朝5題

【朝霜に濡れる】

「ちくしょう!ふざけんな!」
律は荒々しく、足元の地面を踏みしめた。

先程エメラルド編集部は、その月の原稿を入稿した。
だがそのなかに吉川千春のものはなかった。
今回、律が担当になって初めて吉川千春の原稿が間に合わなかった。
つまり落としてしまったのだった。

これは律にとって、かなりショックなことだった。
律だってエメラルド編集部の中では若手とはいえ、もう新人ではない。
原稿を落とした経験だって、初めてじゃなかった。
だけど今までのそれには、すべて理由があった。
例えば作家の急病とか、アシスタントの欠員とか。
だけどそういうアクシデント以外で落としてしまったのは、初めてのことだった。

理由はあるのだ。
今回は今後の展開を握る新しいキャラクターが登場する回だった。
だから丁寧に、しっかり描きたい。
吉野はそう言ったし、律もその意見には賛成だ。
そのシーンにこだわり、何度も推敲を重ねた。
だがかなり仕上がった後にもっといい案を思いついてしまい、迷った末に一から描き直した。
だがその判断のせいで、結局間に合わなくなってしまった。

トボトボと始発電車で帰宅した律は、マンション近くの公園にいた。
大きなマンションの谷間にあり、ブランコとベンチしかない狭さ。
ぶっちゃけ公園と呼ぶには、おこがましいほどの場所だ。
ブランコとベンチも古びており、律は昼間でさえ、ここで遊んでいる子供を見たことがない。
だが今のどん底まで落ち込んだ気分にはふさわしい場所だと思った。
本当ならさっさと自宅に戻って、寝て、明日に向かって英気を養うべきだろう。
だけどどうしてもそんな気になれなかったのだ。

もっとうまく立ち回れたら、どうにか間に合ったかもしれない。
そう考えると、悔しくてたまらなかった。
信じて任せてくれた編集長の羽鳥、それにいろいろフォローしてくれた木佐や美濃。
その他にも迷惑をかけてしまった関係者に合わせる顔がない。
そして何よりも、楽しみにしていた読者に申し訳ない。

「ちくしょう!ふざけんな!」
律は荒々しく、足元の地面を踏みしめた。
霜が降りた柔らかい土が、ザクザクと音を立てる。

いくら考えても仕方がない。
時間を戻すことはできないのだから。
とにかく今するべきことは、このやり場のない気持ちを整理することだ。
誰もいない早朝の公園で、朝霜に当り散らすくらい許されるだろう。
明日からはまた、いい作品を生み出すために頑張らなくてはならないのだから。

*****

「また来月、よろしくお願いします。」
吉野はアシスタントたちを笑顔で送り出している。
その表情が強張っていることに気付いたのは、柳瀬だけだった。

「じゃあ吉川先生、俺、調整があるので、会社に戻ります。」
担当編集の小野寺律は、吉野に頭を下げた。
吉野は「まだやれる」と言い張ったが、ストップをかけたのが律だった。
この判断は正しい。いやむしろ遅かったかもしれない。
柳瀬も他のアシスタントも、作業をしながら「これは無理だ」と思った。
かくして吉野の原稿は落ちてしまったのだった。

「皆さん、本当に申し訳ありませんでした。」
律はアシスタントたちにも労いを忘れない。
だが彼はこれから代理原稿の準備、関係各所へ頭を下げて回るなど、この尻拭いに奔走する。
それでも嫌な顔1つせずに皆を気遣う姿は、流石だと思う。
そして律は慌ただしく、吉野の自宅兼仕事場のマンションを後にした。

「ごめんね。アシスタント料はもちろんいつも通り払うから!」
律が出て行った後、吉野も疲労の色濃いアシスタントたちに頭を下げた。
どことなく厳しい表情だった律に比べて、吉野は困ったような笑顔だ。
アシスタントの女性たちも「仕方ないですよ」「次、頑張りましょう」と答えた。

「先生、そんなにショック受けてないみたいでよかった。」
眠い目をこすりながら、帰り支度をする女性アシスタントの1人がそう呟いた。
ヒソヒソ声だったので、誰が発したかはよくわからない。
多分彼女たちは、吉野には聞こえていないと思っただろう。
だけど吉野ははっきりとそれを聞き取った。

ショックを受けていないはずがないじゃないか。
吉野は心の中でそう叫んでいた。
だけど全て、自業自得だ。
原稿を落とすなんて、作家としてこれ以上の恥はない。
叫び出したいほど悔しいに決まっている。

柳瀬が彼女たちを窘めようとしていたのを見て、吉野は慌てて目だけで「やめろ」と告げた。
彼女たちには迷惑をかけたのだ。
いくら料金を払うと言ったって、気分は良くないに決まっている。
それならここでわざわざ事を荒立てる必要もないだろう。

「本当にお疲れ様。また来月、よろしくお願いします。」
吉野はゾロゾロと出て行くアシスタントたちに声をかけた。
流石の柳瀬も、余計なことは言わない。
淡々と片づけを終えると「じゃあまた」と声をかけて、出て行った。
誰もいなくなると、吉野はソファにドスンと倒れ込んだ。

トリも呆れてるかな。
吉野はソファに横たわりながら、ぼんやりと天井を見上げた。
徹夜明けの目には、それは妙に白々と歪んで見えた。

*****

「吉野、いるか?」
勝手知ったる家に、合鍵で侵入した羽鳥はやれやれとため息をつく。
ソファで不貞寝している吉野の目は、涙で膨れていた。

千秋をなぐさめてやれ。
羽鳥の携帯電話に傍若無人なメールを送り付けて来たのは、柳瀬だった。
その内容に異存はない。
久し振りに原稿を落とした吉野が落ち込んでいるのは予想ができる。
恋人としては気になるし、どのみち行くつもりだったのだ。
なのに一方的に命令される感じのメールは気に入らなかった。

それでも羽鳥は、柳瀬に「わかった」と短く返信した。
毎月毎月、吉野は身を削るように作品を生み出し続けている。
だが担当から外れた羽鳥は、それを全て見守ることはできない。
だからこそ、いつも吉野の隣にいる柳瀬の機嫌を損ねたくはなかった。

吉野のマンションに行くと、家主はソファの上で熟睡していた。
余程疲れているようで、羽鳥が近寄っても起きる気配もない。
こういう時、少女漫画だったらお姫様抱っこで運んでやるんだろう。
だが羽鳥だって疲れているし、いくら痩せていても男である吉野を抱き上げられる自信がない。
起こそうとして覗き込むと、吉野の目は涙で膨れていた。
悔しさで涙ぐんでいるうちに、眠ってしまったのだろう。

「風邪を引くぞ。寝るならベットにしろ。」
肩をそっと揺すると、吉野がぼんやりと目を開ける。
だが羽鳥の姿を見つけると、ガバッと跳ね起きた。
「トリ、ゴメン!俺の原稿、間に合わなかった。。。」
吉野は慌てて立ち上がると、頭を下げようとする。
だが羽鳥は慌てて吉野の肩を掴んで、それを防いだ。

「もういい。次の原稿で取り返せ。」
「小野寺さんにも迷惑かけた。俺が内容を変えたいなんて言い出したから。」
「迷惑じゃない。変えた方がいいと小野寺が判断したし、俺も同意した。」
「でも間に合うって信じてくれたのに」
「間に合わないことも覚悟もしてた。それでも作品の今後を考えたら変えて正解だ。」

羽鳥は改めて、ひどい有様の吉野を見た。
いつも以上に顔色が悪く、やつれている。
それにソファで寝ていたせいで寝ぐせもついているし、着ているシャツもしわくちゃだ。
もう見るからにボロボロといった印象だった。

「とにかく今は寝ろ。その間にメシを用意するから」
羽鳥はそう言って、吉野を寝室に押し込んだ。
そして持参したスーパーの袋から食材を取り出すと、朝食の準備に取り掛かる。
ここから先は編集者と作家ではなく、恋人としての時間だ。

今回、内容を変えたことは、仕方がないと思う。
本当の問題はそもそも普段から筆が遅すぎることで、そこをもっと考えてほしいのだが。
だけど今回は小言は言わないでおこうと、羽鳥は思った。
吉野はきっと、落ち込みながらもアシスタントたちの前では笑っていたに違いない。
せめて今日だけは、黙って甘やかしてやればいい。

*****

ったく、結構いい革靴だろうに。
高野はザクザクと霜柱を踏んでいる律を、物陰からそっと見守っていた。

吉川千春の原稿が落ちた。
高野はそれを旧友である営業の横澤からのメールで知った。
以前ならともかく、漫画編集から離れた高野と漫画担当の横澤が仕事でからむことはない。
たまに交わすメールは、猫のソラ太の話ばかりだ。
今日もメールには、ソラ太の写真が添付されていた。
だが用件は吉野の原稿の話であったことは明白だ。

横澤と律は出逢い方が最悪で、横澤が一方的に律を目の敵にしていた時期もある。
だが今では編集者として信頼しており、気にかけてもいるようだ。
高野としても、それに関しては嬉しいことだった。

だが今回は知らせてもらったものの、高野にできることは何もない。
編集者として、律が自力で越えなければならないことなのだ。
そもそもタイミングが合わない。
律は徹夜明けで帰って来るだろうが、高野はこれから出勤だ。
せいぜい今夜、なにか美味いものでも食わせてやろうか。
それならば今日は早く仕事を終わらせた方がよさそうだ。

高野はいつもよりもかなり早い時間に、マンションを出た。
そこでちょうど帰宅してきた律に、出くわしたのだった。
といっても、律は高野に気付かない。
マンション前を通り過ぎて、フラフラと歩いていく。
どこに行くつもりだ?
怪訝に思った高野は、その後を追った。
律はそのまますぐ近くの小さな公園に入っていく。

「ちくしょう!ふざけんな!」
しばらく公園の真ん中で立ち尽くしていた律は、不意に叫ぶ。
そして足元の霜柱をザクザクと踏み始めた。
きっと原稿を落としてしまった悔しさを叩きつけているのだろう。
高野は入り口付近の物陰から、その様子をじっと見ていた。

もしも律が作家だったら、駆け寄って抱きしめているかもしれない。
納得いく作品を描くためなら、時にルールを破ることだってありだ。
だが律は作家ではなくて、編集者なのだ。
どんな理由があろうと原稿を落とすのは、ご法度だ。
むしろ締め切りを守らない作家を導くのが、仕事なのだから。

ったく、結構いい革靴だろうに。
荒々しく朝霜を踏む律に、高野はため息をついた。
そしてそっとその場を後にして、会社に向かう。
今夜は入稿明けを理由にして、律を部屋に連れ込んでやろう。
原稿を落としたことは、律が言わない限りは知らない振りをしよう。

そして次の律の誕生日のプレゼントは、靴にしようと思った。
朝霜に濡れる革靴は、きっとかなり傷んでしまっただろうから。

【続く】
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