プロポーズ10題sideC
【唯一の】
「俺にとっては唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
男は真っ直ぐにこちらを睨みつけている。
木佐はじっと押し黙ったまま、男の視線を受け止めていた。
木佐は資料室に来ていた。
ここには丸川書店で出版された書籍が揃っており、社員は自由に閲覧できる。
目的は本業である少女漫画ではなく、美術関係の資料だ。
まずは美術のことを1から勉強しようと思っていた。
木佐は画家を目指す恋人、雪名と一緒に仕事をしたかった。
美術への異動を願い出て、高野も掛け合ってくれたらしい。
だが美術雑誌は増員の予定もないということだった。
そもそも全体的に売り上げが落ちており、いくつかある雑誌の中で近々休刊になるものもあるという。
むしろ人が余るような状況で、いきなり入り込めるところはない。
だが木佐は諦めるつもりはなかった。
そのためにはまずは勉強しようと思い、その方法を考えた時にふと思い出した。
小野寺律が丸川書店に入社したばかりの頃、少女漫画が初めてだったために繰り出した荒業。
それは自社の漫画をすべて読んで、覚えるというものだった。
その時には驚いたし、正直言って少々冷ややかに見ていた。
だが律はその熱意で、立派な少女漫画編集者に成長した。
つまり自社の書籍を制覇するのは、有効なやり方なのだと思い知った。
ならば同じやり方をやってみようと思った。
幸いなことに時間はあるのだし、とにかく地道に力をつけていくことだ。
だから木佐は時間があれば資料室に通い、美術の書籍を見るようにしていた。
「あんた、エメ編の木佐さんだよね。」
今日も美術の書籍を捜していた木佐に、声をかけてきた男がいた。
木佐は慌てて「どうも」と頭を下げる。
名前はわからないが、丸川書店で出している美術雑誌の編集者だ。
資料室の中でもここは美術関係の書籍がある場所だから、顔を合わせても不思議はない。
「美術雑誌の編集を志望したって聞いたけど。どうして?」
「それは、ちょっと、話すと長くなりますので。。。」
木佐のような転身はあまりないことだし、特に関係部署なら興味を持つだろう。
だがあまりにもその動機は不純な気がして、名前も知らない人間には言えるものではない。
すると男の表情が豹変した。
「言えないような理由で、美術を希望してるんだ?」
「いや、その。。。」
「美術を舐めてる?もしかして月刊エメラルドの売れ行きがすごいからっていい気になってる?」
「そんな。俺はそういうつもりじゃ。。。」
どうやら木佐の今1つ煮え切らない態度が、男を怒らせたようだ。
そもそもエメラルド編集部という部署をよく思っていないようにも見える。
「俺にとっては美術は、唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
男は真っ直ぐにこちらを睨みつけている。
木佐はじっと押し黙ったまま、男の視線を受け止めていた。
*****
「お前にとって、唯一の大事なものって何なの?」
木佐がふと思いついたように、そう聞いてきた。
美濃奏は「さぁね」とはぐらかすように微笑した。
美濃は作家に頼まれた資料を捜しに、資料室に来た。
主人公の2人に旅行をさせるので、その候補地の街並みの写真を捜す。
作家もネット検索で画像を漁ったようだが、どうにもピンとくるものがなかったという。
旅行関係の書籍を捜そうとしていた美濃は、木佐と誰かが話をしていることに気付いた。
「あんた、エメ編の木佐さんだよね。」
「美術雑誌の編集を志望したって聞いたけど。どうして?」
美濃は2人を覗き見て、木佐と相対している社員が美術雑誌の編集であることに気がついた。
男と美濃は同期入社で、さほど親しくはないが、すれ違えば挨拶はする程度の仲だ。
木佐は美術への異動を希望したのか。
美濃は偶然聞こえてしまった話から、そのことを知った。
エメラルド編集部では、高野の異動に伴い、次期編集長への立候補と他部署への異動願いを募っている。
木佐は高野にそういう希望をしたのだろう。
我ながら悪趣味だ。
美濃は口元を緩ませながら、そう思った。
こういうドロドロした話は大好きなのだ。
例えば次期編集長に一番近い位置にいながら、吉川千春の担当を続けるためにそれを諦める羽鳥とか。
何の理由か知らないが、畑違いの場所を目指す木佐も興味深い。
「俺にとっては美術は、唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
美術編集の社員がいよいよ木佐に詰め寄っているらしい。
さすがにそろそろ間に入って、フォローした方がいい。
そう思った瞬間、木佐の凛とした声が響いた。
「俺は、たとえばあなたがエメ編に来たとしても、漫画を甘く見ているなんて思ったりしない。」
「俺は少女漫画なんかに異動しない。」
「希望して異動していた人をいきなり貶めるようなことも言わないし。」
「何だと!?」
「さっき『少女漫画なんか』って言ったよね。あんたの方こそ、他の部署を甘く見てない?」
その途端、バタバタと資料室に似つかわしくない足音が響いた。
その後バタンとドアが開け閉めされる音がする。
どうやら怒って出て行ったようだ。
美術編集の社員はだいたい美大卒が多く、専門職だというプライドが強いのだ。
「美濃、いるんでしょ?」
静かになった資料室に、木佐の声が響いた。
どうやら立ち聞きしていたことは気付かれていたようだ。
美濃は「バレてた?」と笑いながら、木佐の前に姿を現した。
「美術の編集部員とケンカしたら、後々まずいんじゃないの?」
「まぁそうなんだけど。ついつい、ね。」
美濃が何事もなかったように声をかけると、木佐も平然と答えた。
「木佐が美術に異動願いなんて、意外だったな。」
「実は本人が一番そう思ってるんだ。でも俺の唯一の大事なもののためだから。」
先程の男の言葉を引用しながら、木佐は屈託のない顔で笑う。
だが美濃は騙されない。
まだ未成年だといわれても信じてしまう木佐の童顔。
だがその正体はしっかりと野心を胸に秘めた30代の男だ。
正直言って羨ましい。
木佐も羽鳥も高野も律も、何か大事な唯一のものを持っているように見える。
それを秘めながら、着実に前に進んでいるように見えるのだ。
美濃にはこと仕事に関して、そこまで大事に思えるものはない。
「お前にとって、唯一の大事なものって何なの?」
木佐がふと思いついたように、そう聞いてきた。
美濃は「さぁね」とはぐらかすように微笑した。
*****
「木佐さん、疲れました?」
「あ~いや。そうじゃないから。」
雪名がボンヤリと虚空を見上げる木佐に声をかけると、木佐は慌てて首を振った。
日曜日、雪名はまた木佐にモデルを頼んでいた。
今日の木佐はヌードではなく、白いシャツにジーパンというシンプルな装いだ。
ベットの上に腰掛けてくつろいでいる木佐を、雪名はキャンバスに写し取ろうとしていた。
先日服を脱いだ木佐は中性的な雰囲気で、雪名を魅了した。
だが今回は、まるで無垢な少年のようだ。
この人にはいったいどれだけの魅力が秘められているのだろうと思う。
だが今日は木佐の表情がいつもと違った。
何となく憂いを含んでおり、沈んでいるように見える。
木佐は会社員で、貴重な休みにモデルをさせている。
しかも雪名の部屋にわざわざ来てもらってだ。
「木佐さん、疲れました?」
「あ~いや。そうじゃないから。」
雪名がボンヤリと虚空を見上げる木佐に声をかけると、木佐は慌てて首を振った。
「会社でちょっとな。嫌なことがあって。」
「え?大丈夫ですか?」
「ゴメン。表情暗かったか?」
「いえ。自然にしてください。無理して表情を作る必要はありませんから。」
雪名は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
木佐は毎日会社で働き、時には嫌なことだってある。
それについては雪名にできることは何もない。
せいぜい話を聞くくらいだが、木佐はそういう話は絶対にしない。
その上休みにはこうして雪名のモデルをしてくれて、表情まで気にしてくれる。
だがそんな木佐の沈んだ表情にさえ、雪名は惹かれた。
まるで無邪気な少年のようないでたちの木佐が、歳相応の憂いを浮かべる。
それだけで不思議な魅力が生まれたように見えた。
この表情をそのまま自分の筆で表現したいと思う。
今後、雪名が画家として成功するために、木佐の存在は絶対に必要だ。
雪名はここ最近、それを痛感していた。
木佐の魅力を表現することに、何よりも創作意欲を掻き立てられる。
恋人としてだけでなく、モデルとしても、唯一の大事な存在だ。
「木佐さん、少し休みましょう。」
「え?まだ大丈夫だけど」
「いえ、まだまだ長いので休憩入れます。」
雪名はそう言って筆とパレットを置くと、洗面所で手を洗う。
戻った時にはもう木佐はベットに寝そべり、ウトウトしていた。
絶対に傑作を描き上げる。
決意を新たにした雪名は、ベットに腰掛けるとそっと木佐の髪をなでた。
【続く】
「俺にとっては唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
男は真っ直ぐにこちらを睨みつけている。
木佐はじっと押し黙ったまま、男の視線を受け止めていた。
木佐は資料室に来ていた。
ここには丸川書店で出版された書籍が揃っており、社員は自由に閲覧できる。
目的は本業である少女漫画ではなく、美術関係の資料だ。
まずは美術のことを1から勉強しようと思っていた。
木佐は画家を目指す恋人、雪名と一緒に仕事をしたかった。
美術への異動を願い出て、高野も掛け合ってくれたらしい。
だが美術雑誌は増員の予定もないということだった。
そもそも全体的に売り上げが落ちており、いくつかある雑誌の中で近々休刊になるものもあるという。
むしろ人が余るような状況で、いきなり入り込めるところはない。
だが木佐は諦めるつもりはなかった。
そのためにはまずは勉強しようと思い、その方法を考えた時にふと思い出した。
小野寺律が丸川書店に入社したばかりの頃、少女漫画が初めてだったために繰り出した荒業。
それは自社の漫画をすべて読んで、覚えるというものだった。
その時には驚いたし、正直言って少々冷ややかに見ていた。
だが律はその熱意で、立派な少女漫画編集者に成長した。
つまり自社の書籍を制覇するのは、有効なやり方なのだと思い知った。
ならば同じやり方をやってみようと思った。
幸いなことに時間はあるのだし、とにかく地道に力をつけていくことだ。
だから木佐は時間があれば資料室に通い、美術の書籍を見るようにしていた。
「あんた、エメ編の木佐さんだよね。」
今日も美術の書籍を捜していた木佐に、声をかけてきた男がいた。
木佐は慌てて「どうも」と頭を下げる。
名前はわからないが、丸川書店で出している美術雑誌の編集者だ。
資料室の中でもここは美術関係の書籍がある場所だから、顔を合わせても不思議はない。
「美術雑誌の編集を志望したって聞いたけど。どうして?」
「それは、ちょっと、話すと長くなりますので。。。」
木佐のような転身はあまりないことだし、特に関係部署なら興味を持つだろう。
だがあまりにもその動機は不純な気がして、名前も知らない人間には言えるものではない。
すると男の表情が豹変した。
「言えないような理由で、美術を希望してるんだ?」
「いや、その。。。」
「美術を舐めてる?もしかして月刊エメラルドの売れ行きがすごいからっていい気になってる?」
「そんな。俺はそういうつもりじゃ。。。」
どうやら木佐の今1つ煮え切らない態度が、男を怒らせたようだ。
そもそもエメラルド編集部という部署をよく思っていないようにも見える。
「俺にとっては美術は、唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
男は真っ直ぐにこちらを睨みつけている。
木佐はじっと押し黙ったまま、男の視線を受け止めていた。
*****
「お前にとって、唯一の大事なものって何なの?」
木佐がふと思いついたように、そう聞いてきた。
美濃奏は「さぁね」とはぐらかすように微笑した。
美濃は作家に頼まれた資料を捜しに、資料室に来た。
主人公の2人に旅行をさせるので、その候補地の街並みの写真を捜す。
作家もネット検索で画像を漁ったようだが、どうにもピンとくるものがなかったという。
旅行関係の書籍を捜そうとしていた美濃は、木佐と誰かが話をしていることに気付いた。
「あんた、エメ編の木佐さんだよね。」
「美術雑誌の編集を志望したって聞いたけど。どうして?」
美濃は2人を覗き見て、木佐と相対している社員が美術雑誌の編集であることに気がついた。
男と美濃は同期入社で、さほど親しくはないが、すれ違えば挨拶はする程度の仲だ。
木佐は美術への異動を希望したのか。
美濃は偶然聞こえてしまった話から、そのことを知った。
エメラルド編集部では、高野の異動に伴い、次期編集長への立候補と他部署への異動願いを募っている。
木佐は高野にそういう希望をしたのだろう。
我ながら悪趣味だ。
美濃は口元を緩ませながら、そう思った。
こういうドロドロした話は大好きなのだ。
例えば次期編集長に一番近い位置にいながら、吉川千春の担当を続けるためにそれを諦める羽鳥とか。
何の理由か知らないが、畑違いの場所を目指す木佐も興味深い。
「俺にとっては美術は、唯一の大事なものだ。それを甘く見られるのは我慢できない。」
美術編集の社員がいよいよ木佐に詰め寄っているらしい。
さすがにそろそろ間に入って、フォローした方がいい。
そう思った瞬間、木佐の凛とした声が響いた。
「俺は、たとえばあなたがエメ編に来たとしても、漫画を甘く見ているなんて思ったりしない。」
「俺は少女漫画なんかに異動しない。」
「希望して異動していた人をいきなり貶めるようなことも言わないし。」
「何だと!?」
「さっき『少女漫画なんか』って言ったよね。あんたの方こそ、他の部署を甘く見てない?」
その途端、バタバタと資料室に似つかわしくない足音が響いた。
その後バタンとドアが開け閉めされる音がする。
どうやら怒って出て行ったようだ。
美術編集の社員はだいたい美大卒が多く、専門職だというプライドが強いのだ。
「美濃、いるんでしょ?」
静かになった資料室に、木佐の声が響いた。
どうやら立ち聞きしていたことは気付かれていたようだ。
美濃は「バレてた?」と笑いながら、木佐の前に姿を現した。
「美術の編集部員とケンカしたら、後々まずいんじゃないの?」
「まぁそうなんだけど。ついつい、ね。」
美濃が何事もなかったように声をかけると、木佐も平然と答えた。
「木佐が美術に異動願いなんて、意外だったな。」
「実は本人が一番そう思ってるんだ。でも俺の唯一の大事なもののためだから。」
先程の男の言葉を引用しながら、木佐は屈託のない顔で笑う。
だが美濃は騙されない。
まだ未成年だといわれても信じてしまう木佐の童顔。
だがその正体はしっかりと野心を胸に秘めた30代の男だ。
正直言って羨ましい。
木佐も羽鳥も高野も律も、何か大事な唯一のものを持っているように見える。
それを秘めながら、着実に前に進んでいるように見えるのだ。
美濃にはこと仕事に関して、そこまで大事に思えるものはない。
「お前にとって、唯一の大事なものって何なの?」
木佐がふと思いついたように、そう聞いてきた。
美濃は「さぁね」とはぐらかすように微笑した。
*****
「木佐さん、疲れました?」
「あ~いや。そうじゃないから。」
雪名がボンヤリと虚空を見上げる木佐に声をかけると、木佐は慌てて首を振った。
日曜日、雪名はまた木佐にモデルを頼んでいた。
今日の木佐はヌードではなく、白いシャツにジーパンというシンプルな装いだ。
ベットの上に腰掛けてくつろいでいる木佐を、雪名はキャンバスに写し取ろうとしていた。
先日服を脱いだ木佐は中性的な雰囲気で、雪名を魅了した。
だが今回は、まるで無垢な少年のようだ。
この人にはいったいどれだけの魅力が秘められているのだろうと思う。
だが今日は木佐の表情がいつもと違った。
何となく憂いを含んでおり、沈んでいるように見える。
木佐は会社員で、貴重な休みにモデルをさせている。
しかも雪名の部屋にわざわざ来てもらってだ。
「木佐さん、疲れました?」
「あ~いや。そうじゃないから。」
雪名がボンヤリと虚空を見上げる木佐に声をかけると、木佐は慌てて首を振った。
「会社でちょっとな。嫌なことがあって。」
「え?大丈夫ですか?」
「ゴメン。表情暗かったか?」
「いえ。自然にしてください。無理して表情を作る必要はありませんから。」
雪名は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
木佐は毎日会社で働き、時には嫌なことだってある。
それについては雪名にできることは何もない。
せいぜい話を聞くくらいだが、木佐はそういう話は絶対にしない。
その上休みにはこうして雪名のモデルをしてくれて、表情まで気にしてくれる。
だがそんな木佐の沈んだ表情にさえ、雪名は惹かれた。
まるで無邪気な少年のようないでたちの木佐が、歳相応の憂いを浮かべる。
それだけで不思議な魅力が生まれたように見えた。
この表情をそのまま自分の筆で表現したいと思う。
今後、雪名が画家として成功するために、木佐の存在は絶対に必要だ。
雪名はここ最近、それを痛感していた。
木佐の魅力を表現することに、何よりも創作意欲を掻き立てられる。
恋人としてだけでなく、モデルとしても、唯一の大事な存在だ。
「木佐さん、少し休みましょう。」
「え?まだ大丈夫だけど」
「いえ、まだまだ長いので休憩入れます。」
雪名はそう言って筆とパレットを置くと、洗面所で手を洗う。
戻った時にはもう木佐はベットに寝そべり、ウトウトしていた。
絶対に傑作を描き上げる。
決意を新たにした雪名は、ベットに腰掛けるとそっと木佐の髪をなでた。
【続く】