朝5題
【薄蒼の街並み】
これはヤバいかもしれない。
倒れまいと懸命に足を踏ん張った律だったが、薄蒼の街並みがグニャリと揺れた。
小野寺律は朝から体調が悪かった。
いやここ数日は身体がだるかったのだ。
人に感染させるような病気だとまずい気はするが、ただだるいだけだ。
熱や喉の痛み、鼻水など風邪を思わせるような症状はなかった。
それに一応インフルエンザの予防接種は受けている。
だから単に疲れが溜まっているだけだと思い、深く考えなかった。
この日は、担当作家吉川千春こと吉野千秋の取材活動に同行していた。
場所は都内某所の10代の少女に人気があるショップが集まるファッションビルだ。
作中で登場人物たちが来ている服の参考にするためだ。
こうしてたまに10代の女の子が興味を持つ服やバック、靴、小物などをチェックする。
律はこういう吉野のこだわりを尊敬している。
それに律だって少女漫画編集だし、こういうものを見て歩くのは仕事に役に立つ。
だが今日はひどくつらかった。
最初はだるいだけだったのに、次第に頭痛がしてきたのだ。
それに悪寒がするのに、妙に暑くて、汗が止まらない。
どうやら微熱も出始めているのだろう。
長い時間をかけて、ファッションビルの中を歩き回った。
ビルの外に出るとさすがに繁華街、人並みの多さにため息が出る。
それでも天気はよくて、空は綺麗に晴れている。
薄蒼の空の下、喧噪の街並みはそれなりに絵になっていた。
「1日中、つき合わせてしまってすみません。よかったらこの後食事でも」
吉野はどうやら満足してくれたようで、機嫌のよさそうな笑顔で誘ってくれる。
律は一瞬迷ったが「そうですね」と頷いた。
はっきり言って体調はこの上なく悪いし、食欲もない。
だけどせっかくの担当作家との親睦の機会、ことわるのはもったいない。
だけど次の瞬間、強烈な眩暈に律は焦った。
これはヤバいかもしれない。
倒れまいと懸命に足を踏ん張った律だったが、薄蒼の街並みがグニャリと揺れた。
「小野寺さん!?大丈夫ですか」
吉野の声が遠くに聞こえる。
ちゃんと立っていなければと思ったが、膝に力が入らない。
意識が遠のいていくのに焦りながら、なすすべもなく目を閉じた。
*****
そんな言い方をしなくても。
吉野は口を尖らせながら、羽鳥の横顔を睨みつけていた。
今日は取材と称して、人気のファッションビルに来た。
特に明確な目的はない。
10代の少女の流行の最前線を、とにかくただ見るのだ。
単に服装や持ち物のチェックなら、ネットだっていい。
だけど実際に自分の目で、読者層の少女たちや、彼女たちが好むオシャレなものを観察して歩く。
何しろ吉川千春の正体は、もうすぐ30歳になる男なのだ。
10代の少女たちからすれば、まちがいなく「おじさん」だろう。
だからこそ少女たちの雰囲気をちゃんと感じることは大事だと思っている。
実を言うと、若い女の子たちが集まるファッションビルなんて居心地が悪い。
だけど少女漫画を描き続けるためには必要なことだと思っている。
「1日中、つき合わせてしまってすみません。よかったらこの後食事でも」
納得するまで見て回った後、吉野は律に声をかけた。
律は「そうですね」と答えたが、目の焦点が合わず、膝がガクガクと震えている。
具合が悪いのは、一目瞭然だった。
「小野寺さん!?大丈夫ですか」
吉野は焦って声をかけたが、律は意識を失い、その場に倒れてしまった。
そしてその後の行動を思い出すと、吉野はかなり恥ずかしい。
オロオロと律を揺すったりするだけで、何もできなかった。
通りすがりの人が救急車を呼んでくれて、手近な病院に向かったのだ。
吉野がしたのは言われるままに律に付き添ったこと。
そして入院が必要なのでご家族に連絡をと言われて、慌てて羽鳥に電話をしたことだけだ。
まったくいい大人が、あり得ないほど動揺してしまった。
「ったく。編集者が作家に世話させてどうする!」
病院に駆けつけて来た羽鳥は、開口一番律を怒鳴った。
吉野は慌てて「トリ、やめろよ!」と割って入る。
体調が悪くてベットに横たわる部下に、それはあまりにも心無いことに思えた。
そんな言い方をしなくても。
吉野は口を尖らせながら、羽鳥の横顔を睨みつけていた。
何せ、吉野だって後ろめたい部分はあるのだ。
毎回締め切りを守らないし、今日もこうして取材に同行させている。
それにこの前アシスタントたちが「小野寺さんって最近少し痩せたよね?」などと噂していた。
無理をさせている自覚は、大いにあるのだ。
「すみません。」
「いいから寝ていろ。とにかく明日と明後日は休め。後は様子を見てからだ。」
今は意識を取り戻した律が、ベットに身体を起こして頭を下げる。
羽鳥はそのままベットから出ようとする律を手で制して、押しとどめた。
「吉野。帰るぞ。」
羽鳥は用件だけ告げると、さっさと病室を出て行く。
吉野は慌てて「今日はありがとうございました!」と律に頭を下げると、それに続いた。
*****
まったく、あの人に合わせる顔がない。
羽鳥は廊下をずんずんと歩きながら、こっそりとため息をついた。
羽鳥は予想外の事態に動揺していた。
吉野と律が取材のために、人気のファッションビルに行ったことは知っていた。
だが律が倒れて、救急車で病院に運び込まれたと聞いて、血の気が引いた。
病院に向かうと、律はもう意識が戻っていたが、ひどく顔色が悪かった。
吉野はオロオロとしており、埒が明かない。
過労ですね。点滴をしておきましょう。念のため一晩だけ入院した方がいいですね。
担当の医師にそう言われて、ようやくホッとすることができた。
「ったく。編集者が作家に世話させてどうする!」
羽鳥は律の顔を見るなり、強い口調で咎めた。
だけどそれは律や吉野に対してではない。
羽鳥は自分に腹を立てていた。
前編集長の高野が抜けてから、未だに人員は補充されていない。
編集部員たちに無理をさせているという自覚はあり、不安はあったのだ。
そして律は真面目で、若さゆえの気負いもあり、とにかく手を抜くことをしない。
その律が吉野の担当になったのだから、予想するべきだったのだ。
「トリ、やめろよ!」
吉野が口を挟んだが、羽鳥は不機嫌な表情を崩さなかった。
労ってやりたい気持ちはもちろんある。
担当作家に手間をかけるなど、編集者としては大失態。
倒れる前に休むことが重要なのだ。
律にはそれをしっかり考えてもらわなくてはならない。
「俺が無理させたんだよ。だから付き添ってて上げた方が」
「いや、必要ない」
律の病室を出た羽鳥を、吉野が小走りで追いかけてきた。
だけど律が心配なようで、未練がましく病室の方を何度も振り返る。
羽鳥はそれでも歩調を緩めることなく、廊下を進んだ。
まったく、あの人に合わせる顔がない。
羽鳥は廊下をずんずんと歩きながら、こっそりとため息をついた。
「せめて、家族の人が来るまででも」
「邪魔なだけだ。」
執拗に食い下がる吉野を促しながら、羽鳥は病院の正面玄関を出る。
ちょうどそこに1台の車が入って来るのが見えた。
スポーツタイプの2シーター、運転席にはかつての上司。
律の世話をして、甘やかしたくて、うずうずしている男の登場だ。
*****
まったく手のかかる。でもそこが可愛い。
高野はシャクシャクとリンゴを齧る律を見ながら、微笑していた。
律が倒れた。
羽鳥からその連絡を受けた羽鳥は、車を飛ばした。
そもそも高野がいた頃から、エメラルド編集部は殺人的に忙しかった。
編集長が抜けて、人員の補充もないのだから、大変なのは想像がつく。
そして不器用な律のことだから、息を抜くタイミングもうまく取れなかったのだろう。
『本当に申し訳ありません。』
ひたすら恐縮する羽鳥に、高野は苦笑するしかなかった。
羽鳥に律とは特別な関係なのだと、はっきり伝えたことはない。
でもさすが編集長、羽鳥はそれに気付いているようだ。
だからこそ律を倒れるまで働かせたことを、申し訳ないと思っているようだ。
ちなみに高野もはっきり告げられたことはないが、羽鳥と吉野の関係には気づいている。
律が倒れたのが、吉野の取材の同行中というから、羽鳥の謝罪にはそれも含まれているのだろう。
羽鳥と吉野、2人がかりで律を酷使したとでも思っているのかもしれない。
「大丈夫か?」
病室に入るなり、高野はそう聞いた。
職場が離れてしまったせいで、顔を合わせるのは数日ぶりだった。
寂しいが、直属の部下でないことが今はありがたい。
不摂生を叱責するのは、今の上司である羽鳥の仕事。
今の高野は、ただ律を甘やかしたい恋人でいられるのだ。
「ったく、情けないったらないですよ。」
律はもうすっかり元気を取り戻して、文句を言った。
点滴をしたそうだから、顔色がいいのはそのせいだろう。
そして高野の手にフルーツの盛り合わせがあるのを見て、目を輝かせた。
「高野さん、リンゴ。ウサギの形にして下さい!」
「はいはい」
さっそくの女王様モードに、高野の頬が緩んだ。
落ち込んではいるようだが、それ以上に闘志が漲っている。
今日の失態を仕事で取り戻すべく、リベンジに燃えているのだ。
まったく頼もしい編集者になったものだと思う。
何より嬉しいのは、高野が駆け付けたことに当然という顔をしていることだ。
なかなか想いを認めない頃だったら「何しに来たんですか!?」とでも言っただろう。
だけど今は寛いだ表情を見せてくれている。
「退院したら、俺の部屋で療養だ。目標は2日で5キロ太れ。」
「ええ!?メタボになるじゃないですか!」
「っていうか、俺がエメラルドを抜けてから、そのくらいは体重落ちただろ。」
まったく手のかかる。でもそこが可愛い。
高野はシャクシャクとリンゴを齧る律を見ながら、微笑していた。
大したことがなくて、本当によかった。
これからはもっと体調管理に気を配ってやった方がよさそうだ。
ただし女王様のご機嫌を損ねないように、あくまでさり気なく。
完全看護の病院だそうだから、夜通し付き添うことはできない。
でも明日退院の時には、車で迎えに来よう。
ならば今日の帰りは、食料の買い出しだ。
こっちも本気、2日間できっちり5キロ、太らせてやる。
高野は逆ダイエットのメニューを考えながら、ふと窓から外を見た。
薄蒼の街並みが、そろそろ夕暮れ色に変わろうとしていた。
【続く】
これはヤバいかもしれない。
倒れまいと懸命に足を踏ん張った律だったが、薄蒼の街並みがグニャリと揺れた。
小野寺律は朝から体調が悪かった。
いやここ数日は身体がだるかったのだ。
人に感染させるような病気だとまずい気はするが、ただだるいだけだ。
熱や喉の痛み、鼻水など風邪を思わせるような症状はなかった。
それに一応インフルエンザの予防接種は受けている。
だから単に疲れが溜まっているだけだと思い、深く考えなかった。
この日は、担当作家吉川千春こと吉野千秋の取材活動に同行していた。
場所は都内某所の10代の少女に人気があるショップが集まるファッションビルだ。
作中で登場人物たちが来ている服の参考にするためだ。
こうしてたまに10代の女の子が興味を持つ服やバック、靴、小物などをチェックする。
律はこういう吉野のこだわりを尊敬している。
それに律だって少女漫画編集だし、こういうものを見て歩くのは仕事に役に立つ。
だが今日はひどくつらかった。
最初はだるいだけだったのに、次第に頭痛がしてきたのだ。
それに悪寒がするのに、妙に暑くて、汗が止まらない。
どうやら微熱も出始めているのだろう。
長い時間をかけて、ファッションビルの中を歩き回った。
ビルの外に出るとさすがに繁華街、人並みの多さにため息が出る。
それでも天気はよくて、空は綺麗に晴れている。
薄蒼の空の下、喧噪の街並みはそれなりに絵になっていた。
「1日中、つき合わせてしまってすみません。よかったらこの後食事でも」
吉野はどうやら満足してくれたようで、機嫌のよさそうな笑顔で誘ってくれる。
律は一瞬迷ったが「そうですね」と頷いた。
はっきり言って体調はこの上なく悪いし、食欲もない。
だけどせっかくの担当作家との親睦の機会、ことわるのはもったいない。
だけど次の瞬間、強烈な眩暈に律は焦った。
これはヤバいかもしれない。
倒れまいと懸命に足を踏ん張った律だったが、薄蒼の街並みがグニャリと揺れた。
「小野寺さん!?大丈夫ですか」
吉野の声が遠くに聞こえる。
ちゃんと立っていなければと思ったが、膝に力が入らない。
意識が遠のいていくのに焦りながら、なすすべもなく目を閉じた。
*****
そんな言い方をしなくても。
吉野は口を尖らせながら、羽鳥の横顔を睨みつけていた。
今日は取材と称して、人気のファッションビルに来た。
特に明確な目的はない。
10代の少女の流行の最前線を、とにかくただ見るのだ。
単に服装や持ち物のチェックなら、ネットだっていい。
だけど実際に自分の目で、読者層の少女たちや、彼女たちが好むオシャレなものを観察して歩く。
何しろ吉川千春の正体は、もうすぐ30歳になる男なのだ。
10代の少女たちからすれば、まちがいなく「おじさん」だろう。
だからこそ少女たちの雰囲気をちゃんと感じることは大事だと思っている。
実を言うと、若い女の子たちが集まるファッションビルなんて居心地が悪い。
だけど少女漫画を描き続けるためには必要なことだと思っている。
「1日中、つき合わせてしまってすみません。よかったらこの後食事でも」
納得するまで見て回った後、吉野は律に声をかけた。
律は「そうですね」と答えたが、目の焦点が合わず、膝がガクガクと震えている。
具合が悪いのは、一目瞭然だった。
「小野寺さん!?大丈夫ですか」
吉野は焦って声をかけたが、律は意識を失い、その場に倒れてしまった。
そしてその後の行動を思い出すと、吉野はかなり恥ずかしい。
オロオロと律を揺すったりするだけで、何もできなかった。
通りすがりの人が救急車を呼んでくれて、手近な病院に向かったのだ。
吉野がしたのは言われるままに律に付き添ったこと。
そして入院が必要なのでご家族に連絡をと言われて、慌てて羽鳥に電話をしたことだけだ。
まったくいい大人が、あり得ないほど動揺してしまった。
「ったく。編集者が作家に世話させてどうする!」
病院に駆けつけて来た羽鳥は、開口一番律を怒鳴った。
吉野は慌てて「トリ、やめろよ!」と割って入る。
体調が悪くてベットに横たわる部下に、それはあまりにも心無いことに思えた。
そんな言い方をしなくても。
吉野は口を尖らせながら、羽鳥の横顔を睨みつけていた。
何せ、吉野だって後ろめたい部分はあるのだ。
毎回締め切りを守らないし、今日もこうして取材に同行させている。
それにこの前アシスタントたちが「小野寺さんって最近少し痩せたよね?」などと噂していた。
無理をさせている自覚は、大いにあるのだ。
「すみません。」
「いいから寝ていろ。とにかく明日と明後日は休め。後は様子を見てからだ。」
今は意識を取り戻した律が、ベットに身体を起こして頭を下げる。
羽鳥はそのままベットから出ようとする律を手で制して、押しとどめた。
「吉野。帰るぞ。」
羽鳥は用件だけ告げると、さっさと病室を出て行く。
吉野は慌てて「今日はありがとうございました!」と律に頭を下げると、それに続いた。
*****
まったく、あの人に合わせる顔がない。
羽鳥は廊下をずんずんと歩きながら、こっそりとため息をついた。
羽鳥は予想外の事態に動揺していた。
吉野と律が取材のために、人気のファッションビルに行ったことは知っていた。
だが律が倒れて、救急車で病院に運び込まれたと聞いて、血の気が引いた。
病院に向かうと、律はもう意識が戻っていたが、ひどく顔色が悪かった。
吉野はオロオロとしており、埒が明かない。
過労ですね。点滴をしておきましょう。念のため一晩だけ入院した方がいいですね。
担当の医師にそう言われて、ようやくホッとすることができた。
「ったく。編集者が作家に世話させてどうする!」
羽鳥は律の顔を見るなり、強い口調で咎めた。
だけどそれは律や吉野に対してではない。
羽鳥は自分に腹を立てていた。
前編集長の高野が抜けてから、未だに人員は補充されていない。
編集部員たちに無理をさせているという自覚はあり、不安はあったのだ。
そして律は真面目で、若さゆえの気負いもあり、とにかく手を抜くことをしない。
その律が吉野の担当になったのだから、予想するべきだったのだ。
「トリ、やめろよ!」
吉野が口を挟んだが、羽鳥は不機嫌な表情を崩さなかった。
労ってやりたい気持ちはもちろんある。
担当作家に手間をかけるなど、編集者としては大失態。
倒れる前に休むことが重要なのだ。
律にはそれをしっかり考えてもらわなくてはならない。
「俺が無理させたんだよ。だから付き添ってて上げた方が」
「いや、必要ない」
律の病室を出た羽鳥を、吉野が小走りで追いかけてきた。
だけど律が心配なようで、未練がましく病室の方を何度も振り返る。
羽鳥はそれでも歩調を緩めることなく、廊下を進んだ。
まったく、あの人に合わせる顔がない。
羽鳥は廊下をずんずんと歩きながら、こっそりとため息をついた。
「せめて、家族の人が来るまででも」
「邪魔なだけだ。」
執拗に食い下がる吉野を促しながら、羽鳥は病院の正面玄関を出る。
ちょうどそこに1台の車が入って来るのが見えた。
スポーツタイプの2シーター、運転席にはかつての上司。
律の世話をして、甘やかしたくて、うずうずしている男の登場だ。
*****
まったく手のかかる。でもそこが可愛い。
高野はシャクシャクとリンゴを齧る律を見ながら、微笑していた。
律が倒れた。
羽鳥からその連絡を受けた羽鳥は、車を飛ばした。
そもそも高野がいた頃から、エメラルド編集部は殺人的に忙しかった。
編集長が抜けて、人員の補充もないのだから、大変なのは想像がつく。
そして不器用な律のことだから、息を抜くタイミングもうまく取れなかったのだろう。
『本当に申し訳ありません。』
ひたすら恐縮する羽鳥に、高野は苦笑するしかなかった。
羽鳥に律とは特別な関係なのだと、はっきり伝えたことはない。
でもさすが編集長、羽鳥はそれに気付いているようだ。
だからこそ律を倒れるまで働かせたことを、申し訳ないと思っているようだ。
ちなみに高野もはっきり告げられたことはないが、羽鳥と吉野の関係には気づいている。
律が倒れたのが、吉野の取材の同行中というから、羽鳥の謝罪にはそれも含まれているのだろう。
羽鳥と吉野、2人がかりで律を酷使したとでも思っているのかもしれない。
「大丈夫か?」
病室に入るなり、高野はそう聞いた。
職場が離れてしまったせいで、顔を合わせるのは数日ぶりだった。
寂しいが、直属の部下でないことが今はありがたい。
不摂生を叱責するのは、今の上司である羽鳥の仕事。
今の高野は、ただ律を甘やかしたい恋人でいられるのだ。
「ったく、情けないったらないですよ。」
律はもうすっかり元気を取り戻して、文句を言った。
点滴をしたそうだから、顔色がいいのはそのせいだろう。
そして高野の手にフルーツの盛り合わせがあるのを見て、目を輝かせた。
「高野さん、リンゴ。ウサギの形にして下さい!」
「はいはい」
さっそくの女王様モードに、高野の頬が緩んだ。
落ち込んではいるようだが、それ以上に闘志が漲っている。
今日の失態を仕事で取り戻すべく、リベンジに燃えているのだ。
まったく頼もしい編集者になったものだと思う。
何より嬉しいのは、高野が駆け付けたことに当然という顔をしていることだ。
なかなか想いを認めない頃だったら「何しに来たんですか!?」とでも言っただろう。
だけど今は寛いだ表情を見せてくれている。
「退院したら、俺の部屋で療養だ。目標は2日で5キロ太れ。」
「ええ!?メタボになるじゃないですか!」
「っていうか、俺がエメラルドを抜けてから、そのくらいは体重落ちただろ。」
まったく手のかかる。でもそこが可愛い。
高野はシャクシャクとリンゴを齧る律を見ながら、微笑していた。
大したことがなくて、本当によかった。
これからはもっと体調管理に気を配ってやった方がよさそうだ。
ただし女王様のご機嫌を損ねないように、あくまでさり気なく。
完全看護の病院だそうだから、夜通し付き添うことはできない。
でも明日退院の時には、車で迎えに来よう。
ならば今日の帰りは、食料の買い出しだ。
こっちも本気、2日間できっちり5キロ、太らせてやる。
高野は逆ダイエットのメニューを考えながら、ふと窓から外を見た。
薄蒼の街並みが、そろそろ夕暮れ色に変わろうとしていた。
【続く】