夕方5題
【影追い影】
「いきなり何だ?」
羽鳥は不機嫌な顔を隠すこともなく、文句を言った。
久し振りの休日、のんびりと自宅でくつろいでいたところを吉野に急襲されたのだ。
事前に連絡もなく、ドアホンさえ鳴らすことなく、合鍵で侵入される。
そしてこちらの都合など関係なく「何か食わせて」だ。
食事を終えて片づけ終わったばかりだった羽鳥は、もう1度台所に立つ羽目になる。
吉野は当然という顔で、羽鳥が作った食事を食べている。
無邪気さも極めれば、腹立たしさを通り越して殺意にまで発展する。
羽鳥は吉野との長い付き合いの中で、それを骨身に沁みるほど痛感していた。
それでも文句を言えないのは、惚れた弱みというヤツだ。
やっぱりトリのメシが一番だよね、なんて言われると、怒るに怒れない。
「最近、どうだ。小野寺とはうまくやれているか?」
羽鳥は食後の茶を出しながら、吉野にそう聞いた。
編集長の任についたときに、吉野の担当は後輩の小野寺律に引き継いでいる。
そしてその律からは、特に問題になるような報告はなかった。
フゥフゥと湯気の立つ茶を吹いて冷ましていた吉野は、微かに表情を曇らせた。
そして結局口を付けないまま、湯呑を置いてしまう。
羽鳥は「おや?」と思ったが、特に促すようなことはしなかった。
今までの経験上、吉野に喋らせたいときに口を挟むと、逆効果になる。
「小野寺さんって、意外と俗物かも」
吉野はポツリと呟いた。
後々考えれば、これが始まりだったと思う。
絶好調と思われた吉野と律のコンビに、微妙な気持ちのすれ違いが生まれたきっかけだった。
*****
「小野寺さんって、意外と俗物かも」
吉野はポツリと呟いた。
羽鳥の部屋に来た本当の理由は食事ではない。
このモヤモヤした気分を聞いてほしかったのだ。
吉野は1ヶ月ほど前、長く連載していた長編をを終了した。
これは律が担当になる前、つまり羽鳥が担当だった頃に連載が始まったもの。
そう考えると、何だが羽鳥とのつながりが切れてしまったようで、妙に寂しい。
自分でもおかしな感傷だと思う。
別に羽鳥が担当を離れたのだって納得していたことだし、会おうと思えば会えるのに。
「そろそろ新しい作品の打ち合わせをしませんか?」
律がそう言い出したのは、つい先日のことだ。
吉野としては、そんなに焦らなくてもと思う。
まだもう少し前の作品の余韻に浸っていたい。
だけどプロ作家のはしくれとしては、そろそろしなければならないことだと理解していた。
吉野宅での打ち合わせ自体は、順調に進んだ。
前の連載が終盤に差し掛かった頃から、ポツポツと考えてはいたのだ。
たまに律に喋ったりもしたが、律はそれを丁寧にメモしておいてくれた。
だいたいの筋立てはすんなり決まったし、後は設定をもっと作り込んでいけばいい。
キャラクターももっと練り上げて、深みを出したい。
だけどその後の律の一言で、吉野の気持ちは一気に沈んだ。
「できれば初回で、アンケート1位を取りたいですね。」
「・・・そう、かな」
律の言葉は屈託もなく、あくまでも前向きだった。
だけど答える吉野の声は、曖昧でキレが悪かった。
なぜなら吉野は、そういう観点で漫画を描いたことがない。
自分が読み返して、楽しい、何度でも読みたいと思える作品を描く。
それが吉野のポリシーだ。
売上が何万部だとか、アンケートの順位なんて、その結果に付いてくるものだ。
羽鳥だったら吉野を理解してくれているから、数字目標のようなことは言わないのに。
何となく微妙な雰囲気のまま、打ち合わせは終わりになったのだ。
「俺が間違ってるのかなぁ。」
吉野は羽鳥の淹れてくれた茶を啜りながら、ポツリと呟いた。
羽鳥は何も答えずに、空になった湯呑にお替わりの茶を注いでくれた。
*****
「俺、間違ってると思いますか?」
律は恋人であり、元上司である男に、問いかけてみる。
だけどどういう答えが返って来ても納得できないことは、わかっていた。
吉野が羽鳥宅に押しかけて、お茶を啜っていた頃。
律もまた高野宅で、手料理を振る舞われていた。
こちらは吉野のように催促したのではない。
高野宅に連れ込まれて、有無を言わせずに食事を出されたのだ。
吉野の長期連載が終了し、新しい連載が始まることを律は楽しみにしていた。
なぜなら前の連載は、前担当の羽鳥と吉野が作り上げたものを引き継いだだけだからだ。
もちろん終わってしまった連載の話も大好きだ。
だけどやっぱり誰かが土台を作ったものより、自分でゼロから作り上げる方が嬉しい。
「できれば初回で、アンケート1位を取りたいですね。」
律は吉野にそう言った。
アンケートでいい順位、多くの発行部数。
それが作品の価値を計る大事な要素だと思っている。
だから少しでも上を目指すのだ。
そうすることで、結果面白い作品ができるのだと思う。
だけど吉野の考え方が違うことはわかっていた。
というより、作家というのはだいたいそういう傾向だと思う。
部数だの順位だのは、後からついてくるものだと思っている者が多い。
前の会社で律が担当した文芸作家は、賞を獲った時でさえどうでもいいという感じだった。
吉野にアンケート1位云々と言ってしまったのは、ついつい勢い余ったからだ。
決して言うつもりはなかった、律だけの秘かな目標。
だけど吉野が一瞬不愉快そうに顔をしかめたのは、かなりショックだった。
俗物とでも思っているのだろうか。
確かに面白い作品だったら売れるというのが間違っているとは思わないが、そんな綺麗ごとばかりではない。
まず買ってもらわなければ、面白いかどうかわからないではないか。
律はポツポツと愚痴めいたことを呟いたが、高野はただ「むずかしいな」と言った。
作家と編集者、どちらにも個性や主張がある。
だから一概にこうすればいいなんて言えない。
まるで影追い影。
いくら走っても自分の影が踏めないように、作家と編集者が完全に理解し合うのは無理なのだろうか。
こんな些細なことでショックを受けたことが、またショックだった。
うまくやっているつもりだったけど、全然違ったのかもしれない。
「吉野さんだけは、上っ面の付き合いじゃダメな気がするんですよね。」
律はまたそう呟いた。
高野は「頑張れ」という言葉と一緒に、食後のコーヒーを置いてくれた。
【続く】
「いきなり何だ?」
羽鳥は不機嫌な顔を隠すこともなく、文句を言った。
久し振りの休日、のんびりと自宅でくつろいでいたところを吉野に急襲されたのだ。
事前に連絡もなく、ドアホンさえ鳴らすことなく、合鍵で侵入される。
そしてこちらの都合など関係なく「何か食わせて」だ。
食事を終えて片づけ終わったばかりだった羽鳥は、もう1度台所に立つ羽目になる。
吉野は当然という顔で、羽鳥が作った食事を食べている。
無邪気さも極めれば、腹立たしさを通り越して殺意にまで発展する。
羽鳥は吉野との長い付き合いの中で、それを骨身に沁みるほど痛感していた。
それでも文句を言えないのは、惚れた弱みというヤツだ。
やっぱりトリのメシが一番だよね、なんて言われると、怒るに怒れない。
「最近、どうだ。小野寺とはうまくやれているか?」
羽鳥は食後の茶を出しながら、吉野にそう聞いた。
編集長の任についたときに、吉野の担当は後輩の小野寺律に引き継いでいる。
そしてその律からは、特に問題になるような報告はなかった。
フゥフゥと湯気の立つ茶を吹いて冷ましていた吉野は、微かに表情を曇らせた。
そして結局口を付けないまま、湯呑を置いてしまう。
羽鳥は「おや?」と思ったが、特に促すようなことはしなかった。
今までの経験上、吉野に喋らせたいときに口を挟むと、逆効果になる。
「小野寺さんって、意外と俗物かも」
吉野はポツリと呟いた。
後々考えれば、これが始まりだったと思う。
絶好調と思われた吉野と律のコンビに、微妙な気持ちのすれ違いが生まれたきっかけだった。
*****
「小野寺さんって、意外と俗物かも」
吉野はポツリと呟いた。
羽鳥の部屋に来た本当の理由は食事ではない。
このモヤモヤした気分を聞いてほしかったのだ。
吉野は1ヶ月ほど前、長く連載していた長編をを終了した。
これは律が担当になる前、つまり羽鳥が担当だった頃に連載が始まったもの。
そう考えると、何だが羽鳥とのつながりが切れてしまったようで、妙に寂しい。
自分でもおかしな感傷だと思う。
別に羽鳥が担当を離れたのだって納得していたことだし、会おうと思えば会えるのに。
「そろそろ新しい作品の打ち合わせをしませんか?」
律がそう言い出したのは、つい先日のことだ。
吉野としては、そんなに焦らなくてもと思う。
まだもう少し前の作品の余韻に浸っていたい。
だけどプロ作家のはしくれとしては、そろそろしなければならないことだと理解していた。
吉野宅での打ち合わせ自体は、順調に進んだ。
前の連載が終盤に差し掛かった頃から、ポツポツと考えてはいたのだ。
たまに律に喋ったりもしたが、律はそれを丁寧にメモしておいてくれた。
だいたいの筋立てはすんなり決まったし、後は設定をもっと作り込んでいけばいい。
キャラクターももっと練り上げて、深みを出したい。
だけどその後の律の一言で、吉野の気持ちは一気に沈んだ。
「できれば初回で、アンケート1位を取りたいですね。」
「・・・そう、かな」
律の言葉は屈託もなく、あくまでも前向きだった。
だけど答える吉野の声は、曖昧でキレが悪かった。
なぜなら吉野は、そういう観点で漫画を描いたことがない。
自分が読み返して、楽しい、何度でも読みたいと思える作品を描く。
それが吉野のポリシーだ。
売上が何万部だとか、アンケートの順位なんて、その結果に付いてくるものだ。
羽鳥だったら吉野を理解してくれているから、数字目標のようなことは言わないのに。
何となく微妙な雰囲気のまま、打ち合わせは終わりになったのだ。
「俺が間違ってるのかなぁ。」
吉野は羽鳥の淹れてくれた茶を啜りながら、ポツリと呟いた。
羽鳥は何も答えずに、空になった湯呑にお替わりの茶を注いでくれた。
*****
「俺、間違ってると思いますか?」
律は恋人であり、元上司である男に、問いかけてみる。
だけどどういう答えが返って来ても納得できないことは、わかっていた。
吉野が羽鳥宅に押しかけて、お茶を啜っていた頃。
律もまた高野宅で、手料理を振る舞われていた。
こちらは吉野のように催促したのではない。
高野宅に連れ込まれて、有無を言わせずに食事を出されたのだ。
吉野の長期連載が終了し、新しい連載が始まることを律は楽しみにしていた。
なぜなら前の連載は、前担当の羽鳥と吉野が作り上げたものを引き継いだだけだからだ。
もちろん終わってしまった連載の話も大好きだ。
だけどやっぱり誰かが土台を作ったものより、自分でゼロから作り上げる方が嬉しい。
「できれば初回で、アンケート1位を取りたいですね。」
律は吉野にそう言った。
アンケートでいい順位、多くの発行部数。
それが作品の価値を計る大事な要素だと思っている。
だから少しでも上を目指すのだ。
そうすることで、結果面白い作品ができるのだと思う。
だけど吉野の考え方が違うことはわかっていた。
というより、作家というのはだいたいそういう傾向だと思う。
部数だの順位だのは、後からついてくるものだと思っている者が多い。
前の会社で律が担当した文芸作家は、賞を獲った時でさえどうでもいいという感じだった。
吉野にアンケート1位云々と言ってしまったのは、ついつい勢い余ったからだ。
決して言うつもりはなかった、律だけの秘かな目標。
だけど吉野が一瞬不愉快そうに顔をしかめたのは、かなりショックだった。
俗物とでも思っているのだろうか。
確かに面白い作品だったら売れるというのが間違っているとは思わないが、そんな綺麗ごとばかりではない。
まず買ってもらわなければ、面白いかどうかわからないではないか。
律はポツポツと愚痴めいたことを呟いたが、高野はただ「むずかしいな」と言った。
作家と編集者、どちらにも個性や主張がある。
だから一概にこうすればいいなんて言えない。
まるで影追い影。
いくら走っても自分の影が踏めないように、作家と編集者が完全に理解し合うのは無理なのだろうか。
こんな些細なことでショックを受けたことが、またショックだった。
うまくやっているつもりだったけど、全然違ったのかもしれない。
「吉野さんだけは、上っ面の付き合いじゃダメな気がするんですよね。」
律はまたそう呟いた。
高野は「頑張れ」という言葉と一緒に、食後のコーヒーを置いてくれた。
【続く】
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