プロポーズ10題sideC

【大好き】

「インタビューしたいんだけど」
木佐は最初それが自分に対しての言葉だとは思わなかった。
だから「アンタだよ」と言われた時には驚き、相手の顔をマジマジと凝視した。

今月も入稿を終えた木佐は、帰宅しようとしていた。
フラつきそうになる足を、懸命に前に進める。
ちょっとでも気を抜けば、そのまま膝から落ちて眠ってしまいそうだ。
高野が去った初めての入稿は、やはりシンドかった。

それでも今回から休職していた律が戻ってきてくれたから、よかったと思う。
高野が抜けて律が加わっても、頭数は変わらず仕事が減るわけでもない。
それでも律の隣にいると、戻れて嬉しいという熱意が伝わってくる。
多分新編集長の羽鳥も、新副編集長の美濃も、同じだっただろう。
高野がいないにも関わらず、いつも通りの入稿ができたのは律の存在によるところが大きい。

「ちょっといいかな。木佐君」
疲れたけど充実した気分で会社を出ようとした木佐だったが、正面玄関で2人の男に呼び止められた。
1人は木佐が異動を希望する美術雑誌の編集長、もう1人はその部下の若い編集者だ。
若い方の男には以前、資料室でからまれたことがある。
少女漫画編集がいきなり美術への異動を表明したことが気に入らなかったらしい。

早く帰って眠りたいというのが本音だった。
だが美術雑誌の2人が接触して来たと言うことは、自分の異動の話かもしれない。
ならば聞かずに帰るわけにはいかないだろう。
木佐は2人に誘われるまま、会議室へと場所を移した。

「インタビューしたいんだけど」
会議室に入るなり、若い編集者はぶっきらぼうにそう言った。
木佐は最初それが自分に対しての言葉だとは思わなかった。
だから「アンタだよ」と言われた時には驚き、相手の顔をマジマジと凝視した。

「雪名皇って最近話題になっている新進気鋭の画家、知ってるよね?」
今度は編集長が口を開いた。
知らないわけはない。
だが何も答えない木佐に、2人はグイグイと畳み掛けてきた。

「あの連作のモデルは木佐君でしょ?」
「モデルは誰だって、一部のマニアには話題になり始めてるんだ。」
「だから雪名皇と木佐君の2人に話を聞きたいんだ。」
「絵のモデルになったきっかけとか、ね。」

多分この若い方の編集部員は、雪名の絵のモデルが木佐だと気付いた。
だからこうして早い時点で、木佐も含めてインタビューを考えたのだろう。
雑誌を売りたい編集者としては、実に正しい作戦だった。

だが木佐としては、予想外の事態だった。
木佐の存在が表に出るのは、雪名がもっと有名になった後だと思っていたのだ。
雪名が木佐の関係が人に知られても揺るがないほどの地位を築けていれば問題ない。
でも今の時点でバレてしまうのは早すぎる気がする。
雪名がまだまだ有名画家への道は遠いこの時点で、余計な色眼鏡で見られてしまうのだ。

「もしインタビューできるなら君をこちらに異動させて、雪名皇の担当にしてもいい」
編集長の言葉に、木佐はさらに愕然とした。
2人は雪名と木佐の関係を見抜いていて、木佐を利用するつもりなのかもしれない。

雪名が有名になることを軽く考えすぎていたと、木佐は改めて思い知った。
大好きな雪名と一緒にいて、支えたい。
画壇とはそんな純粋な願いさえ飲み込んでしまうほど怖い世界なのだ。

「考えさせてください」
木佐はかろうじてそう答えた。
2人はさらに色々と喋り続けたが、全然頭に入らなかった。

*****

「これ、高野に返しておけ」
横澤は銀色のそれを、机の上に置いた。
もう何年もいつも持ち歩いていたそれは、小さくカタンと音を立てた。

日和が同じ学校の生徒にストーカーまがいの行為をされていた。
しかもそれを気づくこともできず、日和が相談できないような雰囲気を出してしまった。
そのことを横澤は心から悔いていた。
高野の異動に思いのほか動揺した自分が許せない。

桐嶋、高野、そして日和。
知り合った時期も自分との関係も違うから、誰の方が大事だとは軽々しく言えない。
強いて問われれば、誰のことも大好きなのだと答えるだろう。
だが一番注意して気にかけるべきなのが日和なのは間違いない。
桐嶋も高野も男であり、もういい歳の大人だ。
だけど日和はまだまだ成長途中の子供であり、ストーカーなど理不尽な暴力の前ではか弱い少女なのだ。
そのために横澤はある1つの決断をした。

横澤はそれをするために、エメラルド編集部に来た。
かつて愛した男が座っていた席には、今は羽鳥が座っている。
そのことに一瞬だけ感じた胸の痛みは、寂しさであり未練ではない。
恋心ではなくて友情で、高野がいないことにちょっと感傷的になっているだけだ。
それが完全な本心かどうかは自分でもわからないが、そう思い込むことは難しくなかった。

「これ、高野に返しておけ」
横澤は銀色のそれを、机の上に置いた。
もう何年もいつも持ち歩いていたそれは、小さくカタンと音を立てた。
その机でノートパソコンに向かってデータを打ち込んでいた律は、驚いて顔を上げた。

「お疲れ様です」
横澤に気づかず仕事に集中していたらしい律が、一拍遅れて挨拶をした。
正直言って少々間が悪い。
一大決心とまでは言わないが、一応横澤的には儀式のような気持ちもある。
キョトンとした表情で見られるのは、何とも不本意だった。

「これって。横澤さん!」
それでも横澤が置いたそれを見た瞬間、律の表情は引き締まった。
それは高野の部屋の合鍵だった。
何も言わなくても、それが何なのかは律にも伝わったようだ。

高野ではなくて律に鍵を返すことには、横澤なりの考えがある。
高野の新しい編集部に顔を出すのは、何となく躊躇われた。
まったく関係ない場所に顔を出すのは、いかにも特別な意味があるような感じがする。
だが高野をどこかに呼び出すのは、もっと抵抗があった。
わざわざ呼び出して合鍵を返すなんて、安っぽいドラマみたいではないか。

それならばいっそ律に渡してしまえばいいと閃いた。
律ならば横澤のテリトリーであるエメラルド編集部にいるだろう。
それに過去に律には嫉妬から、風当たりを強くしてしまった時期もある。
わだかまりをチャラにして、これからの高野と律の関係を祝福する。
そんな意味を込めることができると思ったのだ。

「いろいろ大変だったが、頑張れよ」
階段の事故や原稿の盗難など、律を見舞った災難を労う言葉だ。
高野との事は関係なく、これからは1人の編集と営業として接する。
そんな意思表示もこめたつもりだった。
横澤はそれだけ言うと、さっさと踵を返した。

「あ、ありがとうございます。」
困惑したような、それでいてどこか嬉しそうな律の声を背中に聞いた。
だが横澤は振り返ることなく、逃げるようにエメラルド編集部を離れた。
律だけでなく、エメ編全員の視線を背中に感じたからだ。
何とも自分らしくない行為に顔が赤面しているだけは、絶対に見られたくない。

*****

「木佐さんが大好きだから、木佐さんの絵を描くんですよ。」
雪名は木佐の顔を覗き込みながら、そっと微笑んだ。

雪名は今日も画廊に顔を出した。
描き溜めた絵はすべて展示されており、今は雪名専用のコーナーまで出来ている。
すでに買い手がついている作品もあった。
だがしばらくはすべて画廊に置いて、展示することになっている。
自分の絵に「売約済」と書かれた札がついているのを見るのは、誇らしい。
だが大好きな木佐を描いた絵がもうすぐ遠くへ行くのかと思うと、寂しくもあった。

雪名は画廊にいる時間が長くなっていた。
画商や絵画収集を趣味とする篤志家などへの顔見せが目的だ。
画廊のオーナーはこれからの雪名の画家としての活動を考えて、有益な人物に紹介してくれるのだ。
単に雪名のためだけではない。
雪名が有名になり絵が売れれば、画廊としても儲けになるのだ。

正直言って、雪名にはどこか現実感がない。
フワフワと夢の中にいるような気分で握手をし、絵に対する賛美に礼を言う。
雪名は持って生まれたルックスゆえにチヤホヤされることには慣れている。
だが絵への賞賛は他人事のようで、どうにも居心地が悪くなるのだ。

そして今日は画廊を通じて、取材の申し込みがあった。
取材元は何と丸川書店の美術雑誌だ。
初めての取材が木佐の会社であることは、どこか運命的なものを感じて嬉しかった。
だが実際に編集者と会って、雪名は驚くことになる。
編集者は何とモデルである木佐と2人での取材を提案してきた。
しかも応じてくれたら、木佐を美術に異動させることを匂わせた。
雪名はこのとき初めて、木佐が異動願いを出していることを知ったのだった。

「一緒に仕事がしたくて異動願いを出したんだ。お前じゃなくて自分のためだよ。」
画廊から木佐のマンションに駆けつけた雪名に、木佐は苦笑しながらそう言った。
その笑顔がどこか力なく見えて、雪名は心配になった。

「どうして言ってくれなかったんです?」
「丸川では美術は美大卒ばっかり専門の採用なんだ。本当に異動できる可能性なんてほとんどないし。」
「俺の絵のモデルだってことを明かせば、異動できるようなことを言われました。」
「お前はそうして欲しいと思うか?」

雪名は木佐の問いかけに首を振った。
取材の内容を知った画廊のオーナーには反対された。
モデルについては今は明かさずミステリアスにしておいた方がいい。
雪名もそれには同意だった。
そしてそれ以上に木佐を利用して注目を浴びるような真似はしたくなかった。

「これからお前は、俺なんか手が届かないくらい有名になるのかもしれないな。」
「いくら有名になっても、木佐さんが隣にいてくれないと意味がないですよ!」
寂しそうに呟く木佐に、雪名は思わず声を荒げた。
早くも雪名を巡って動き出す様々な思惑。
それを直に知った木佐は不安なのだろう。

「木佐さんが大好きだから、木佐さんの絵を描くんですよ。」
雪名は木佐の顔を覗き込みながら、そっと微笑んだ。
木佐が不安になる必要なんてない。
木佐がいなければダメなのは自分の方なのだと、雪名は心の底からそう思っている。

「今回の取材は断りましょう。いつか俺がもっと有名になって、木佐さんを担当編集に指名しますから。」
雪名は高らかにそう宣言すると、木佐は泣き笑いの表情で頷いた。
とりあえず初めての試練は、何とか乗り越えられたようだ。

【続く】
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