家がかなり面倒な性格であることを、律は担当になってから痛感していた。

「残念ながら時間がないんです。今回は吉野さんのプロットで行きましょう。」
「今回は?」
「ええ。この連載が終わって次の連載の話になったら、また考えましょう。」
「そういうのはよくないと思います。ちゃんと解決してからじゃないと!」

律は思わず「へ?」と間抜けな声を上げてしまった。
そして次の瞬間、こみ上げてきたのは怒り。
一体何を言っているんだ。
いくら言っても、頑として自分の意見を変えないくせに。

「ちゃんと認識を合わせましょう。俺の作風を。。。」
「だから、無理ですって!」
尚も平然と自分の意見を述べようとする吉野に、律は思わず声を荒げていた。
後になって、律は自分がとんでもないことをしでかしたと青ざめることになる。
担当編集が漫画家を怒鳴り付けるなんて、あり得ない。

だけどこの時は、頭に血が上ってしまった。
だからわがままな担当作家を睨みながら、思いっきりの本音をぶちまけていた。

*****

「だから、無理ですって!」
綺麗な顔立ちの編集者が、声を荒げている。
それは普段の澄ました表情よりも、生き生きと魅力的に見えた。

吉野は新連載の打ち合わせのために、丸川書店に来ていた。
担当編集の律は、今までとは違う作風を提案してきたけど、吉野にその気はない。
今日は何としても、それをわかってもらおうと思っていた。
ちゃんと説得して、また心を1つにして頑張りたい。

それなのに律は「俺の意見は撤回します」なんて言い出したのだ。
しかもその理由は、まさかの時間切れ。
それじゃまるで、作家が特権で編集に言うことを聞かせたみたいじゃないか。
時間切れなんて馬鹿な理由で、妥協したくない。

「ちゃんと認識を合わせましょう。俺の作風を」
理解してほしいんです。
そう続けようとしたけど、できなかった。
勢い込んだ律の声に遮られてしまったからだ。

「だから、無理ですって!」
綺麗な顔立ちの編集者が、声を荒げている。
それは普段の澄ました表情よりも、生き生きと魅力的に見えた。
だが律はすぐにコホンと咳払いをすると「すみません」と頭を下げる。
そしてまた吉野の方に向き直った。

「とりあえず今回は我慢しますよ。次回の連載でまた吉野さんを説得します。」
「次回の連載」
「ええ。まぁそのときも俺が担当だったら、ですけどね。」

その時も俺が担当だったら。
その言葉の意味の重さに、吉野は思わず黙り込む。
会社に所属する編集者は、いつ異動があるかわからない。
何より律は元々文芸志望だったのに、意に反して少女漫画編集になったと聞いている。
この次の連載の時、また律が担当であるとは限らないのだ。
それならばなおのこと、ちゃんと意見を合わせてから進めたい。

「そんなに簡単にあきらめないで、ちゃんと納得しましょう。」
「そんなに言うなら、そっちが折れて下さい!」
律は吉野の言葉に、ややカブセ気味に叫んでいる。
やっぱりまだまだこの話は終わりそうにない。

「とことん話し合いましょう!」
「・・・なんでそんなところだけポジティブなんですか。」
何だかウンザリしている様子の律には構わず、吉野は「じゃあ」と身を乗り出す。
窓の外の風景はオレンジ色に変わりつつあった。

*****

この思いは、きっと古巣への郷愁だ。
窓から差し込むオレンジ色の眩しい光に目を細めながら、高野は電話の向こうの相手に用件を告げた。

高野が打ち合わせをした会議室が、吉野と律が話をしている部屋の隣であるのは偶然ではない。
編集会議のために会議室を予約しようとしたとき、たまたま同じ時間に小野寺律の名前で予約があるのを見つけた。
他の会議室も空いていたのに、わざわざその隣の部屋を押さえたのは、ちょっとした悪戯心だ。
特に何をするわけでもない。
ただ隣にいると思うだけで、何だか心が躍るのだ。

だが隣の部屋から聞こえてくるのは、不穏なやり取りだった。
何を話しているのかは、よく聞き取れない。
だが大声で、ほとんど叫ぶような勢いで話している。
唯一聞き取れたのは「だから、無理ですって!」という声だ。
これはおそらく律の声だ。
そして多分もう1人は、吉野だろう。

「隣の会議室、エキサイトしてますね。」
会議に同席していた他の編集部員も苦笑している。
そして高野たちの会議の方が先に終了した。
高野は他の編集部員たちに「先に戻っててくれ」と声をかけると、その場に留まった。

隣の会議室に入ることは、簡単だ。
だが今の高野には、その権限はない。
恋人としてはそんな縛りを無視したいところだが、さすがにそれはできない。

高野はスマートフォンを取りだすと、元部下の番号を呼び出した。
そう言えば、彼の番号をコールするのは久しぶりだ。
エメラルド編集部にいた頃には、日に何度もかけていた番号なのに。
ふと懐かしいような寂しいような気持ちになって、高野はやれやれと思う。

この思いは、きっと古巣への郷愁だ。
窓から差し込むオレンジ色の眩しい光に目を細めながら、高野は電話の向こうの相手に用件を告げた。

*****

「・・・ったく、何をしてるんだか」
「まったくですね。」
羽鳥は高野と顔を見合わせると、深くため息をついていた。

「小野寺と吉野さんが、言い争っている。」
高野からの電話を受けた羽鳥は、会議室に駆けつけた。
危なっかしくはあったけど、2人ともプロだと思うから、敢えて口出しはしなかった。
それなのに会議室でケンカ騒ぎとは。

会議室の前では、高野が立っていた。
さすがに立ち聞きするのは気が引けるのだろう。
ドアからは離れた場所にいる。
羽鳥は軽く会釈をしながら、その隣に立った。
するとまるでそれを見計らったように、ドアの内側から2人の声が聞こえてきた。

「じゃあこれでいいんですね?本当にいいんですね?」
「わかった。ここまでは譲ります。小野寺さんこそいいんですね?」
「もちろんです。こっちだってギリギリの譲歩ですからね。」
「ったく。羽鳥だったらもっと譲歩してくれると思うけど。」
「諦めの悪い人ですね!今の担当は俺なんですから、俺の指示に従ってください!」

ほとんどケンカの勢いで、2人は叫んでいる。
だけどよくよく聞くと、雰囲気は口調ほどは険悪ではない。
何だか妙に楽しそうな感じなのだ。
聞きようによっては、バカップルのじゃれ合いのようにさえ聞こえる。

「・・・ったく、何をしてるんだか」
「まったくですね。」
羽鳥は高野と顔を見合わせると、深くため息をついていた。

こちらが気を揉んでいる間に、吉野と律は勝手に理解を深めていた。
今までは仕事相手として、どこか気を使っていたのだろう。
だけど言い争いをしたことで、素の自分を出して接したことで、距離が縮まったのかもしれない。
心配させておいて、勝手に丸く収まっている。
まったくこっちはいい迷惑だ。

オレンジ色の空は、すでに夜の色に変わりつつある。
羽鳥と高野はもう1度ため息をつくと、静かに廊下を戻り始めた。

【続く】
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