夕方5題

【なみだひとつぶ】

「そういうのって、俺っぽくないと思う。」
律の遠慮がちな提案に、吉野は否定的だった。

吉野は担当編集の律と打ち合わせをするために、丸川書店の会議室に来ていた。
話題はもちろん吉野の新連載の構想だ。
吉野の頭の中でもうストーリーは練り上がっており、主要キャラクターのイラストもある。
彼女たちを物語の中で、生き生きと躍動させるのが今から楽しみだ。

「今回、羽鳥は参加しないの?」
「全部、任されていますので」
吉野は何の気なしにそう聞くと、律はきっぱりとそう答えた。
後になって考えてみると、ここからちょっと固い雰囲気になってしまったと思う。
だがその時の吉野は、気付かなかった。
そう言えば以前、羽鳥と打ち合わせた時高野が同席することはなかったなと思うだけだった。

「今回、もう少し冒険しませんか?」
吉野のかなりたどたどしい説明を聞いた後、律はそう言った。
何となくダメ出しされる雰囲気に、吉野は思わず身構える。
案の定、律からはあまり聞きたくないセリフが飛び出したのだ。

「吉川先生の作品はいつも王道なので。たまには少し刺激があってもいいかと思うんです。」
「そう、かなぁ?」
「例えばヒロインの人物像とか、好きな男の子と接近するきっかけとか。もっと劇的な演出もありかなと」
「そういうのって、俺っぽくないと思う。」

律の遠慮がちな提案に、吉野は否定的だった。
もちろん言いたいことはわかるのだ。
ヒロインは生い立ちに問題があるとか、過去に何か事件の事件に巻き込まれたとか、特殊な事情を抱えているとか。
ストーカーに付きまとわれて、襲われそうになったところをカレに助けてもらうとか。
そういうスパイスで読者をドキドキさせれば、それはそれで盛り上がる。

だけど吉野はどちらかというと、リアリティを大事にしたいと思っている。
特殊な事情を持っている女の子なんて、そうそういない。
ストーカーに襲われるなんてことだって、ごく稀だ。
それよりもごくごく普通の女の子の恋や日常を描きたいと思っている。
劇的な演出は、そういうのが好きな作家に任せておけばいい。

「とにかくコンセプトは今、説明した通り。変えたくないです。」
「でもそれでは前作と似たような作品になっちゃいます。」
「ちゃんと描き分けられます。これでもプロですよ!?」
「そんな。。。」
「まぁ小野寺さんの目指すアンケート1位は難しいかもしれないけど。」

いつになく食い下がる律に、思わず皮肉が出てしまう。
だがすぐに言い過ぎたと思い、吉野は慌てて律の顔を見て、息を飲んだ。
いつも穏やかな笑顔だった律の表情が、氷のように固まっている。
心なしか怒りを浮かべた瞳には、なみだがひとつぶ浮かんでいるように見えた。
どうやら律のプライドを傷つけてしまったらしい。

*****

「まぁ小野寺さんの目指すアンケート1位は難しいかもしれないけど。」
吉野から初めて聞かされた皮肉っぽい言葉からは、譲る気持ちがないことが伝わってくる。
だけど律だって、一歩も引く気はなかった。

吉野の新連載の打ち合わせは、予想通り最初から意見が合わなかった。
わかっていたことだ。
吉野はとにかくリアリティを大切にしている。
実際に日常生活に起こり得そうなことを描きたいと思っているのだ。
律にはそれを否定するつもりはないが、吉野が思い描く女の子のリアリティには限界があると思う。
何しろ男である吉野が少女漫画を描くことが、そもそも現実離れしているのだし。

「吉野さんはアンケートの結果を見たりしませんよね?」
「ええ。それに振り回されたくないから」
毎月のアンケートの集計結果や意見は、全部まとめて作家にも伝えられる。
いい意見にはもちろんテンションも上がるが、悪い意見は正直へこむ。
だからアンケート結果を見ない作家も、珍しくはない。

「吉野さんの作品の悪い評価で一番多い意見、知ってます?」
「知るわけ、ないでしょう」
「平坦で盛り上がりに欠ける、です。俺は今回、それを何とかしたいと思ってるんです。」
「アンケート結果でいちいち反応していたらキリがないでしょう。」
「それは逃げじゃないんですか?」
「羽鳥だったら、そんな言い方しないのに。」

律は、自分の言葉が卑怯な言い回しであるとわかっていた。
吉野の作品のアンケートは、好意的なものがほとんどなのだから。
それに今回、いつもと違う作風を要求しているのは、律自身の身勝手な願望もあるのだ。
前作はほとんど羽鳥と吉野が作り上げたもので、律が関わった部分はごくわずか。
だから今回の作品の評価でそれを上回り、羽鳥を越えたいと思っている。
そんな律に吉野は言ってはいけないことを言った。

「いいかげん羽鳥さんからは卒業してください!今の担当は俺なんです!」
「だったらもっと作家の意見を尊重してよ!描くのは俺なんだから!」
思わず声を荒げる律に、吉野も同調するように叫ぶ。
その吉野の目には、なみだがひとつぶ浮かんでいるように見えた。
どうやら吉野のプライドを傷つけてしまったらしい。

ダメだ。これでは、打ち合わせどころではない。
また後日、話し合うことにして、吉野と律は打ち合わせを終えた。

【続く】
2/5ページ