プロポーズ10題sideC
【…やっぱり…】
…やっぱり…
あの男は自分から離れた場所へ行ってしまう。
横澤隆史はその事実に動揺し、動揺する自分を持て余していた。
高野政宗が月刊エメラルドを離れることになった。
漫画とはまったく関係ない、別の週刊誌の編集長に就任する。
横澤はそれを高野本人から聞かされた。
そのときはただ「そうか」と答えた。
そして高野のためには喜ばしいことだと思った。
月刊エメラルドでの実績を認められたということなのだ。
いろいろあったが、今では高野は良い友人だ。
仕事でからむことはなくなるだろうが、大した話ではない。
同じ丸川書店にいるのだから、顔を合わせることもあるだろう。
違う部署の話を聞いて、情報交換するのも悪くない。
だが実際、高野の姿を見る機会が減ると心が揺れる。
今まで高野が出席していた会議や打ち合わせには羽鳥や美濃が来るようになった。
エメラルド編集部に顔を出しても、高野が不在なことも多い。
新しい編集部で準備をしたり、引継ぎ等の作業に追われているからだ。
これで後任の編集長が決まってしまえば、いよいよ仕事でからむことはなくなるだろう。
やっぱりと思い、仕方ないと思う。
だがどうしても寂しい。
そして横澤は寂しいと思う自分に動揺していた。
今自分が好きなのは、桐嶋のはずだ。
なのにどうしてこんなに寂しいと思うんだろう。
もう高野への恋心は完全にふっきれたと思っていたのは、思い過ごしだったのか。
さらに動揺の次に思うのは、罪悪感だ。
この気持ちは桐嶋に対する裏切りではないのか。
素知らぬ顔で桐嶋や日和の笑顔を見ていると、心が痛い。
しばらく桐嶋の家には行かない方がいいのかもしれない。
だが何といえばいいだろう?
会社の仕事をを終えた横澤は、今日も迷いながら桐嶋の家に向かっていた。
*****
…やっぱり…
桐嶋日和は、それが思い過ごしではないことを確信した。
その理由は、横澤の飼い猫ソラ太の行動からだ。
父親の友人であり、日和にとってはよきお兄ちゃんである横澤は最近元気がないと思う。
なぜかと問われると上手く言えないのだが、笑顔が違う気がするのだ。
日和の話はちゃんと聞いてくれるし、上の空という感じではない。
だけど心の底から笑っている風にも見えない。
そして拭き取ったようにすっと笑顔が消えて、真顔に戻ってしまうのだ。
まるで笑顔でいることが申し訳ないとでも思っているかのようにも見える。
会社で何か嫌なことでもあったのだろうか?
だとすれば子供の日和にできることはなにもない。
それにそもそも単に勘違いかもしれない。
日和が思い込んでしまっているだけで、何も変わっていないのかもしれない。
だって今日も夕飯を作ってくれたけど、いつもと同じく美味しかった。
日和の父親である桐嶋は不器用で、切り口が歪だったり、味が濃かったり薄かったり。
父親が必死になっても絶対に作れない食事を、横澤は普通に作っているのだから。
そのときソラ太が「ニャ~」と小さく一声鳴いた。
そして食事の後片付けをする横澤の足元に、まとわりついている。
横澤は「片付け終わったら遊んでやるから」とソラ太に声をかけた。
それを見て、やっぱり横澤は元気がないのだと確信した。
桐嶋と横澤が2人とも家にいるときは、ソラ太は桐嶋になつく。
これはひとえにソラ太の食い意地によるものだ。
ちゃんとソラ太の躾をしようとする横澤は、強請られてもなかなか食べ物は出さない。
だが桐嶋はちょっと甘えられると、すぐにおやつをやってしまうのだ。
そのソラ太が今は桐嶋そっちのけで、横澤にまとわりついている。
つまりソラ太も横澤の異変を感じ取っているのだろう。
「ねぇお父さん。横澤のお兄ちゃん、何かあったの?」
食事の片付けを終えた横澤が入浴している隙に、日和は桐嶋にそう聞いた。
すると桐嶋は酷く驚いた表情で「そう見えるか?」と聞き返してきた。
桐嶋は横澤が元気がないことに気付いている。
というか、その理由を知っているのかもしれない。
そして日和も気がついたことに驚いたようだ。
「会社でちょっとな。そのうちに元気になるから黙って待っててやってくれ。」
桐嶋がそう言ったので、日和は「わかった!」と笑顔で答えた。
家事能力は横澤に劣っても、やっぱり父さんは頼りになる。
その父が待てと言うなら、待っていればいい。
*****
…やっぱり…
桐嶋禅は確信した。
あれは単なる事故ではなく、何か邪悪な意図があるのだ。
ジャプン編集部も締め切り間近で、にわかに慌しい雰囲気になってきている。
編集長である桐嶋はその指揮を執りながら、誰よりもテキパキと仕事をこなしていた。
忙しいのはありがたい。
私生活で多少ゴタついても、こうして考える暇もないほど仕事に没頭できる。
桐嶋は気づいていた。
月刊エメラルド編集長、高野の異動によって、横澤が動揺していることに。
日和もそれに気付いているようで、気にしている。
だが桐嶋はそれを大したことだとは考えていなかった。
何しろ桐嶋は1度結婚して、子供までいるのだ。
しかも桐嶋の家には妻の遺影まで飾ってある。
桐嶋だけなら、横澤と恋人になった時点で妻の写真は横澤の目の届かない場所に置くだろう。
だが日和のために、それを片付けることはできなかった。
それに比べたら、横澤の高野への想いなど小さなものだ。
横澤が妻の思い出や日和を大事にしている桐嶋を思ってくれている。
そして桐嶋は高野への想いごと、横澤に惚れたのだ。
そこに横澤が気付いてくれれば解決する問題だ。
聡い男なのだから、そこに至るまでにはさほど時間はかからないだろう。
それでも元気がない横澤はやはり心配で、こうして仕事でまぎらしているわけだ。
「伊集院先生がまたネガティブ入っちゃってるみたいです。」
編集部員の1人が電話の受話器を置きながら、困ったようにそう報告してきた。
人気漫画家、伊集院響はまた極度のネガティブモードに突入したらしい。
桐嶋は「何で今だよ」と文句を言う。
こうなったら直接出向いて、宥めないとダメだ。
だが桐嶋は手が離せない。
「伊集院先生のところに。。。いないな。」
桐嶋は新入りで伊集院に気に入られている編集部員を行かせようと思ったが、席にいない。
配送棚か、それともトイレか。
捜させるにも誰も手が離せる状態ではない。
桐嶋は自分で捜すことにして席を立ち、異変に気付いた。
新入り編集部員を捜しながら、エレベーターの前まで来ると『点検中』の札が下がっている。
こんな遅い、業者など来るはずがない時間帯なのに。
確か少し前に、月刊エメラルドの編集部員が階段から落ちる事故があった。
そのときも遅い時間なのに、エレベーターが『点検中』だったと聞いた気がする。
嫌な予感と共に階段に向かった桐嶋は見つけた。
階段の最上段の足元に、まるで罠のように張られた細い糸を。
こんなのは偶然にどうにかなるものではない。
明らかに階段を降りる人間に怪我を負わせるのが目的だ。
先日のエメラルドの編集部員の怪我。
やっぱりあれは単なる事故ではなく、何か邪悪な意図があるのだ。
そして下手をすれば、桐嶋の部下もやられていた。
桐嶋は怒りに震えながら、ピンと張られた糸を睨みつけた。
【続く】
…やっぱり…
あの男は自分から離れた場所へ行ってしまう。
横澤隆史はその事実に動揺し、動揺する自分を持て余していた。
高野政宗が月刊エメラルドを離れることになった。
漫画とはまったく関係ない、別の週刊誌の編集長に就任する。
横澤はそれを高野本人から聞かされた。
そのときはただ「そうか」と答えた。
そして高野のためには喜ばしいことだと思った。
月刊エメラルドでの実績を認められたということなのだ。
いろいろあったが、今では高野は良い友人だ。
仕事でからむことはなくなるだろうが、大した話ではない。
同じ丸川書店にいるのだから、顔を合わせることもあるだろう。
違う部署の話を聞いて、情報交換するのも悪くない。
だが実際、高野の姿を見る機会が減ると心が揺れる。
今まで高野が出席していた会議や打ち合わせには羽鳥や美濃が来るようになった。
エメラルド編集部に顔を出しても、高野が不在なことも多い。
新しい編集部で準備をしたり、引継ぎ等の作業に追われているからだ。
これで後任の編集長が決まってしまえば、いよいよ仕事でからむことはなくなるだろう。
やっぱりと思い、仕方ないと思う。
だがどうしても寂しい。
そして横澤は寂しいと思う自分に動揺していた。
今自分が好きなのは、桐嶋のはずだ。
なのにどうしてこんなに寂しいと思うんだろう。
もう高野への恋心は完全にふっきれたと思っていたのは、思い過ごしだったのか。
さらに動揺の次に思うのは、罪悪感だ。
この気持ちは桐嶋に対する裏切りではないのか。
素知らぬ顔で桐嶋や日和の笑顔を見ていると、心が痛い。
しばらく桐嶋の家には行かない方がいいのかもしれない。
だが何といえばいいだろう?
会社の仕事をを終えた横澤は、今日も迷いながら桐嶋の家に向かっていた。
*****
…やっぱり…
桐嶋日和は、それが思い過ごしではないことを確信した。
その理由は、横澤の飼い猫ソラ太の行動からだ。
父親の友人であり、日和にとってはよきお兄ちゃんである横澤は最近元気がないと思う。
なぜかと問われると上手く言えないのだが、笑顔が違う気がするのだ。
日和の話はちゃんと聞いてくれるし、上の空という感じではない。
だけど心の底から笑っている風にも見えない。
そして拭き取ったようにすっと笑顔が消えて、真顔に戻ってしまうのだ。
まるで笑顔でいることが申し訳ないとでも思っているかのようにも見える。
会社で何か嫌なことでもあったのだろうか?
だとすれば子供の日和にできることはなにもない。
それにそもそも単に勘違いかもしれない。
日和が思い込んでしまっているだけで、何も変わっていないのかもしれない。
だって今日も夕飯を作ってくれたけど、いつもと同じく美味しかった。
日和の父親である桐嶋は不器用で、切り口が歪だったり、味が濃かったり薄かったり。
父親が必死になっても絶対に作れない食事を、横澤は普通に作っているのだから。
そのときソラ太が「ニャ~」と小さく一声鳴いた。
そして食事の後片付けをする横澤の足元に、まとわりついている。
横澤は「片付け終わったら遊んでやるから」とソラ太に声をかけた。
それを見て、やっぱり横澤は元気がないのだと確信した。
桐嶋と横澤が2人とも家にいるときは、ソラ太は桐嶋になつく。
これはひとえにソラ太の食い意地によるものだ。
ちゃんとソラ太の躾をしようとする横澤は、強請られてもなかなか食べ物は出さない。
だが桐嶋はちょっと甘えられると、すぐにおやつをやってしまうのだ。
そのソラ太が今は桐嶋そっちのけで、横澤にまとわりついている。
つまりソラ太も横澤の異変を感じ取っているのだろう。
「ねぇお父さん。横澤のお兄ちゃん、何かあったの?」
食事の片付けを終えた横澤が入浴している隙に、日和は桐嶋にそう聞いた。
すると桐嶋は酷く驚いた表情で「そう見えるか?」と聞き返してきた。
桐嶋は横澤が元気がないことに気付いている。
というか、その理由を知っているのかもしれない。
そして日和も気がついたことに驚いたようだ。
「会社でちょっとな。そのうちに元気になるから黙って待っててやってくれ。」
桐嶋がそう言ったので、日和は「わかった!」と笑顔で答えた。
家事能力は横澤に劣っても、やっぱり父さんは頼りになる。
その父が待てと言うなら、待っていればいい。
*****
…やっぱり…
桐嶋禅は確信した。
あれは単なる事故ではなく、何か邪悪な意図があるのだ。
ジャプン編集部も締め切り間近で、にわかに慌しい雰囲気になってきている。
編集長である桐嶋はその指揮を執りながら、誰よりもテキパキと仕事をこなしていた。
忙しいのはありがたい。
私生活で多少ゴタついても、こうして考える暇もないほど仕事に没頭できる。
桐嶋は気づいていた。
月刊エメラルド編集長、高野の異動によって、横澤が動揺していることに。
日和もそれに気付いているようで、気にしている。
だが桐嶋はそれを大したことだとは考えていなかった。
何しろ桐嶋は1度結婚して、子供までいるのだ。
しかも桐嶋の家には妻の遺影まで飾ってある。
桐嶋だけなら、横澤と恋人になった時点で妻の写真は横澤の目の届かない場所に置くだろう。
だが日和のために、それを片付けることはできなかった。
それに比べたら、横澤の高野への想いなど小さなものだ。
横澤が妻の思い出や日和を大事にしている桐嶋を思ってくれている。
そして桐嶋は高野への想いごと、横澤に惚れたのだ。
そこに横澤が気付いてくれれば解決する問題だ。
聡い男なのだから、そこに至るまでにはさほど時間はかからないだろう。
それでも元気がない横澤はやはり心配で、こうして仕事でまぎらしているわけだ。
「伊集院先生がまたネガティブ入っちゃってるみたいです。」
編集部員の1人が電話の受話器を置きながら、困ったようにそう報告してきた。
人気漫画家、伊集院響はまた極度のネガティブモードに突入したらしい。
桐嶋は「何で今だよ」と文句を言う。
こうなったら直接出向いて、宥めないとダメだ。
だが桐嶋は手が離せない。
「伊集院先生のところに。。。いないな。」
桐嶋は新入りで伊集院に気に入られている編集部員を行かせようと思ったが、席にいない。
配送棚か、それともトイレか。
捜させるにも誰も手が離せる状態ではない。
桐嶋は自分で捜すことにして席を立ち、異変に気付いた。
新入り編集部員を捜しながら、エレベーターの前まで来ると『点検中』の札が下がっている。
こんな遅い、業者など来るはずがない時間帯なのに。
確か少し前に、月刊エメラルドの編集部員が階段から落ちる事故があった。
そのときも遅い時間なのに、エレベーターが『点検中』だったと聞いた気がする。
嫌な予感と共に階段に向かった桐嶋は見つけた。
階段の最上段の足元に、まるで罠のように張られた細い糸を。
こんなのは偶然にどうにかなるものではない。
明らかに階段を降りる人間に怪我を負わせるのが目的だ。
先日のエメラルドの編集部員の怪我。
やっぱりあれは単なる事故ではなく、何か邪悪な意図があるのだ。
そして下手をすれば、桐嶋の部下もやられていた。
桐嶋は怒りに震えながら、ピンと張られた糸を睨みつけた。
【続く】