朝5題

【柔らかな光】

「だから、無理だって!」
律は懸命に声を潜めながら、それでもきっぱりと拒絶していた。

律は丸川書店の廊下にいた。
目の前には会議室の扉。
その中では律の担当作家、吉川千春とそのアシスタントたちが必死の作業中だ。
今月は特に進行が遅かったので、会議室での作業となったのだ。
他の編集部員たちも、手が空いたところで手伝いに来てくれることになっている。

だが必死で手を動かしていた最中、律の携帯電話が震えた。
表示を見ると「母」だ。
まったくこの忙しいときに!
律は心の中で悪態をついた。
どうせ家を継げだの、結婚しろだの、そんな話に決まってる。
心配してくれているのはわかるが、とにかく癇に障るのだ。
律はあとでかけ直すことにして、電話に出なかった。
だが電話は一度切れると、またしても震えだした。
いっそ電源を切ってしまいたいが、仕事の連絡もあるし、それはできない。

「小野寺さん、電話、いいんですか?」
吉野が不思議そうな顔で、こちらを見た。
律はこっそりとため息をつく。
他のアシスタントたちも気遣わしげにこちらを見ている間に、また電話が切れて、再び震えだした。

「すみません。すぐ戻ります。」
律は素早く立ち上がると、会議室を走り出た。
部屋を出るなり、通話ボタンを押す。
案の定、ご立腹の母親が、マシンガンのように一斉掃射を浴びせかけてきた。

*****

『今すぐ杏ちゃんの家に行きなさい!』
母親は「もしもし」も言わずに、そう叫んでいる。
「行けるわけないだろ、今仕事中なんだよ!」
律は怒りで尖りそうな声を必死に押さえながら、そう答えた。
腹は立つけれど、気になる。
時刻はそろそろ日付が変わろうとしている頃だ。
こんな時間に誰かの家に行くなど、ただ事ではない。

「杏ちゃん、どうしたの?」
『インフルエンザで寝込んじゃってるのよ!』
「それなら病院だろ。行ってないの?」
『行ったわよ!でもなかなか熱が下がらなくて、意識が朦朧としてるみたいなの。』
「それこそ俺が行ってどうなるんだよ。」
『うわ言で、あんたの名前を呼んでるんだって!』

律は一瞬、言葉を失った。
一方的に婚約を破棄し、突き放してしまった女の子。
結局は高野とのことを認めて、笑って応援してくれた。
その彼女が熱にうなされて、自分を呼んでいるなんて。

『杏ちゃんのお母さんも、律にお見舞いに来てほしいって言ってるのよ!』
「とにかく無理だよ!原稿が間に合うかどうかの瀬戸際なんだ」
『あんた1人くらい、どうにでもなるでしょう!』
「だから、無理だって!」
『どうしてそんなに薄情なのよ!』

律は携帯電話を耳から外すと、深いため息をついた。
このままでは埒が明かない。
杏のことは気になるけど、どうにもならないのだ。
仕事を放ってはおけないし、そもそもこんな夜中に駆けつける関係ではない。

「もう切るよ。杏ちゃんの家には明日の朝、連絡するから。」
母はまた電話口で何かをわめいていたが、律はかまわず電話を切った。
そして実家と母親の携帯電話を一時的に着信拒否にする。

そもそも病院に行って戻ってきたのなら、命に別状はないのだろう。
だけど母親の「薄情」という言葉が胸に刺さった。
妹のように大事に思っている子より、仕事を選ぶ自分は確かに冷たい人間なのかもしれない。
律はもう1度ため息をつくと、会議室へと戻った。

*****

まさか泣いている?
吉野は思わず手を止めて、じっと凝視してしまう。

いつにも増して進行が遅れた今回、吉野はアシスタントと共に丸川書店の会議室にいた。
心の中は毎回お馴染みの「もっと早く進めておけばよかった」という後悔。
ここは原稿の最終チェックも楽だし、手の空いた他の編集部員も駆け付けやすい。
つまりここに缶詰めにされるのは、デット中のデットのときなのだ。

とにかく集中して、原稿を上げなければならない。
だけど担当編集の律の携帯が、机の上で振動した。
律は画面を見ると、顔をしかめている。
だがそのまま電話には出なかった。
電話は一度切れて、また振動している。

「小野寺さん、電話、いいんですか?」
吉野はそっと声をかけた。
何しろ吉野の都合で、徹夜仕事をさせてしまっているのだ。
少しくらい私用電話をしたって、かまわないと思う。

「すみません。すぐ戻ります。」
律は電話を持って、素早く会議室を出た。
だがすぐに戻ってくると、律はまた原稿に向かう。
吉野はそんな律の横顔を見て「あれ?」と思った。

律の瞳が、さっきまでなかった柔らかな光を放っている。
つまり目が潤んでいるのだ。
まさか泣いている?
吉野は思わず手を止めて、じっと凝視してしまう。

先程の電話の前には、なかったはずだ。
つまり何かあったのだろう。
律はかすかに歯を食いしばるような表情で、手を動かしている。
それは必死に作業をしているようにも、何かに耐えているようにも見えた。

「吉野、手が止まってるぞ」
吉野はその声に慌てて、原稿に向かう。
声をかけたのは、この窮地を手伝いに来た羽鳥だ。
羽鳥はそっと吉野と視線を合わせると、かすかに首を振った。
敏腕編集長は律の異変にも、ちゃんと気付いている。
だけど甘やかすことなどせず、知らないそぶりで仕事をさせているのだ。
吉野にも言外に「放っておいてやれ」と告げている。

とにかく俺は少しでも早く、小野寺さんを解放してあげなくちゃ。
吉野は気合いを入れると、再び原稿に向かう。
だけど柔らかな光を放つ律の緑色の瞳を盗み見て、綺麗だと思った。
次のお話のネタにならないかなと考えてしまうのは、漫画家の性だ。

【続く】
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