プロポーズ10題sideC
【信じてる】
「なぁ、本当にこんなんでいいの?」
木佐は視線を壁に向けたまま、聞いた。
だが雪名は「これがいいんですよ」と力強く答えた。
木佐はまた雪名の絵のモデルをしていた。
今回は上半身は何も身に着けない裸の状態で、下は普通にジーパンを履いている。
姿勢は雪名に背を向けて立ち、首だけこちらを振り返るような形だ。
今まではベットに寝そべったり、椅子に腰掛けたりだった。
こんなに無理な体勢で長時間じっとしていたことはない。
発端は木佐がちょっとした誤解から、横澤に殴られたことによる。
唇が切れた上に頬が腫れ、背中を受付のカウンターで打ったせいで痣になった。
その傷を見た雪名は顔色を変えた。
「何で、こんなことに?誰にやられたんですか!」
「横澤さん、だけど。。。」
それを聞いた雪名は、横澤に抗議すると言い出した。
今すぐにでも腰を上げて、殴り込みに向かう勢いだ。
美人が怒ると怖いというが、木佐はこの時の雪名ほど怖いものを見たことがない。
それこそ横澤に殴られた時でさえ、こんな恐怖はなかった。
誤解だし横澤にはきちんと謝罪を受けたからと何度も説明して、ようやく納得してもらった。
「この傷を描きたいんです。」
怒りを鎮めた雪名は、妙なことを言い出した。
何を思ったか知らないが、雪名の目は妙に熱を帯びている。
芸術家としての雪名の創作意欲を刺激したらしい。
だからこうして上半身を脱いで、見返り美人よろしく背中越しにこちらに顔を向けている。
これならば背中の痣も、腫れた顔も、切れた唇も見える。
「なぁ、本当にこんなんでいいの?」
木佐は視線を壁に向けたまま、聞いた。
背中を動かさないようにして、精一杯首を捻ると、視線は壁に向くのだ。
だが雪名は「これがいいんですよ」と力強く答えた。
三十路男の怪我してる絵なんて、何がいいのかと思う。
だが雪名がこれがいいのだというなら、それでいい。
「もしかして俺が画家として有名になったら、木佐さんも注目されるかもしれません。」
「それってその絵のモデルは誰かってことで?」
「そうです。そうしたら木佐さんにいろいろ迷惑がかかるかも。」
「そっか。名前が売れたら、2人の関係は何なんだってことになるのか。」
木佐は雪名が心配している意味がよくわかった。
男同士の恋愛にはどうしても偏見が付きまとい、世間には公表できない。
だが有名になってしまえば、隠しても暴かれてしまうかもしれない。
絵のモデルになどなればそのリスクは上がるだろう。
雪名はそれを心配してるらしい。
「お前がそんなの跳ねつけるほど有名になればいいだろ?」
「木佐さん」
「お前の絵が本物なら性癖なんて誰も何も言わない。お前がそうなるって俺は信じてる。」
ずっと首を固定して1点をみている木佐には、雪名の表情は見えない。
だが雪名が「ありがとうございます」と答えた声に少しだけ涙が混じっている気がした。
雪名が泣いていようといまいとどうでもいい。
木佐は雪名のことを信じてるから、全てを預けるつもりなのだから。
*****
「黙っててごめんなさい。でも言えなくて」
日和が泣きながら、あやまった。
横澤は言葉もなく呆然となり、桐嶋は黙って日和の頭をなでた。
横澤は丸川書店の受付で、ありえない光景を見た。
泣きじゃくる日和と何かを話しかけている木佐。
木佐が日和に何か言うかするかしたのだと思い、頭に血が上った。
次の瞬間にはつかつかと2人に歩み寄り、木佐を殴り飛ばしていた。
「違うの!このお兄さんは親切にしてくれたの!」
慌てる日和の声で、横澤は我に返った。
その後のことは思い出したくもない。
受付嬢は呆然と横澤を見ていたし、騒ぎを聞きつけた社員たちも集まってきた。
運がよかったのは、またまた駆けつけた社員の中に桐嶋もいたことだ。
桐嶋は自分の部署と横澤の営業部に連絡し、早退の手続きをして、3人で桐嶋の家に帰宅した。
木佐は「大丈夫です」と言ったが、病院に行くようにと念を押した。
「実は同じ学校の男の子に、付きまとわれてて」
日和は帰宅するなり、そう言った。
学校でや見張られたり、登下校の最中に尾行されたり、携帯電話を見られたこと。
つらそうな表情から、日和がかなり参っていることもわかった。
「どうしてもっと早くに言わなかったんだ!?」
「黙っててごめんなさい。でも言えなくて」
声を荒げる桐嶋に日和が泣きながら、あやまった。
「2人とも忙しそうで、いつも怖い顔してたから。迷惑かけるのが嫌だったの。」
日和は申し訳なさそうにそう付け加えた。
横澤は言葉もなく呆然となり、桐嶋は黙って日和の頭をなでた。
翌日、会社を休んだ桐嶋は学校に出向き、このことを申し入れた。
正直言ってどこまでちゃんと聞いてもらえるかと思ったが、意外なほどあっさり聞き届けられたそうだ。
問題の生徒の奇行は他の生徒たちにも知れ渡り、教師たちも気付き始めていたらしい。
その生徒には厳重に注意をされ、双方の担任も注意するということでこの話は解決に向かった。
横澤はこの件で、大いに考えさせられることになった。
桐嶋も自分の娘の危機を気づけなかったことに大いに落ち込んでいた。
だが桐嶋は編集部で大きな事件があったのだ。
階段に糸を張るなどという馬鹿な真似をする愚か者がいた。
下手をすれば桐嶋の部下が大きな怪我をするところだったのだ。
そちらの解決が優先で気が回らなかったのも無理はない。
だが横澤は違う。
昔の想い人である高野の異動に動揺して、気もそぞろだった。
日和はそれすら感じ取って、誰にも言えずに悩んでいたのだ。
実の娘のように大事に思っていた日和の悩みに、まったく気づくことができなかった。
このままではダメだ。
いつまでも終わってしまった過去の恋愛に囚われていては、一番大事なものまで失う。
横澤が大事に想い、そんな横澤を信じてるのは誰なのか考えるまでもない。
何があっても最優先は桐嶋と日和だ。
この2人だけは守るのだと、横澤は固く決意した。
*****
「すごくいいね!」
画廊のオーナーは絶賛した。
雪名は「ありがとうございます!」と頭を下げた。
雪名は会心の出来である作品を、画廊に持ち込んでいた。
顔と背中に怪我をした木佐を描いたあの絵だ。
我ながらいい出来だと雪名は思っている。
仕事で忙しくても悩んでいても懸命に頑張る木佐を、雪名はずっと見ていた。
あの時怪我をしながら大丈夫だと言い切った木佐は、いつになく美しく見えた。
そんな傷つきながらも前を見つめる木佐の絵を描きたかったのだ。
「すごくいいね!」
画廊のオーナーは絶賛した。
雪名は「ありがとうございます!」と頭を下げた。
いつも穏やかなオーナーがこんなに興奮しているのを初めて見る。
それほどこの絵に感動してくれたのかと思うと、雪名は踊りだしたくなるほど嬉しかった。
「この人は男の人だったんだね。」
ようやく興奮から醒めたオーナーは気付いたようだった。
今まで木佐を描いた絵は何点か持ち込んでいる。
だがいずれも中性的なイメージに仕上がっている。
少年にも、ボーイッシュな少女にも見えるだろう。
だが今回の裸の上半身を晒した絵は、背中越しでも彼が男であることが見て取れる。
「はい。でも大事な人です。」
「そうか。だからこんなにいい表情なんだね。」
オーナーは雪名と木佐の関係に気付いたのかどうかはわからない。
だがそれ以上は何も聞かなかった。
何度も絵を見ながら頷き「これは絶対売れるよ」と繰り返す。
もう後戻りは出来ないのだ。
雪名は画廊のオーナーの反応から、自分と木佐の未来を予想した。
多分画家として、雪名はスタートを切ることができる。
だがもしモデルとして木佐が注目されて、世間の好奇の目に晒されることになったら。
何としても木佐だけは守らなくてはいけない。
「お前の絵が本物なら性癖なんて誰も何も言わない。お前がそうなるって俺は信じてる。」
この絵を描いている時に木佐がかけてくれた言葉が嬉しかった。
そう言ってくれた木佐の想いに応えたい。
「そうだ。この絵のタイトルは?」
「『信じてる』です。」
悩みに悩んだタイトルだった。
木佐を賛美する言葉はいくらでもあったからだ。
だがあえて木佐がかけてくれた言葉の中から使うことにした。
「『信じてる』か。本当にいい絵だ。」
画廊のオーナーはそう言いながら、まだ絵を見ている。
今までたくさんの絵を描いたが、これほどの出来の作品はない。
木佐がいなければ、絶対に描けなかっただろう。
雪名は絵の中の傷ついた木佐に、心の中だけで「ありがとうございます」と告げた。
【続く】
「なぁ、本当にこんなんでいいの?」
木佐は視線を壁に向けたまま、聞いた。
だが雪名は「これがいいんですよ」と力強く答えた。
木佐はまた雪名の絵のモデルをしていた。
今回は上半身は何も身に着けない裸の状態で、下は普通にジーパンを履いている。
姿勢は雪名に背を向けて立ち、首だけこちらを振り返るような形だ。
今まではベットに寝そべったり、椅子に腰掛けたりだった。
こんなに無理な体勢で長時間じっとしていたことはない。
発端は木佐がちょっとした誤解から、横澤に殴られたことによる。
唇が切れた上に頬が腫れ、背中を受付のカウンターで打ったせいで痣になった。
その傷を見た雪名は顔色を変えた。
「何で、こんなことに?誰にやられたんですか!」
「横澤さん、だけど。。。」
それを聞いた雪名は、横澤に抗議すると言い出した。
今すぐにでも腰を上げて、殴り込みに向かう勢いだ。
美人が怒ると怖いというが、木佐はこの時の雪名ほど怖いものを見たことがない。
それこそ横澤に殴られた時でさえ、こんな恐怖はなかった。
誤解だし横澤にはきちんと謝罪を受けたからと何度も説明して、ようやく納得してもらった。
「この傷を描きたいんです。」
怒りを鎮めた雪名は、妙なことを言い出した。
何を思ったか知らないが、雪名の目は妙に熱を帯びている。
芸術家としての雪名の創作意欲を刺激したらしい。
だからこうして上半身を脱いで、見返り美人よろしく背中越しにこちらに顔を向けている。
これならば背中の痣も、腫れた顔も、切れた唇も見える。
「なぁ、本当にこんなんでいいの?」
木佐は視線を壁に向けたまま、聞いた。
背中を動かさないようにして、精一杯首を捻ると、視線は壁に向くのだ。
だが雪名は「これがいいんですよ」と力強く答えた。
三十路男の怪我してる絵なんて、何がいいのかと思う。
だが雪名がこれがいいのだというなら、それでいい。
「もしかして俺が画家として有名になったら、木佐さんも注目されるかもしれません。」
「それってその絵のモデルは誰かってことで?」
「そうです。そうしたら木佐さんにいろいろ迷惑がかかるかも。」
「そっか。名前が売れたら、2人の関係は何なんだってことになるのか。」
木佐は雪名が心配している意味がよくわかった。
男同士の恋愛にはどうしても偏見が付きまとい、世間には公表できない。
だが有名になってしまえば、隠しても暴かれてしまうかもしれない。
絵のモデルになどなればそのリスクは上がるだろう。
雪名はそれを心配してるらしい。
「お前がそんなの跳ねつけるほど有名になればいいだろ?」
「木佐さん」
「お前の絵が本物なら性癖なんて誰も何も言わない。お前がそうなるって俺は信じてる。」
ずっと首を固定して1点をみている木佐には、雪名の表情は見えない。
だが雪名が「ありがとうございます」と答えた声に少しだけ涙が混じっている気がした。
雪名が泣いていようといまいとどうでもいい。
木佐は雪名のことを信じてるから、全てを預けるつもりなのだから。
*****
「黙っててごめんなさい。でも言えなくて」
日和が泣きながら、あやまった。
横澤は言葉もなく呆然となり、桐嶋は黙って日和の頭をなでた。
横澤は丸川書店の受付で、ありえない光景を見た。
泣きじゃくる日和と何かを話しかけている木佐。
木佐が日和に何か言うかするかしたのだと思い、頭に血が上った。
次の瞬間にはつかつかと2人に歩み寄り、木佐を殴り飛ばしていた。
「違うの!このお兄さんは親切にしてくれたの!」
慌てる日和の声で、横澤は我に返った。
その後のことは思い出したくもない。
受付嬢は呆然と横澤を見ていたし、騒ぎを聞きつけた社員たちも集まってきた。
運がよかったのは、またまた駆けつけた社員の中に桐嶋もいたことだ。
桐嶋は自分の部署と横澤の営業部に連絡し、早退の手続きをして、3人で桐嶋の家に帰宅した。
木佐は「大丈夫です」と言ったが、病院に行くようにと念を押した。
「実は同じ学校の男の子に、付きまとわれてて」
日和は帰宅するなり、そう言った。
学校でや見張られたり、登下校の最中に尾行されたり、携帯電話を見られたこと。
つらそうな表情から、日和がかなり参っていることもわかった。
「どうしてもっと早くに言わなかったんだ!?」
「黙っててごめんなさい。でも言えなくて」
声を荒げる桐嶋に日和が泣きながら、あやまった。
「2人とも忙しそうで、いつも怖い顔してたから。迷惑かけるのが嫌だったの。」
日和は申し訳なさそうにそう付け加えた。
横澤は言葉もなく呆然となり、桐嶋は黙って日和の頭をなでた。
翌日、会社を休んだ桐嶋は学校に出向き、このことを申し入れた。
正直言ってどこまでちゃんと聞いてもらえるかと思ったが、意外なほどあっさり聞き届けられたそうだ。
問題の生徒の奇行は他の生徒たちにも知れ渡り、教師たちも気付き始めていたらしい。
その生徒には厳重に注意をされ、双方の担任も注意するということでこの話は解決に向かった。
横澤はこの件で、大いに考えさせられることになった。
桐嶋も自分の娘の危機を気づけなかったことに大いに落ち込んでいた。
だが桐嶋は編集部で大きな事件があったのだ。
階段に糸を張るなどという馬鹿な真似をする愚か者がいた。
下手をすれば桐嶋の部下が大きな怪我をするところだったのだ。
そちらの解決が優先で気が回らなかったのも無理はない。
だが横澤は違う。
昔の想い人である高野の異動に動揺して、気もそぞろだった。
日和はそれすら感じ取って、誰にも言えずに悩んでいたのだ。
実の娘のように大事に思っていた日和の悩みに、まったく気づくことができなかった。
このままではダメだ。
いつまでも終わってしまった過去の恋愛に囚われていては、一番大事なものまで失う。
横澤が大事に想い、そんな横澤を信じてるのは誰なのか考えるまでもない。
何があっても最優先は桐嶋と日和だ。
この2人だけは守るのだと、横澤は固く決意した。
*****
「すごくいいね!」
画廊のオーナーは絶賛した。
雪名は「ありがとうございます!」と頭を下げた。
雪名は会心の出来である作品を、画廊に持ち込んでいた。
顔と背中に怪我をした木佐を描いたあの絵だ。
我ながらいい出来だと雪名は思っている。
仕事で忙しくても悩んでいても懸命に頑張る木佐を、雪名はずっと見ていた。
あの時怪我をしながら大丈夫だと言い切った木佐は、いつになく美しく見えた。
そんな傷つきながらも前を見つめる木佐の絵を描きたかったのだ。
「すごくいいね!」
画廊のオーナーは絶賛した。
雪名は「ありがとうございます!」と頭を下げた。
いつも穏やかなオーナーがこんなに興奮しているのを初めて見る。
それほどこの絵に感動してくれたのかと思うと、雪名は踊りだしたくなるほど嬉しかった。
「この人は男の人だったんだね。」
ようやく興奮から醒めたオーナーは気付いたようだった。
今まで木佐を描いた絵は何点か持ち込んでいる。
だがいずれも中性的なイメージに仕上がっている。
少年にも、ボーイッシュな少女にも見えるだろう。
だが今回の裸の上半身を晒した絵は、背中越しでも彼が男であることが見て取れる。
「はい。でも大事な人です。」
「そうか。だからこんなにいい表情なんだね。」
オーナーは雪名と木佐の関係に気付いたのかどうかはわからない。
だがそれ以上は何も聞かなかった。
何度も絵を見ながら頷き「これは絶対売れるよ」と繰り返す。
もう後戻りは出来ないのだ。
雪名は画廊のオーナーの反応から、自分と木佐の未来を予想した。
多分画家として、雪名はスタートを切ることができる。
だがもしモデルとして木佐が注目されて、世間の好奇の目に晒されることになったら。
何としても木佐だけは守らなくてはいけない。
「お前の絵が本物なら性癖なんて誰も何も言わない。お前がそうなるって俺は信じてる。」
この絵を描いている時に木佐がかけてくれた言葉が嬉しかった。
そう言ってくれた木佐の想いに応えたい。
「そうだ。この絵のタイトルは?」
「『信じてる』です。」
悩みに悩んだタイトルだった。
木佐を賛美する言葉はいくらでもあったからだ。
だがあえて木佐がかけてくれた言葉の中から使うことにした。
「『信じてる』か。本当にいい絵だ。」
画廊のオーナーはそう言いながら、まだ絵を見ている。
今までたくさんの絵を描いたが、これほどの出来の作品はない。
木佐がいなければ、絶対に描けなかっただろう。
雪名は絵の中の傷ついた木佐に、心の中だけで「ありがとうございます」と告げた。
【続く】