…したい10題

【眠りたい】

「木佐さん!」
パソコンに向かって書類を作っていた木佐は、不意に名前を呼ばれて驚いた。
ニコニコと笑いながら、そこに立っていたのはあの不運な事件に巻き込まれた後輩だったからだ。
「驚かしちゃいましたか?すみません。」
律はそう言って笑いながら、木佐の隣の自分の席に座った。

「大丈夫なの?早くても来週からって聞いてたけど。」
木佐はパソコンの文書をいったん保存すると、律の方向へ椅子を向けた。
「ええ。昨日無事退院しまして、今日はご挨拶だけです。」
律はそう答えて、持っていた紙袋から小さな箱を4つ取り出した。
中味は焼き菓子で、律は迷惑をかけた詫びにとそれを配るつもりだった。

「わざわざ買ってきたの?」
「ええ、まぁ。」
律は照れくさそうに立ち上がると、部員たちの席に菓子の箱を置いていく。
今不在の高野と羽鳥の席に置くと、席にいる美濃には直接手渡しだ。
律儀に「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」と頭を下げる。
美濃はニコニコ笑いながら「元気になってよかったね」と答えていた。
「これは木佐さんに。ご迷惑をおかけしました。」
律は木佐にも菓子の箱を手渡して、頭を下げた。

「俺こそ。本当は俺だったんだよ。あのときコンビニで。。。」
「いえ。木佐さんのせいじゃないですし、こうして生きてますから。」
「でも。。。」
「こんなことで負けてられません。まだまだいい本をいっぱい作りたいですから。」
律の笑顔につられるように、木佐もぎこちなく笑う。
まだ行くところがあると慌しく出て行く律の後ろ姿を見ながら、木佐は何か吹っ切れたような気がした。

「あ。横澤さん、いろいろとご迷惑を。。。」
「政宗に会ったか?」
会社を出ようとした正面玄関で、背後から律に「おい!」と声をかけたのは横澤だった。
挨拶しようとする律の言葉を遮って、横澤が高野の名を出した。
「いえ、まだ。。。」
「早く元気な顔、見せてやれ。」
横澤はそれだけ言うと、エレベーターに向かう。
律はその背中に「ご迷惑おかけしました!」と叫んで、頭を下げた。

*****

吉川千春こと吉野千秋の家は相変わらず重苦しい雰囲気だった。
ベットでゴロゴロと一日を過ごす吉野と、心配する羽鳥と柳瀬。
本当ならネームが上がっていなければいけない時期なのに、プロットも固まっていないのだ。
すでに今月は落とすとか、そういうレベルの話ではなかった。
このまま吉野が描けなくなってしまうのではないかと、羽鳥も柳瀬も心配していた。

その時ドアチャイムが鳴り、来客を告げた。
だが家主はベットにうつ伏せになったまま、動こうとしない。
羽鳥と柳瀬は顔を見合わせ、ドアに近い羽鳥が玄関に向かう。
そしてそこに現れた人物を見て、驚いた。

「こんにちは!羽鳥さんもこちらだったんですね。」
そう言って笑うのは、渦中の後輩、小野寺律だ。
「小野寺、大丈夫なのか?」
「はい。無事退院したので、お騒がせしたお詫びにうかがいました。」
その声を聞きつけたのだろう。
吉野と柳瀬も玄関口に出て来た。

「吉野さん!今回はご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした!」
律は深々と頭を下げると、細長い箱を差し出した。
編集部に持っていったのと同じ焼き菓子で、木佐たちに渡したのよりは大きな箱だ。

「そんな。俺の方こそ。だって。。。」
「いえ、原稿が間に合ってよかったです。それに犯人が逮捕されて、吉野さんも安全だし。」
「え?」
「吉川千春先生の作品を待ってる読者もたくさんいますから。」
律の笑顔につられるように、吉野も笑う。
吉野の顔に笑みが戻るのは久しぶりで、羽鳥も柳瀬もホッと胸を撫で下ろした。

「小野寺、助かったよ。」
短い滞在で吉野宅を出ようとする律を、羽鳥が見送ってくれた。
「俺なんか何も。羽鳥さんにもご迷惑を。。。」
「高野さんには挨拶したか?」
また頭を下げようとする律の言葉を遮って、羽鳥が聞いた。
「いえ。編集部には行ったんですが。。。」
「心配していたぞ。早く連絡してあげてくれ。」
羽鳥はそう言うと、ポンポンと律の肩を叩いた。
律は小さく「はい」と答えて、吉野宅を出た。

*****

疲れた。もうさっさと眠りたい。
ようやく自宅マンションに帰り着いた律は、ため息をついた。
すっかり入院中に身体がなまってしまったらしい。
編集部に行って、吉野宅に行っただけで、疲れてしまった。
木佐や吉野の前で過剰に元気な様子を見せたので、よけいにだ。
何とか出社までに、体力を戻さなくてはならないだろう。

エレベーターを降りた律は、高野の部屋の前で立ち止まった。
横澤も羽鳥も、高野に早く挨拶しろと言っていた。
だがすぐに思い直して、その前を通り過ぎる。
まだ夕方、辺りも明るい。
こんな早い時間に、高野は帰宅していないだろう。
時間を改めて、挨拶に来ればいい。

律は入院中、高野が一度も現れなかったことを気にしていた。
本当は意識がないときに、高野は病院に来ているのだが、律はそれを知らない。
どうして来ないのか。
一度くらい顔を見に来てくれてもいいじゃないか。
でも仕事が忙しいだろうとか、別に恋人でもないのだしなどと思ったりもする。
そうしてぐるぐると悩むのをまぎらわすように、少女漫画を読みふけったのだ。

とにかく疲れた。一眠りしたい。
そう思いながら、律は自室の鍵を取り出した。
だが鍵穴に鍵を差し込もうとした瞬間、すっと血の気が引いていくような感覚。
立ちくらみだ。
律はドアに手をついて身体を支え、やり過ごそうとした。
だがその瞬間、背後から腕が伸ばされて、律の身体を絡め取るように抱き締めた。

「大丈夫か?」
「高野、さん」
逢いたくて、逢いたくて、でもそれを認めたくない人物。
いつもだったらその腕から逃れようともがいただろう。でも今は。
懐かしささえ感じる高野の腕に、律はそのまま身体を預けた。

【続く】
7/10ページ