夕方5題
【バイバイ】
「いっそバイバイってのも、ありじゃねーの?」
柳瀬は口調こそ冗談めかしているけれど、真剣にそう言った。
柳瀬優は、このところ吉野の部屋に入り浸っていた。
漫画家、吉川千春こと吉野千秋は、現在連載がない。
だから柳瀬も最低限の仕事しか入れずに、極力吉野と会う時間を作った。
吉野はもう羽鳥のものなのだとわかってはいるが、やはり好きだから。
こうして一緒の時間を過ごせるのは、楽しい。
だから今日もこうして吉野の部屋で、2人賑やかに飲んでいる。
だがせっかくの逢瀬に、吉野の口から出てくるのは、新しい担当編集の話ばかりだ。
どうやら新連載の件で、意見が合わないらしい。
今までの路線をさらに追及した作品を描きたい吉野。
思い切って違う作風を提案する担当編集。
どうやらそこで、連載の初っ端からつまづいたらしい。
何度打ち合わせてもコンセプトから食い違うのだと、吉野は愚痴を繰り返す。
「小野寺さんの言うこともわかるんだけどさ。やっぱり俺は俺なんだよ~」
吉野は缶ビールをグイグイと飲みながら、文句を言う。
世間はゴールデンウイークの真っ只中。
とはいえ、まだ明るいうちから酒を飲んでいるこの状況はどうだろう。
だが吉野はそんなことはおかまいなしに文句を言い続ける。
「いい人なんだけどなぁ。俺とは合わないかも。」
吉野は酔いのせいで少々呂律が怪しくなった口調で、そう言った。
柳瀬としては、微妙な気分だった。
小野寺律という青年に対して、柳瀬派好印象を持っている。
若いけれど一生懸命で、優秀な編集者だと思う。
だけどここまで作家を悩ませるというのは、どうなのだろう。
「いっそバイバイってのも、ありじゃねーの?」
柳瀬は口調こそ冗談めかしているけれど、真剣にそう言った。
だけど実はそれも本心じゃない。
エメラルド編集部の内情は、アシスタント仲間からいろいろ聞かされている。
編集長が代わっただけでなく、もうすぐ異動が決まった編集者もいて、大変な状態だ。
多分吉野が律と「バイバイ」したなら、吉野の担当はおそらく羽鳥に戻る。
それは柳瀬としても、面白くない事態だった。
「バイバイって、担当を代えてくれってトリに言った方がいいってこと?」
「そういう手もあるって話だよ。」
柳瀬は素っ気なく答えながら、ため息をついた。
結局、柳瀬はこの件に関しては蚊帳の外なのだ。
それがどうにも面白くなかった。
*****
「俺の言ってること、間違って、ますか~!?」
酔っ払い律が、高野に詰め寄った。
さすが絡み酒愚痴派、着実に進行中だ。
吉野が柳瀬を相手に機嫌よく酔っている頃、律もまた酒を飲んでいた。
だが自発的に飲んでいる吉野とは、少々勝手が違う。
高野が無理矢理部屋に連れ込み、飲ませたのだ。
ここ最近、律が元気がないことには気づいていた。
はっきりと落ち込んでいるわけではないのだが、ぼんやりと考え込んでいる時間が増えた。
何かあったのかなと予想はできる。
だが律は聞いても素直に白状するタマじゃない。
結局高野がとった作戦は、使い古された王道のものだった。
題して、酒に酔わせたところを聞き出す。
まったく作戦というにはおこがましい。
だけど律はものの見事に酔っ払って、ここ最近の悩みを白状した。
新連載の構想で、吉野と意見が合わない。
それは高野が想定した律の悩みの中でも、1番可能性が高いと思えるものだった。
吉野は今長期連載を終えたばかりで、そろそろ新しい連載の話も出る頃だし。
そして2人の意見の違いさえ、予想の範囲内だった。
今までの自分の世界観を大切にしたい吉野と、変化を求める律。
「俺、吉野さんは、殻を破った方が、いいと思うんです。」
少し呂律が怪しくなった律が、缶チューハイをグイグイ飲みながら、そう言った。
高野は缶ビールを飲みながらそれを聞いたが、頷くことはなかった。
「俺の言ってること、間違って、ますか~!?」
酔っ払い律が、高野に詰め寄った。
さすが絡み酒愚痴派、着実に進行中だ。
「それはお前の都合じゃないのか?」
高野はあえて冷たい口調でそう言った。
まだ完全に酔っ払い切っていない律が、キョトンとしている。
本当はそんな顔もかわいくて抱きしめたくなるが、ここはあえて心を鬼にする。
「吉野さんがガラッと違う作風のものを描いたら話題になる。数字も取れる。」
「そうですよ。そうすればより多くの人に読んでもらえるでしょう。」
「もちろん。悪いことじゃない。お前自身の私欲が最大の理由になってないならな。」
「担当作品を売りたいって思っちゃダメなんですか?」
「その理由が七光りって言ってたやつを見返したいっていうことなら、吉野さんを巻き込むな。」
高野はそれだけ言うと、半分ほど残っていた缶ビールを飲み干した。
言いたいことは言った。
私欲で吉野を巻き込んでいるというやましさがないなら、それでいい。
後は2人で決めることだ。
どうしても譲れないなら担当替えになるのだろうが、それを決めるのは高野ではない。
律は立ち上がると、キッチンの冷蔵庫から新しい缶チューハイを持って来た。
今日はとことん付き合うしかないだろう。
*****
「いい歳して、お前はバカなのか?」
羽鳥は冷やかにそう言い放った。
吉野は言い返すこともなく、ベットの上で呻いていた。
羽鳥が吉野宅を訪れた時、吉野はベットに沈んでいた。
理由は簡単、二日酔いだ。
前日、昼から柳瀬と酒盛りをした吉野は、頭痛と吐き気で動けない状態だった。
羽鳥の顔を見るなり「水、持ってきて」などとふざけたことを言う。
「柳瀬に聞いてもらって気が晴れたか?」
羽鳥は冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきて、渡してやりながらそう聞いた。
柳瀬と飲むことは聞いていたから、どうせ律の話になるだろうと思っていたからだ。
だが吉野は「全然」と首を振った。
「優なんて『いっそバイバイってのもあり』とか言うんだ。冷たいよ。」
恨みがましく文句を言う吉野に、羽鳥はため息をついた。
30歳を過ぎて二日酔いなんて、カッコ悪い
だが具合が悪かろうと何だろうと、確認したいことがある。
羽鳥はふと真顔になった。
「お前は譲る気がないのか?」
「ないよ。っていうか小野寺さんがどうして譲らないのか、理解できない。」
羽鳥が恋人から編集長のモードに変わったのがわかったのだろう。
吉野は少々ふて腐れ気味だけど、真剣に答えた。
「小野寺は前の会社で文芸担当だったんだ。それが丸川に来て少女漫画担当になった。」
「は?」
「つまり無理矢理変えられたんだ。だけどちゃんと結果を出している。」
「それと俺、関係ある?」
「まぁ最後まで聞け。」
羽鳥はベットでゴロゴロと身体を揺する吉野を見下ろしながら、そう言った。
2人が結論を出す前に、吉野には知っておいてほしいことがある。
「あいつは小野寺出版の御曹司だから七光りだって陰口を叩かれ続けた。だからこそ数字にこだわるんだ。」
「目に見える数字なら、文句のつけようがないから?」
「そうだ。面白いなんて評価は主観。だけどアンケート1位はしっかりした実績だ。」
「小野寺さんはそれを目指してるってことかぁ。。。」
羽鳥はそれだけ言うと、考え込み始めた吉野を残して部屋を出た。
言いたいことは言った。
私欲で吉野を巻き込んでいるというやましさがないなら、それでいい。
後は2人で決めることだ。
これを乗り越えたら、きっといい作品ができるだろう。
羽鳥はため息をつくと、キッチンに立った。
二日酔いの恋人に、胃にやさしい食事を用意するためだ。
【続く】
「いっそバイバイってのも、ありじゃねーの?」
柳瀬は口調こそ冗談めかしているけれど、真剣にそう言った。
柳瀬優は、このところ吉野の部屋に入り浸っていた。
漫画家、吉川千春こと吉野千秋は、現在連載がない。
だから柳瀬も最低限の仕事しか入れずに、極力吉野と会う時間を作った。
吉野はもう羽鳥のものなのだとわかってはいるが、やはり好きだから。
こうして一緒の時間を過ごせるのは、楽しい。
だから今日もこうして吉野の部屋で、2人賑やかに飲んでいる。
だがせっかくの逢瀬に、吉野の口から出てくるのは、新しい担当編集の話ばかりだ。
どうやら新連載の件で、意見が合わないらしい。
今までの路線をさらに追及した作品を描きたい吉野。
思い切って違う作風を提案する担当編集。
どうやらそこで、連載の初っ端からつまづいたらしい。
何度打ち合わせてもコンセプトから食い違うのだと、吉野は愚痴を繰り返す。
「小野寺さんの言うこともわかるんだけどさ。やっぱり俺は俺なんだよ~」
吉野は缶ビールをグイグイと飲みながら、文句を言う。
世間はゴールデンウイークの真っ只中。
とはいえ、まだ明るいうちから酒を飲んでいるこの状況はどうだろう。
だが吉野はそんなことはおかまいなしに文句を言い続ける。
「いい人なんだけどなぁ。俺とは合わないかも。」
吉野は酔いのせいで少々呂律が怪しくなった口調で、そう言った。
柳瀬としては、微妙な気分だった。
小野寺律という青年に対して、柳瀬派好印象を持っている。
若いけれど一生懸命で、優秀な編集者だと思う。
だけどここまで作家を悩ませるというのは、どうなのだろう。
「いっそバイバイってのも、ありじゃねーの?」
柳瀬は口調こそ冗談めかしているけれど、真剣にそう言った。
だけど実はそれも本心じゃない。
エメラルド編集部の内情は、アシスタント仲間からいろいろ聞かされている。
編集長が代わっただけでなく、もうすぐ異動が決まった編集者もいて、大変な状態だ。
多分吉野が律と「バイバイ」したなら、吉野の担当はおそらく羽鳥に戻る。
それは柳瀬としても、面白くない事態だった。
「バイバイって、担当を代えてくれってトリに言った方がいいってこと?」
「そういう手もあるって話だよ。」
柳瀬は素っ気なく答えながら、ため息をついた。
結局、柳瀬はこの件に関しては蚊帳の外なのだ。
それがどうにも面白くなかった。
*****
「俺の言ってること、間違って、ますか~!?」
酔っ払い律が、高野に詰め寄った。
さすが絡み酒愚痴派、着実に進行中だ。
吉野が柳瀬を相手に機嫌よく酔っている頃、律もまた酒を飲んでいた。
だが自発的に飲んでいる吉野とは、少々勝手が違う。
高野が無理矢理部屋に連れ込み、飲ませたのだ。
ここ最近、律が元気がないことには気づいていた。
はっきりと落ち込んでいるわけではないのだが、ぼんやりと考え込んでいる時間が増えた。
何かあったのかなと予想はできる。
だが律は聞いても素直に白状するタマじゃない。
結局高野がとった作戦は、使い古された王道のものだった。
題して、酒に酔わせたところを聞き出す。
まったく作戦というにはおこがましい。
だけど律はものの見事に酔っ払って、ここ最近の悩みを白状した。
新連載の構想で、吉野と意見が合わない。
それは高野が想定した律の悩みの中でも、1番可能性が高いと思えるものだった。
吉野は今長期連載を終えたばかりで、そろそろ新しい連載の話も出る頃だし。
そして2人の意見の違いさえ、予想の範囲内だった。
今までの自分の世界観を大切にしたい吉野と、変化を求める律。
「俺、吉野さんは、殻を破った方が、いいと思うんです。」
少し呂律が怪しくなった律が、缶チューハイをグイグイ飲みながら、そう言った。
高野は缶ビールを飲みながらそれを聞いたが、頷くことはなかった。
「俺の言ってること、間違って、ますか~!?」
酔っ払い律が、高野に詰め寄った。
さすが絡み酒愚痴派、着実に進行中だ。
「それはお前の都合じゃないのか?」
高野はあえて冷たい口調でそう言った。
まだ完全に酔っ払い切っていない律が、キョトンとしている。
本当はそんな顔もかわいくて抱きしめたくなるが、ここはあえて心を鬼にする。
「吉野さんがガラッと違う作風のものを描いたら話題になる。数字も取れる。」
「そうですよ。そうすればより多くの人に読んでもらえるでしょう。」
「もちろん。悪いことじゃない。お前自身の私欲が最大の理由になってないならな。」
「担当作品を売りたいって思っちゃダメなんですか?」
「その理由が七光りって言ってたやつを見返したいっていうことなら、吉野さんを巻き込むな。」
高野はそれだけ言うと、半分ほど残っていた缶ビールを飲み干した。
言いたいことは言った。
私欲で吉野を巻き込んでいるというやましさがないなら、それでいい。
後は2人で決めることだ。
どうしても譲れないなら担当替えになるのだろうが、それを決めるのは高野ではない。
律は立ち上がると、キッチンの冷蔵庫から新しい缶チューハイを持って来た。
今日はとことん付き合うしかないだろう。
*****
「いい歳して、お前はバカなのか?」
羽鳥は冷やかにそう言い放った。
吉野は言い返すこともなく、ベットの上で呻いていた。
羽鳥が吉野宅を訪れた時、吉野はベットに沈んでいた。
理由は簡単、二日酔いだ。
前日、昼から柳瀬と酒盛りをした吉野は、頭痛と吐き気で動けない状態だった。
羽鳥の顔を見るなり「水、持ってきて」などとふざけたことを言う。
「柳瀬に聞いてもらって気が晴れたか?」
羽鳥は冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきて、渡してやりながらそう聞いた。
柳瀬と飲むことは聞いていたから、どうせ律の話になるだろうと思っていたからだ。
だが吉野は「全然」と首を振った。
「優なんて『いっそバイバイってのもあり』とか言うんだ。冷たいよ。」
恨みがましく文句を言う吉野に、羽鳥はため息をついた。
30歳を過ぎて二日酔いなんて、カッコ悪い
だが具合が悪かろうと何だろうと、確認したいことがある。
羽鳥はふと真顔になった。
「お前は譲る気がないのか?」
「ないよ。っていうか小野寺さんがどうして譲らないのか、理解できない。」
羽鳥が恋人から編集長のモードに変わったのがわかったのだろう。
吉野は少々ふて腐れ気味だけど、真剣に答えた。
「小野寺は前の会社で文芸担当だったんだ。それが丸川に来て少女漫画担当になった。」
「は?」
「つまり無理矢理変えられたんだ。だけどちゃんと結果を出している。」
「それと俺、関係ある?」
「まぁ最後まで聞け。」
羽鳥はベットでゴロゴロと身体を揺する吉野を見下ろしながら、そう言った。
2人が結論を出す前に、吉野には知っておいてほしいことがある。
「あいつは小野寺出版の御曹司だから七光りだって陰口を叩かれ続けた。だからこそ数字にこだわるんだ。」
「目に見える数字なら、文句のつけようがないから?」
「そうだ。面白いなんて評価は主観。だけどアンケート1位はしっかりした実績だ。」
「小野寺さんはそれを目指してるってことかぁ。。。」
羽鳥はそれだけ言うと、考え込み始めた吉野を残して部屋を出た。
言いたいことは言った。
私欲で吉野を巻き込んでいるというやましさがないなら、それでいい。
後は2人で決めることだ。
これを乗り越えたら、きっといい作品ができるだろう。
羽鳥はため息をつくと、キッチンに立った。
二日酔いの恋人に、胃にやさしい食事を用意するためだ。
【続く】