プロポーズ10題sideC

【あの日】

「タイトルは『あの日』です。」
雪名はそう答えると、自信に満ちた笑顔で自分の分身とも言うべき絵を見つめていた。

雪名は画廊のオーナーと向き合っていた。
ここの画廊には随分世話になっている。
時々美大時代の友人たちと、スペースを借りて展示会をしたりする。
オーナーは雪名の絵を高く評価してくれていて、納得いく絵が描けたら持ってくるように言ってくれた。
その厚意に感謝しながら、雪名は絵を持参したのだった。

「この絵なんですが。」
雪名は厳重な梱包を開けて、絵をオーナーの前に置いた。
キャンバスの上に描かれているのは木佐だ。
だがこれは木佐にモデルになってもらった絵ではない。
これは初めて雪名が木佐を見たあの日のことを思い出しながら描いたものだ。

「タイトルは『あの日』です。」
雪名はそう答えると、自信に満ちた笑顔で自分の分身とも言うべき絵を見つめていた。
絵の中の木佐は開いた本を持っている。
だが目は本ではなく、斜め前方を見ている。
本をカモフラージュにして、恋する相手を盗み見ている。
それは雪名が初めて木佐を意識した「あの日」の光景だった。
画家としてメジャーになるために木佐を描くなら、最初の作品はこれしかないと心に決めた絵だ。

「いいね。すごくいい。」
画廊のオーナーはしばらく絵に見入った後、そう言った。
雪名は踊りだしたくなるような高揚を押さえて「ありがとうございます」と礼を言った。
傑作だという手ごたえはあったが、やはり感想を聞くまでは不安だった。
こうして絶賛してもらえると、やはり嬉しい。

「ぜひうちの画廊で置かせてもらうよ。」
オーナーは立ち上がると、雪名に右手を差し出した。
雪名も高揚した気分のまま、両手でその手を取り、握手を交わす。
とりあえず夢への階段を1つ上がったのだ。
金を出して場所を借りなくても、自分の絵を置いてもらえるのだから。

「ところでこのモデルさんは、雪名君の恋人?」
「はぁ、まぁ、大事な人です。」
「なるほど。彼女が君の才能を引き出してくれるんだね。」

その言葉を聞いた途端、雪名はまるで冷水を浴びせられたように心が冷えた。
確かに絵の中の木佐は中性的で、見ようによっては男にも女にも見える。
初対面の木佐の印象は少年のようだったので、あえてそういう風に描いたのだ。
そして絵を見たオーナーはこの絵の木佐を雪名の恋人-女性だと思った。

どうして気付けなかったのだろう。
木佐の絵で有名になるということは、木佐もまた世間から注目されるということだ。
そして雪名との関係も詮索されるかもしれない。
年齢も出身地も人生もまったく異なる2人の接点は何か。
雪名は男同士で恋愛しているとバレても、別にかまわない。
だが普通の会社員として生活する木佐にとって、そう簡単にはいかない。
木佐を傷つけ、貶めることになるかもしれないのだ。

「このモデルさんでもっと描いてみたらいい。それで君は画家の仲間入りができるかもしれない。」
画廊のオーナーは雪名の気持ちも知らずに、晴れやかな笑顔でそう言った。
オーナーに他意はなく、ただ単に成功を掴みかけた雪名を祝福してくれている。
だが雪名は顔を強ばらせたまま、何も言葉を返すことができなかった。

*****

「そのためなら、他の物を全部捨ててもいいかな、なんて」
思いのほか熱い気持ちで語ってしまった木佐は、我に返った。

「フェアの企画書、持ってきました~」
営業部のフロアに来た木佐は、自席でパソコンの画面を見ている横澤に声をかけた。
横澤は短く「おう」と答えて、書類を受け取る。
タイトルを見た横澤の目尻が、ほんの少しだけ下がった。
木佐にはその表情が少しだけ寂し気に見えた。

木佐が持ってきた書類は、一之瀬絵梨佳のものだ。
高野の異動に伴い、高野が担当していた作家が残るメンバーに割り振られた。
そして一之瀬絵梨佳の新担当は木佐だ。
木佐はこのことに高野の細かい配慮を感じていた。
何しろ一之瀬絵梨佳は締め切りを破ったことがない優等生だ。
時々羽鳥に会わせろとワガママを言う以外は、基本的には手がかからない。
他の部署への希望を出している木佐に負担が少ないようにということなのだろう。

「そうか。お前が引き継いだんだっけ。」
横澤はそう言いながら書類を受け取った。
今までは当然、一之瀬の企画書の担当者の欄には「高野政宗」と書かれていた。
それがなくなったことが寂しいんだろう。
高野と横澤は時々怒鳴り合ってたけど、何だかんだで仲はよかったから。
過去の高野と横澤の経緯を知らず、単に学生時代からの友人だと思っている木佐は単純にそう思った。

「確かに受け取った。チェックして何か不備があれば連絡する。」
横澤はそう言って、パソコンに視線を戻した。
木佐も「よろしくお願いしま~す」と一礼すると、立ち去ろうとする。
だが横澤がその木佐の背中に「そう言えば」と声をかけてきた。

「お前、美術に異動希望だって?」
「ああ、はい。」
木佐は横澤の方に向き直ると、そう答えた。
今までに前例がない異動願いは、社内に知れ渡ってしまっていた。
木佐としては別に広めるつもりもないが、隠すつもりもない。

「お前は少女漫画がかなり好きだと思ってたけど。未練はねぇのか?」
「へ?」
横澤の意外な質問に、思わず間が抜けた声が出た。
エメラルド編集部の人間たちは「頑張れ」という感じだし、ほかの人間は「物好きだ」と冷ややかだ。
だから「未練はないのか」などと聞いてきたのは、横澤が初めてだった。

「未練はあります。だけどもっと大事なものがあるんで。」
「もっと大事なもの?」
「そのためなら、他の物を全部捨ててもいいかな、なんて」
思いのほか熱い気持ちで語ってしまった木佐は、我に返った。
いくら何でも、日頃さほど親しくもなく部署も違う人間にぶっちゃけ過ぎだ。

「企画書、よろしくお願いします!」
木佐は慌てて、逃げるように営業部の部屋を出た。
大事なもののためなら、他の物を全部捨ててもいい。
木佐が何気なく言い放った言葉が、横澤に衝撃を与えていたことなど知る由もなかった。

*****

「あの日、小野寺さんの鞄を盗んだのはこの人です。」
今ではすっかり律と仲良しになったコンビニ店員が、きっぱりとそう言った。

美濃は律が働くコンビニへと来ていた。
吉川千春の原稿紛失事件は、一気に解決へと向かっていた。
アシスタントである柳瀬が、律が引ったくりにあった時間帯に不審な人物を見たことを思い出したのだ。
彼女は丸川書店のアルバイトだったので、当然提出された履歴書がある。
美濃はそれを持って、律のアルバイト先にやってきた。
そして引ったくりを目撃した店員に見せ、犯人が彼女であることを確認したのだった。

「美濃さん、わざわざありがとうございます。」
「気にしないで。たまたま俺が手が空いてただけだから。」
恐縮する律に、美濃は笑顔でそう答えた。
証言をしたアルバイト店員も、店長だという男性もニコニコと律を見ている。
彼らも律の事情を知っており、犯人が特定されたことに喜んでいるようだ。
つまり律はこのコンビニのスタッフたちにはそれなりに好かれているということだろう。

「小野寺君はこれで編集部に戻れるね。頑張ってた甲斐があるんじゃない。」
美濃は笑顔でそう言った。
正直なところ、少々皮肉を込めている。
本人は辞表を出して退職したつもりのようだが、高野は律を休職扱いにしている。
高野は自分がエメラルド編集部を去る前に、律を戻すつもりだし、多分そうなるのだろう。
律が嫌がる「七光り」云々だって、結局律はそれで得をしているはずだ。
何だかんだで律には幸運のレールが敷かれていると思う。

わかってる。これは嫉妬だ。
高野は編集者として才能あふれる人物で、律とは違う意味で幸運のレールの上にいる。
自分とは同じサイドにいる羽鳥も木佐も、自分なりの道を見つけて進んでいる。
置いてきぼりを食ったような気がして、拗ねているだけだ。

「犯人がわかっただけで、原稿が戻ったわけじゃないですから。」
「え?」
「原稿が掲載されなければ、いくら頑張っても仕方ないでしょう?」
「それはそうだけど」
「まだ終わりじゃないですよ。」

律は口調こそ静かだったが、目には怒りの色が浮かんでいた。
その矛先は原稿を盗んだ犯人か、それとも原稿を取られた自分なのか。
笑顔でコンビニ店員をしているが、律はずっとあの日の事件で責任を感じているのが見て取れる。
それによくよく見ると少し痩せたような気もする。
慣れない仕事のせいか、ひょっとすると食事もあまり喉を通っていないのだろうか。

「とにかく原稿が戻らなければ、何も考えられません。」
律はきっぱりとそう言い切った。
美濃はため息をつくと「そうだね」と苦笑した。
安易な嫉妬で、茶化したり皮肉を言えるものではなかった。
幸運のレールは美濃が思うほど、乗り心地がいいものではないのかもしれない。

「じゃあ俺、仕事に戻るから。」
美濃がそう言うと、律は「お疲れ様です」と挨拶を返してくれた。
早くまた律と仕事をしたい。
そんなことを思いながら、美濃はコンビニを出た。

【続く】
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