…したい10題

【殴りたい】

横澤隆史は勝手知ったるエメラルド編集部に、乗り込んできた。
目指すは編集長の席に座る男。
だがいつものように怒声をあげながらではない。
何も言わずに編集長-高野の席の前に立った。
だがその顔は静かな怒りが満ちている。
いつものどこかお約束のノリではない。
暴れグマ・横澤は、本気で怒っていたのだった。

「高野、ちょっと来い」
横澤の声に、パソコンで作業をしていた高野が顔を上げた。
いつも目聡い高野は、いつも横澤が声を上げる前に来ていることに気がつく。
だが今日は、横澤が声をかけるまで気付かなかったようだ。
高野への恋心を胸に秘める横澤としては、二重の意味で気に入らない。

「用があるなら、ここで言えよ。」
高野は横澤を見上げると、めんどくさそうに言った。
横澤が「ああ?」と威嚇するように唸ったが、高野は動じない。
あくまで立ち上がる気がない高野の態度が、腹立たしいことこの上なかった。
「じゃあ言うぞ。この企画書は何だ?」
そう言って、横澤は手に持っていた数枚の書類を高野の席にバサリと放った。

「羽鳥のは数字が1桁違う。木佐のは誤字が多すぎ。作品のタイトル間違うなんてありえねえ。」
自分の席でパソコンに向かっていた羽鳥と木佐が、驚き、顔を上げた。
「たまたま最初に見たのが俺だったから、部長が見る前に持ってきた。」
横澤はさらにそう言いながら、高野の表情をうかがう。
高野はじっと無表情で、横澤が持ってきた書類に目を通していた。

*****

横澤と高野が激しい口調で何だかんだとやりあうのは、もちろんよい本を作りたいからだ。
だがすっかり日常化したそれは、もうお馴染みの光景。
本人たちは案外そのやりとりを楽しんでおり、周囲の人間たちも気にしていない。

だが今回の企画書に関しては、まったく違う。
内容はそこそこに仕上がっているが、見逃せないレベルのミスなのだ。
そしてそれらは編集部の文書として外に出た瞬間、高野の責任となる。

横澤も編集部に起きた事件は知っている。
いつも律を目の敵にしている横澤をしても、さすがに律に責任があるとは思わなかった。
それに律が助かってよかったと思っている。
何より校了直前のアクシデントにも関わらず、入稿を無事済ませた高野たちには尊敬の念すら感じた。

だがその後の編集部は、正直言って見るに耐えない状態だった。
作業の進捗は悪いし、こういう細かいミスも出ている。
何よりも部員たちの表情が冴えない。
担当営業の横澤としては、まったく困った事態だった。

何よりもつらいのは、高野の表情だ。
こうして目の前にいる横澤を見ているようで、その目は何も映していない。
全てに無気力で、どこか投げやりな雰囲気。
大学時代、荒れていた頃の高野はこんな風だったと思う。
あの時、立ち直らせるのに長い時間を要した。
もう2度と高野をあんな風にしないと、横澤は心に誓っていた。
なのに高野はあの事件で、こんなにも動揺している。
高野をここまで狂わせることが出来るのは、小野寺律だけなのだと思い知らされる。

「羽鳥、木佐、企画書をさっさと直せ。それから高野はちょっと来い。」
横澤はそう言って、さっさと歩き出した。
羽鳥と木佐は小さく「はい」と答え、高野は黙って立ち上がった。

*****

「アイツがあんな目にあったのに、俺に出来ることは何もない。」
横澤と高野は、空いている会議室に場所を移した。
2人だけなのをいいことに、横澤は携帯用の灰皿とタバコを取り出す。
高野もまたタバコに火をつけ、煙と共に苦しい心を吐き出した。

「あんな事件、誰も何もできねーだろ?」
横澤はそう言いながら、複雑な気分だった。
何でアイツのことでダメージを受けている高野を、慰めなくてはならないのだ?
だが高野の口調も表情も、まったく変わることはなかった。

「せめてそばにいてやりたいのに。」
「仕事もあるから無理だろ?小野寺だってそんなことはわかってるだろうが。」
「多分、な」
「このままじゃ小野寺が戻る前に、編集部がつぶれるぞ。」
「その通りだな。」
まるで自嘲するように、高野は渇いた笑いをもらした。

殴りたい。
こんな弱音をはく高野を。
吉川千春を襲撃しようなんて、馬鹿なことを考えた男を。
こんな状態の高野を支えられないエメラルドの編集部員たちを。
高野をここまで弱らせている小野寺律を。
だがそれをしたところで、少しも気が晴れないことはよくわかっている。

ああ、たまらない。
自信に満ちている横暴なまでに強気の編集長に、高野を戻せるのはただ1人。
それは横澤が高野には絶対に近づけたくないと思う青年なのだ。

「企画書、今日中な」
横澤は高野の肩をポンと叩くと、携帯灰皿にタバコを押し付けた。
まるで八つ当たりするように力を込めて押し付けられた吸殻が、灰皿の上で2つに折れた。

【続く】
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