朝5題

【おはよう】

「おはよう。・・・またか」
高野は少しだけウンザリした気持ちを、起き抜けのテンションの低さで誤魔化した。

高野政宗がエメラルド編集部を離れて、3ヶ月が経った。
また部数が低迷している雑誌の立て直しを命じられ、そこの編集長になったのだ。
全然ジャンルが違う雑誌で、漫画編集とは随分勝手が違う。
勉強しなければならないこともたくさんあり、ハードな毎日だ。
それでもやりがいはあったし、絶対に立て直してやるという自信もあった。

高野が抜けた後のエメラルドも変わろうとしていた。
副編集長の羽鳥が編集長に昇格した。
空いた副編集長のポジションは美濃が引き継いだ。
そして木佐は何と、美術部門への異動が決まろうとしていた。
さすがに2人も抜けたら回らないので、新しい編集部員を補充した後のことになるが。

「ちょっと寂しいけど、高野さんがいたときより売り上げを伸ばして見せます!」
高野の恋人、小野寺律は何とも頼もしいことを言った。
律はエメラルド編集部に残って、羽鳥と美濃を支えながら頑張っている。
担当作家も増えたし、ハードな毎日になったのは、高野と同じだ。
だが持ち前の根性と負けん気で頑張っている。

律は、相変わらず隣の部屋に住んでいる。
些細な誤解のために10年間も離れて過ごし、再会後もなかなか恋に堕ちなかった。
だが今ではすっかりラブラブな関係。。。高野はそう思っている。
照れ屋でいつまで経ってもこと恋愛に関しては初々しい律は、なかなか素直じゃないのだ。

そして昨晩も高野の部屋のドアチャイムが鳴った。
なかなか生活時間帯が合わない2人だったが、夜はだいたい高野の部屋で過ごす。
そしてここ最近、律が朝食を作るのが日課になっていた。

「おはようございます。」
高野が目覚めると、律はすでに起きていて、食卓には朝食が並んでいる。
メニューはいつも同じで、ご飯と味噌汁、そして卵焼きと焼き魚。
典型的な和朝食だ。

「おはよう。・・・またか」
高野は少しだけウンザリした気持ちを、起き抜けのテンションの低さで誤魔化した。
恋人の手料理で朝ごはん、状況的にはなかなか美味しい。
それなのに高野をどんよりと沈ませているのは、律の料理の腕前だった。

「毎朝、すみません。でも評価をお願いします。」
律に申し訳なさそうに頭を下げられると、高野としても無碍にできない。
今朝もテーブルにつくと箸を取り「いただきます」と手を合わせた。

*****

「おはよう。・・・起きてたか?」
久しぶりに来てくれた恋人に、吉野の顔が緩む。
だが素直に嬉しい気持ちを表せないのが、吉野の吉野たる所以だった。

羽鳥がエメラルドの編集長になって、早3ヶ月。
少女漫画家、吉川千春こと吉野千秋の身辺も大きく変わった。
担当編集が羽鳥から小野寺律に変わったのだ。
編集が変わったって、漫画家がすることは同じ。
むしろ内容が変わるようなことがあってはならない。
だが実際、気持ちの上ではそう簡単に切り替えられないものだ。

「いっしょに頑張りましょう!」
律はそう言ってくれたし、実際よく頑張っていると思う。
前編集長の高野が抜けたのに人数の補充がないと聞けば、頭が下がる思いだ。

羽鳥はどちらかと言えばスパルタで辛辣、容赦のないところがあった。
それに比べて律はというと、かなりマイルドだ。
年下ということもあり、遠慮もあるだろう。
だけど時にそれが、逆に怖かったりもする。
綺麗な瞳を涙目にして「明日までにできますよね~?」なんて言われると、ことわれない。

担当が律に変わった最初の月は、いつもよりかなり早く入稿した。
はっきり言って、羽鳥へのあてつけもあった。
羽鳥は編集長になるにあたって、吉野の担当から外れた。
つまり吉野は、他の作家より手がかかると言うことなのだ。
少々傷ついたプライドが、吉野を仕事へと駆り立てた。

だがそんな気合いは長く続かない。
次の月はかなり遅れ、さらに次の月はお約束のデット入稿だ。
気負っていた分、精神的にはかなり疲れてしまった。
俺ってやっぱりダメな作家なのかな。
そんな風に落ち込んでいたとき、羽鳥が現れたのだった。

「おはよう。・・・起きてたか?」
「今、起きたとこ。トリ、会社は?」
「今日は休日出勤の代休だ。朝飯、まだだろ?」
「やった。トリの卵焼き、食べたかったんだよ~♪」

羽鳥は食事を作りに来てくれていたらしく、スーパーの袋を下げていた。
時計を見ると、時刻は10時。
もう朝食の時間ではないのだが、吉野は不規則な仕事の常で先程起きたばかりだ。
羽鳥はその辺の事情もちゃんとわかっている。

「それ、小野寺にも言ったか?」
羽鳥がキッチンに入ると、スーパーの袋から食材を出しながらそう言った。
実に3か月ぶりの羽鳥の食事にテンションが上がった吉野は、思わず「へ?」と問い返す。
だが特に深く考えることもなく「言ったかな」と答えた。

「この前の入稿がほんとにきつくて、トリの卵焼き食べたいってずっと言ってた。」
吉野は明るくそう言いながら「顔を洗ってくる」と洗面所へ向かった。
残された羽鳥は「それでか」とため息をついたが、ザバザバと顔を洗う吉野の耳には届かなかった。

*****

「おはようございます。」
律は打ち合わせのために、吉野宅を訪問した。
カバンの中には渾身の力作である卵焼きが入っていた。

小野寺律が吉野の担当になって、早3ヶ月。
最初の月こそいいペースで原稿が上がったが、次の月にはガクッと落ちた。
そして先月はついにデット入稿になってしまった。
そのことに関して、今さら特に危機感はない。
元々吉野は筆の遅い作家なのだから、最初から覚悟はしていた。
むしろ最初の2か月が「え?もうできちゃったの?」という感じだったのだ。
唯一律の気に障ったのが、吉野がうわ言のように繰り返した「トリの卵焼き」だ。

律にとって、この種のわがままは懐かしいものだった。
なかなか原稿が上がらず、まるで現実逃避よろしく、無理難題を言い出す。
そんな作家を律はよく知っている。
小野寺出版時代に担当した作家、宇佐見秋彦だ。
あと数ページのところで「○○が欲しい」とか「××が食べたい」と突拍子もない要求を出すのだ。
時間と状況が許せば入手するし、ダメなら宥めたり怒鳴りつけたりして原稿に向かせる。
そんな手管は身につけているつもりだ。

だが前任者である羽鳥の名前を出されれば、話は別だ。
遠回しに「羽鳥の方がよかった」と言われているような気になるのだ。
吉野に決してそんなつもりはないのだとわかっている。
だけどするりと笑ってやり過ごせないのは、負けん気の強さと若さということなのだろう。

その日から律は特訓を始めた。
羽鳥に卵焼きのレシピを聞き、とにかく毎朝卵焼きを作る。
試食役には、持って来いの人物がいる。
隣室に住む料理上手な恋人は、決してお世辞など言わない。
的確で容赦ないダメ出しをしてくれるだろう。

かくして律の朝食作りは始まった。
味付けは羽鳥に教えてもらったレシピがある。
だが最初は火加減がうまくいかず、真っ黒に焦がした。
次は混ぜ方がうまくいかず、味がない部分とやたらに味が濃い部分ができた。
そんなこんなを繰り返し、律は卵焼きの作り方を習得したのだった。

「じゃあネームはこれでいいですね。」
打ち合わせが終わり、吉野はホッと安堵のため息をつく。
律は心の中で「よし!」と気合を入れると「あの」と切り出した。

「これでおやつにしませんか?」
カバンの中から修行の賜物を取り出す。
タッパーに詰めて持って来たのは、高野も太鼓判を押してくれた卵焼きだ。
吉野は一瞬、キョトンとした表情になったが、すぐに破顔した。

「いいですね!俺、卵焼き大好きです!」
かくして打ち合わせを終えた2人は、卵焼きを囲んだお茶会をとなったのだった。

*****

「おはよ!トリ!」
次の入稿の後、恋人が訪ねて来た。
そして開口一番「ベット、貸して!」と叫んだのだった。

羽鳥が編集長となって、4度目の入稿が終わった。
今月も何とか無事に入稿だ。
表情は冷静な振りをしているが、毎月すべての原稿が全部上がるかと考えるとドキドキする。
もちろん副編集長の時だって、その緊張感はあった。
だが編集長となると、その度合いはまるで違う。
まったく高野はよくこんなプレッシャーに耐えていたものだと思う。

そして3度目の入稿の後、羽鳥は律の変化に気付いた。
きっかけは「卵焼きの作り方を教えてください!」だ。
訳がわからないままに、自分流のレシピを紙に書いて渡してやった。
すると翌日から、目に見えて疲れて、やつれていったのだ。

「小野寺、最近何かありました?」
たまたま廊下ですれ違った高野に聞いてみた。
高野は「俺に聞くなよ」と文句を言う。
だがこの男と律が恋人同士であり、隣に住んでいることは知っている。

「何だか知らないけど、毎朝卵焼きを試食させられてる」
高野は苦笑しながら、教えてくれた。
そして吉野に聞くと、律に「トリの卵焼きが食べたい」などと言ったらしい。
そこでおおよその事情を察した羽鳥は、律に申し訳ないような気持ちになった。

今まで幼馴染の羽鳥が担当だったことで、吉野はわがままを口に出すクセがついてしまったのだ。
羽鳥はいつも「うるさい、さっさとやれ」という感じだったから、ただの雑談で終わっていた。
だが真面目な律は、それをかなえるべく必死になってしまったのだろう。
どうしたものかと考え込んでいた時、悩みの種である吉野がやって来たのだ。

「朝っぱらから何だ。俺はこれから会社だぞ?」
「ああ、ベット貸してくれればいいから。トリのベットの方が寝られるんだよ。」
スーツに着替えて、家を出ようとしていた羽鳥の隣をすり抜けて、吉野はベットに向かう。
吉野はなぜか自分の家の高級ベットより、羽鳥のベットが好きなのだ。
だがこのマイペースっぷりに、吉野に惚れている羽鳥でさえ、時々殺意を覚える。
律にしてみれば、相当のストレスになっているのではなかろうか。

「そう言えばこの間、小野寺さんが卵焼きを御馳走してくれたんだ!」
「は?」
「トリのと同じくらい美味しかった。あれなら修羅場も乗り切れそう。」
「そう。。。か」
律は自分のやり方で、卵焼き問題をクリアしたらしい。
編集長としては、喜ぶべきところだろう。
だが恋人としては「トリのと同じくらい」なんて表現されるのは微妙だと思うや否や。

「でもやっぱりトリの方が美味しいんだけど。あ、これ小野寺さんには内緒ね!」
「吉野」
「勝手に寝て、勝手に帰るから。いってらっしゃい!お休み!!」
「おい!」

吉野は最後に殺し文句を放り込むと、さっさとベットに入ってしまった。
結局、吉野と律はうまくやっている。
これからも2人なりのやり方で、楽しい漫画を作っていくだろう。
それはそれで頼もしくはあるが、もてあそばれた感もハンパない。
まったく人の心配を何だと思っているのだろう。

「帰る時には戸締りを忘れるな。」
これ以上、何か言うのはむなしいだけだ。
羽鳥は声を張り上げると、ため息とともにドアを閉めた。

【続く】
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