プロポーズ10題sideC

【ありがとう!】

「お疲れ様です」
原稿のチェックに集中していた桐嶋は、声をかけられて顔を上げた。
そこには普段ここにはいないはずの人物が立っていた。

「お忙しいですか?」
ジャプン編集部に突然現れた美貌の訪問者は、小野寺律だった。
意外な人物の登場に、桐嶋は一瞬言葉が出ない。
同じ丸川書店の漫画雑誌編集とはいえ、エメラルド編集部の律とはあまり接点がない。
すれ違えば挨拶くらいはするが、わざわざ話をしにくるなんて初めてのことだ。

「大丈夫だ。出るか?」
編集部中の視線を感じた桐嶋は、そう聞いた。
この2人がいったい何の話をするのかと全員興味津々なのだ。
だが律は「すぐ済みます」と答える。
そして桐嶋の机の上に金属の破片のようなものをコトリと置いた。

「これ、高野さんからです。」
律は桐嶋にしか聞こえないように声を潜めて、そう言った。
桐嶋はその物体を見た。
どこからどう見ても何かの鍵だ。

「横澤さんの部屋の合鍵。桐嶋さんに渡すようにって言われて。」
律はさらに声を潜めながらそう言った。
2人が合鍵を持ち合う関係だったことは桐嶋も知っている。
だがなぜ律が桐嶋に持ってくるのかがわからない。

「何で俺に?」
「知りませんよ。この前は横澤さんが高野さんの部屋の鍵を俺に返すし。」
「横澤が?」
「ええ。俺は鍵係じゃないっていうのに。」
不満そうに口を尖らせているが、律は機嫌がよさそうだ。
だがそこにあえて突っ込まなかった。
桐嶋にとっても愉快だったからだ。
わざわざこんなやり方で鍵を返してくることが楽しくてならない。

「確かに受け取った。わざわざありがとう。」
「はい。それじゃお邪魔しました。」
律は桐嶋に一礼すると、さっさと編集部を出て行く。
桐嶋は律が置いていった銀色の鍵を手に取ると、無造作にポケットに落とした。

その日1日桐嶋はすこぶる機嫌がよく、ジャプン編集部の面々は何が起きたのかと不思議がった。
だが本人ははぐらかすばかりで何も語らない。
思いあぐねた編集部員の1人がわざわざエメラルド編集部の律にまで聞きに言ったほどだ。
だが律も「桐嶋さんに聞いてください」の一点張りだ。
いったい何があったのかといろいろな推論が飛び交ったものの真相に辿り付く者はいなかった。

*****

「大丈夫ですか?」
「ダメみたい。頭が痛いし、気持ち悪くて」
木佐はそう言いながら、その場に倒れこんだ。
驚いた雪名は慌てて駆け寄り、木佐の身体を受け止めた。

雪名はここ最近、木佐の体調が悪いことには気付いていた。
本人が担当している作家の風邪をうつされてしまったのだと言っていた。
その上帰宅が早い日や休日も休むことなく、雪名の絵のモデルをしている。
だが本人が大したことはないのだと言ったし、何より創作意欲に勝てなかった。
今の雪名は木佐の姿をキャンバスに写し取ることが楽しくて仕方がないのだ。

だが今日の木佐はいつもよりかなり早い時間に帰宅した。
体調が悪いから会社を早退したのだという。
木佐の部屋で、今日の夕飯はどうしようなどと考えていた雪名は驚いた。
とにかく顔を見ただけで、木佐の具合が悪いことははっきりとわかったからだ。

「大丈夫ですか?」
「ダメみたい。頭が痛いし、気持ち悪くて」
木佐はそう言いながら、その場に倒れこんだ。
驚いた雪名は慌てて駆け寄り、木佐の身体を受け止めた。

「すみません。俺が無理させているせいですね。」
「気にするな。俺がちゃんと体調管理できないせいだ。」
雪名は木佐の服を脱がせると、熱で汗ばんだ身体を拭いた。
そして手早く新しい下着とスウェットを着せる。
まるで小さい子供のように、木佐は雪名のされるがままになっていた。

「こういう時、誰かが一緒だと心強い。ありがとう!」
ベットに入った木佐はぶっきらぼうにそう言うと、目を閉じた。
怒っているような叩きつけるような口調は、照れているからだろう。
この人は本当になんてかわいいんだろう。
雪名は微笑しながら、ベットに腰掛けて木佐の寝顔を見ていた。

だが見ているうちに、妙な気分になってきた。
木佐の紅潮した顔色や苦しげな表情と呼吸は、まるで情事の時のように艶かしい。
さすがにここで不埒なことをしようという気は起きない。
だがこの表情を絵にしたくなった。

まさか、どうかしている。
こんなに苦しそうで、しかもこんなに悪くなった原因は雪名にもあるのに。
その木佐を書きたいだなんて。
雪名は木佐の髪にそっと触れながら、ため息をついた。
あまりにも無慈悲なことを考えてしまった自分への自己嫌悪だ。
だがその気配に気付いたのか、木佐が目を開けた。
そしてまるで雪名の心を読んだように、口を開いた。

「描きたければ、描いてもいいぞ。」
「え?」
「もうボロボロで全然綺麗じゃねーけど。お前が描きたいなら描いていい。」
「綺麗ですよ。でも木佐さんは具合が悪いのに」
「かまわない。俺は画家のお前と一緒に生きてくって決めたんだ。起きた方がいいか?」
「いいえ。寝たままでいいですよ。眠っちゃってもかまいません。」

木佐は画家として高みを目指す雪名を誰よりも信じて支えてくれる。
雪名は泣き出しそうなほど嬉しい気分だった。
この人が居てくれればどこまででも行けると思う。

木佐はもう目を閉じて、寝息を立てている。
雪名はスケッチブックと鉛筆を取り出すと、デッサンを始めた。

*****

「前は誰のものだったの?」
「大事な友達で、ソラ太の元の飼い主だ。」
日和に問われた横澤は、ごく自然にそう答えた。
高野とはいろいろあったけど、今はそれが全てだ。
心の底からそう思うことができた。

今日も例によって、横澤は桐嶋家で夕飯を共にしていた。
桐嶋や日和と食卓を囲むのは、本当に楽しいと思う。
それに自分が作った料理でも、1人で食べるより美味く感じる。
もちろん桐嶋にそんなことを言ったりしない。
言おうものなら、今以上にいい気になることは目に見えているからだ。
だが食事を終えた後、横澤は思わぬ不意打ちを食らうことになった。

「これ、預かった。高野が持ってたお前んちの合鍵。」
「アイツがあんたに返しに来たのか?」
「返しにきたのは小野寺だけど。」
桐嶋が横澤の前に、律から預かったという鍵を置いた。
日和だけが訳がわからないという表情で、2人の顔を見比べている。
突然のことに、横澤はどうしていいかわからずにその鍵を見ていた。

「お前も小野寺に高野の部屋の鍵を渡したんだって?」
「アイツ、そんなことまで喋ったのかよ」
横澤はため息をついた。
正直言って、高野の部屋の鍵を返したことは秘密でも何でもない。
むしろいつか話そうと思っていたことだ。
だがこんな形で耳に入ってしまったのは不本意だ。

「それってケジメをつけてくれたってことだよな?」
「ああ、まぁ、そういうことだ。」
横澤は渋々頷いた。
桐嶋は愉快で仕方がないという表情なのが気に入らない。
だがお互いに鍵を返したことは伝えたのだし、喜んでくれたのだからそれでよしとしよう。

「これはひよにやるよ。俺の部屋の鍵だ。使うことがあるかどうかはわからないが。」
ふと思いついた横澤は、鍵を日和の前に滑らせた。
日和はどうしていいかわからずに、父親の顔を見た。
桐嶋も驚いたようだが「お守りだとでも思ってもらっとけ」と笑った。

日和がこの先、横澤の部屋に1人で来るようなことがあるかどうかはわからない。
というか、日和が鍵を使う可能性はほぼないだろう。
だがこのまま捨ててしまうよりはいいだろう。
それにいつまでも長く桐嶋や日和と一緒にいたいという祈りもこもっている。
桐嶋にも日和にも、そんな思いは伝わったようだ。
日和は「ありがとう!」と笑顔で鍵を受け取った。

「前は誰のものだったの?」
「大事な友達で、ソラ太の元の飼い主だ。」
日和に問われた横澤は、ごく自然にそう答えた。
高野とはいろいろあったけど、今はそれが全てだ。
心の底からそう思うことができた。

【続く】
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