プロポーズ10題sideC

【緊張する】

「すげぇ、緊張する。」
木佐翔太はもう何度言ったかわからない台詞をまた口にした。
彼の愛する恋人は「楽にしてくださいよ」と笑った。

木佐は部屋のベットの上に、一糸纏わぬ姿で寝そべっている。
毛布や掛け布団などは取り払われていて、かろうじて下腹部に白いタオルをかけてあるだけだ。
カーテンを開け放った白昼の部屋で、木佐は惜しげもなく裸身を晒していた。
白くて華奢な裸身が、光を反射して映える。
恋人-雪名はそんな木佐を見下ろしながら「綺麗です」と感嘆の声を上げた。

だが木佐はガチガチに緊張していた。
今、2人は身体を重ねているわけではない。
それどころか雪名は木佐に手を触れようとさえしない。
雪名の手には絵筆とパレット、そして傍らにはキャンバス。
木佐は雪名の絵のモデルをしていたのだ。

雪名は美大を卒業したものの、就職はしなかった。
そのままアルバイト先の「ブックスまりも」で働きながら、空いた時間に絵を描いている。
画家として独り立ちするまでは、いわゆるフリーターとして、生計を立てるつもりだという。

木佐はそのことに関して、特に何も言わなかった。
理解を示したとか、そんなカッコいい話ではない。
軽々しく何か言えるほど、知識がないからだ。
美大の進路の正解なんてわからないし、考えたこともなかった。
大学を卒業した後すぐに会社員になった木佐には、あまりにも馴染みのない世界なのだ。

それでも雪名には夢を追いかけて欲しいと思う。
プロの画家になるのはきっと大変なことだと思うが、雪名ならきっとやり遂げられる。
そのためなら、木佐は応援も協力も惜しまないつもりだ。
そしてその協力の一環が、このモデルだ。

「一番好きなものを、納得いくまで描きたいんです。」
恋人にそんなことを言われて、ことわれるはずなどない。
とはいえ正直言って抵抗がないといえば嘘になる。
単に恥ずかしいというだけではない。
30歳を過ぎた頃から、肌や身体の衰えを感じ始めているのだ。
まさかこの歳で、しかも男の身でヌードモデルになるなど、思いも寄らなかった。

「木佐さん、目線は俺の方に下さい。あともっと身体の力を抜いて。」
雪名がガチガチの木佐を見て、そう言った。
言葉こそ気さくだが、目は情事のときと同じ艶色を秘めている。
木佐はその熱い視線に身体の芯を疼かせながら、雪名を見つめていた。

*****

「う~ん」
男は唸るような声をあげながら、持参した数点の絵を順番に見ている。
自分の絵を目の前でじっくりと検分されるのは、何度経験しても緊張する。
だが雪名はじっと黙ったまま、評価されるのを待った。

美大を卒業するとき、雪名は進路についてかなり悩んだ。
夢は油絵画家なのだが、現実は厳しい。
油絵だけで食べていける人間は、卒業生の1%にも満たない。
美術教員や企業のデザイナーなど、多少美大卒が有利な仕事につくのがせいぜいだ。
卒業以来、油絵の道具に触っていないなんて人間だって珍しくない。

それでも雪名は夢を追いかける道を選んだ。
絵を描く時間が欲しいから、就職はしない。
今まで通り「ブックスまりも」でバイトを続けながら、画廊に絵を置いてもらっている。

画廊には大きく分けて2種類ある。
店側が選択した作品を展示する「企画画廊」と、スペースを作家に貸す「貸画廊」だ。
まだ無名な雪名の作品が「企画画廊」に絵を置いてもらえることはない。
1人で、または同じ夢を持つ友人と共同で、一定期間だけ「貸画廊」の展示スペースを借りて絵を置く。
そうしながら時々賞に応募したりして、日々過ごしていた。

そして今日、雪名はある「企画画廊」のオーナーと会っている。
そこは若い作家の発掘に熱心な画廊で、オーナーは雪名の大学の恩師と懇意にしている。
雪名はその恩師の紹介で、作品を見てもらうことになったのだ。
認められれば、もう自費で画廊を借りなくても絵を置いてもらえる。
そのことで注目度だって、かなり上がるはずだ。

「すごくいいよ。素質もあると思う。けれど少しインパクトにかけるんだよね。」
雪名の作品にひと通り目を通した画廊のオーナーは、そう評した。
褒めてはくれたが、残念ながら絵は置いてもらえないようだ。
予想できた答えだった。
それは大学を卒業して以来、何度か言われたことがあるからだ。

だから雪名は自分の代表作と言われる作品を描きたいと思っている。
それで有名になれれば、絵も売れるようになる。
そのために木佐にモデルを頼んだのだった。
最高傑作を描くには、一番愛しているものがいいと思ったからだ。
会社勤めの木佐の貴重な休日は、今ほとんど雪名のものだ。
木佐は文句1つ言わず、絵のモデルをしてくれている。

だがいくつか完成した木佐の絵を、雪名は持ってきていなかった。
それは最後の勇気が出なかったからだ。
もし最後の砦ともいうべき木佐の絵を出して「インパクトにかける」などと言われたら、なす術がない。
木佐に対しても、申し訳が立たない。

「自分でも会心の出来っていう作品が描けたら、ぜひまた持って来て。」
画廊のオーナーは、最後にそう言った。
今回はダメだけど、見込みはあるということらしい。
雪名は「ありがとうございました」と頭を下げると、画廊を後にした。

*****

「異動の希望もあれば聞くから。」
高野の言葉に、木佐はある可能性を思いついた。
それは愛する恋人のより近い場所に行くという選択肢だ。

木佐は相変わらず淡々と会社での仕事をこなす日々を送っていた。
正直言って、今人生で一番幸せだと思う。
大好きな恋人はもうほぼ同棲状態、事実上は夫婦の域だ。
しかも雪名は大学を卒業してからは、本屋のバイトを平日の昼間に集中させている。
つまり木佐が在宅の時間帯には、なるべく家にいようとしてくれるのだ。
愛しているし、愛されている。
そんな木佐にも、最近また新たに不安に思うことがあった。

「なにか1ついい作品を描ければ、画家として活動できるかもしれません。」
先日画廊に作品を持っていった雪名は、そう言った。
どうやら感触は悪くなかったらしい。
雪名には画家になって欲しいと思う気持ちは決して嘘ではない。
だが実際にそれが近くなってきたと思うと、正直怖い気持ちもある。
ただでさえ雪名はモテるのだ。
有名になってしまったら、言い寄る人間も増えるだろう。
そのとき木佐はまだ雪名の隣にいられるだろうか。
高野の異動を聞かされたのは、そんなときだった。

「編集長の座を俺にくださいってヤツは名乗り出るように。」
次の編集長を募る高野の言葉を、木佐はぼんやりと聞いていた。
正直言って、自分には関係ない話だと思う。
編集長というタイプではないし、ましてや敏腕だった高野の後任などもってのほかだ。
もしこのメンバーから選ばれるとしたら、羽鳥が最有力だろう。
だが高野の次の言葉に、木佐の心は揺れた。

「それと他に異動の希望もあれば聞くから。」
高野はそう付け加えて、ある1人を見ていた。
これは間違いなく小野寺律に向けられた言葉だろう。
律は元々文芸の志望であるから、最後にその希望を叶えようということだと思う。

だがこの場で発せられた言葉なら、木佐にだって権利はある。
美術関係の部署に行けば、もっと雪名のことを理解できる。
今よりも近い場所で、雪名を見守ることができるかもしれない。

やるなら今だと思った。
雪名も月刊エメラルドも木佐本人も、今がきっと転機なのだ。
木佐が美術部門への異動を高野に申し出たのは、その翌日のことだった。

【続く】
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