…したい10題

【くすぐりたい】

笑わせたいときはくすぐっていた。
そんな幼い日に戻れたらいいなと思う。

小日向杏は、律の横顔を見ながらこっそりとため息をついた。
杏はもうずっと入院している律に付き添っている。
律の父親は仕事があるし、律の母親は着替えだ何だと顔は出すが慌しい。
一日中、ずっと付き添っているのは杏だけだ。
だがその律はずっと「勉強」だと称して、少女漫画を読んでいる。

「杏ちゃんもいろいろ忙しいだろうし、帰っていいよ?」
意識が戻ったその日、律は心配をかけた詫びや見舞いの礼の後、言った。
その後も時折、律の病室にい続ける杏に同じ事を繰り返す。
それはないんじゃないかと、杏は不満に思った。
丸川書店に転職した律は、とにかく「忙しい」を繰り返している。
電話をしてもすぐ切られてしまうし、メールもなかなか返ってこない。
こんな不慮の事故で、時間があるときくらい一緒に過ごしてもいいのではないかと思う。

律が杏のことを好きでないことはわかっている。
彼の心の中には、中学の頃からずっと好きだった人がまだいるということも。
その人がどういう人で、今どうしているのかを聞く勇気はなかった。
だが今、杏は不思議に思っている。
律が好きな人は、律の身に置きたこの事件を知っているのだろうかと。

この病院に現れた身内以外の人物は、2人だけだ。
救急車で搬送されたときに付き添ってくれた人と、あの隣人で上司だという人。
2人とも仕事関係だし、そもそも男の人だし。
律の好きな人が事件を知らせるほどの仲ではないのなら。
もしくは知っていても来ないのなら。
早く諦めて、杏の方を見て欲しいなどと考えてしまう。

*****

「杏ちゃん、俺が寝てる間に誰か来た人いる?」
ずっと漫画を読んでいた律が、不意に顔を上げてそう言った。
杏は驚いて律の顔を見た。
もう入院して3日も経過している。
なぜ今そんなことを聞くのだろう。

「何で、今さら」
杏は言いかけて、口を噤んだ。
まっすぐに杏を見たその表情は、ひどく切なくて寂しそうだったからだ。
律は好きな人が来たのかどうか、それが知りたいのだ。

「来なかったよ。」
杏は静かに答えた。
このとき杏には特に悪気はなかった。
律は好きな人が来たのかどうか気にしていると思ったし、それはその通りだった。
だが杏は律の想い人が男-あの隣人の上司であるなどとは夢にも思わなかったのだ。
だから特に隠すつもりもなく、来なかったと言った。

「そうか。そうだよね。」
律はそう言うと、また少女漫画に視線を落とした。
杏はその横顔を見て、またひそかにため息をついた。

*****

小さい頃から律は本が好きだった。
杏が話しかけても生返事で、こうやって本から目を離さない。
そんなとき杏はそっと律の背後から近寄って、脇や首などをこちょこちょとくすぐった。
すると律は「ひゃあ」と声を上げて、笑ってくれて。
そして杏と遊んでくれたのだ。
大きくなるにつれ、律はそんなことをしなくても相手をしてくれるようになった。
優しくて、いつも細やかに気を使ってくれて。
杏はそんな律に惹かれたのだ。

律が好きな人を想い続けているように、杏もずっと律を想っている。
別に好きな人との仲を邪魔しようという考えはない。
ただ今はずっと律のそばにいたいだけだ。
未だに誰とも長い恋愛をしていないのだから、律の恋が実る可能性は低いのだと思う。
律が好きな人を諦めたとき、受け入れてもらえればいい。
とにかく想い続けるだけなら、悪いことではないはずだ。

律は杏には目もくれずに、少女漫画を読んでいる。
その横腹をくすぐりたい。
小さい頃みたいに、こちらを向かせて、笑わせたい。
だけど今そんなことをしても、律は笑ってはくれないだろう。
そもそもナイフで刺されているのだし、下手なことをすれば傷が悪化する。

いっそ律が長い恋を実らせてくれたら、綺麗さっぱり諦められるのかもしれない。
杏はひそかにそう思い、またため息をついた。

【続く】
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