プロポーズ10題sideB

【よろしくたのむ】

どうしてもっと早く手が動かないんだろう。
吉野は呪うように自分の右手を睨みつけていた。

吉野の仕事場はピリピリした緊張感に満ちている。
柳瀬が伊集院響の専属アシスタントになって、初めての締め切り。
つまり吉野は柳瀬抜きで修羅場に突入したのだ。

優なしで原稿描くのって、いつ以来だろう?
吉野は懸命に手を動かしながら、ふとそんなことを考えた。
趣味で描いていたアマチュアの頃。
プロデビューしたばかりで、まだまだアシスタントを使う余裕がなかった新人の頃。
とにかくかなり昔の話だ。
でも羽鳥や柳瀬の力を借りずに、1人で描いていた時期は確かにあったのだ。

「10分、休憩しましょう」
声をかけられて、吉野は手を止めた。
羽鳥も柳瀬もいない今、頼りになるのはこの若い担当編集。
小野寺律はポンと1つ手を叩くと、吉野とアシスタントたちに見回しながら休憩を告げた。

「でも休んでる時間なんて」
「まだまだ長いんですよ。少し休んだ方が効率が上がります。」
「だったらみんな休んで。俺はまだ」
「吉野さんが作業してたら、みんなが落ち着かないでしょう?」

律はやんわりと、だが有無を言わせぬ強引さで吉野の作業を中断させた。
確かにまだまだ長丁場だし、少し休んでおくのは正解だろう。
吉野はペンを置いて、大きく伸びをした。

「差し入れにケーキがあるんですよ。紅茶でも淹れましょう。」
律は立ち上がると、キッチンへ向かおうとする。
だが吉野はそんな律の顔を見て「あれ?」と思う。
何だが顔色が悪いように見えた。

律にもトーンや写植を貼る作業を頼んでいる。
もちろん他のアシスタントに比べたら、簡単な作業だ。
だけど律は吉野だけ担当しているわけでもないし、そもそもアシスタントではない。
それに数時間前に全員分の弁当を用意してくれたが、律は食べていなかった。
アシスタントたちに茶を用意した後、電話をかけてくると言って部屋を出ていたのだ。

柳瀬がいない分、アシスタントたちは全員プレッシャーを感じて緊張している。
さらに羽鳥がいない分、吉野は気負っていたような気がする。
だが負担が多いのは律だって、同じはずだ。
いろいろな事件があった後、手のかかる作家を任されたのだから。

「紅茶、俺が淹れる!」
勢い込んで律の背中にそう声をかけると、アシスタントたちが顔を見合わせた。
そう言えばこういうシチュエーションで、自分から何かすると言ったのは初めてだ。
一瞬の間の後、アシスタントたちから「止めて下さい!」と声が上がる。
どうやらたとえ紅茶といえども、吉野作の食べ物は信頼がないらしい。
吉野は地味にヘコみながら、肩を落とした。

「じゃあ手伝ってもらえます?俺、実家の親が紅茶好きなんで淹れるの上手いんですよ。」
律がそう言ってくれたので、吉野は「はい!」と勢い込んで答えた。
アシスタントたちがホッとした表情になったのを見て、吉野は苦笑した。

今までの俺って甘やかされてたなぁ。
吉野は律の言う通りにカップを温めながら、ふと思う。
例えば美味しい紅茶の淹れ方。
例えば担当編集やアシスタントとの正しい距離の取り方。
漫画を描くこと以外の何もかもを、羽鳥と柳瀬に預けていたような気がする。

律の指示通りに淹れた紅茶は、香りがよくて美味かった。
吉野は思わず「美味しい!」と声を上げてしまうほどだ。
今度羽鳥や柳瀬が来たら、ご馳走してやろう。
離れたおかげで、新しいことができるようになったことを自慢したくてたまらなかった。

*****

「か、神様。。。」
吉野がウルウルと目を潤ませて、じっと柳瀬を見た。

柳瀬が吉野の部屋を訪ねたのは、エメラルドの原稿の入稿を終えた後だった。
実は新しいボスである伊集院からは、吉野のヘルプをしてもいいと言われている。
もちろん本業である伊集院の仕事に差し支えない範囲でだ。
だがそれを知っているのは羽鳥と律だけで、吉野や他のアシスタントたちは知らない。
知ってしまえば柳瀬に頼って、甘えてしまうかもしれない。
スタッフにそんな気持ちを起こさせないようにするためだ。

だが結局、吉野の仕事に呼び出されることもなかった。
柳瀬としては嬉しいような寂しいような、微妙な気持ちだ。
無事に入稿したとメールをもらったものの、実際に吉野がどうしているのか気になった。
だから手土産持参で、吉野のマンションを訪ねたのだった。

「すげー!さすが専属アシスタント!」
挨拶もそこそこに手土産を渡すと、吉野は目をキラキラと輝かせている。
それは伊集院響の直筆のサイン色紙だった。
ちゃんと「吉野千秋さんへ」と書かれており「ザ☆漢」のキャラクラーも描き添えられている。

「専属になれば、こういう無理も利くから」
「ねぇ、今度コミックスにもサインもらえるかなぁ?」
「多分大丈夫だと思う。」
「か、神様。。。」

吉野がウルウルと目を潤ませて、じっと柳瀬を見た。
友人から恋人に昇格する日を夢見ていた。
だがそれより先に「神」に昇格したようだ。
悲しい気持ちはないでもないが、それ以上に愉快な気分だった。
想像通りのリアクション。
一緒に仕事をすることがなくなっても、会う時間が減っても、吉野は吉野だ。

「そうだ!お礼に紅茶を淹れるよ!差し入れのお菓子もまだ残ってるし。」
「お前が紅茶?」
「小野寺さんに習ったんだ!すごく美味しい紅茶の淹れ方。茶葉も分けてもらったし」
吉野が得意気に胸を張る。
まるで親に褒めてもらいたい子供みたいだと思ったが、さすがにそれは言わないでおく。
柳瀬は「よろしくたのむ」とだけ言って、笑いを噛み殺した。

「なぁ千秋、これ何?」
吉野が紅茶を淹れるの見ようと一緒にキッチンに入った柳瀬は、思わずそう聞いた。
シンクの上に見慣れない物体を見つけたからだ。
手のひらに乗るほどの大きさの細長い筒状のそれは、手に取るとグニャリとやわらかい。

「それは電子レンジで卵焼きが出来る機械。卵を流し込んでレンジでチンするだけなんだ。」
「俺、ガスで作ると上手くできなくて。悩んでたら小野寺さんが教えてくれた。」
「これで作ると美味い?」
「いやトリや優の卵焼きほど美味しくない。だけど俺が作るよりは全然美味い。」

そう言えば、と柳瀬は以前、吉野が作った卵焼きを思い出した。
火加減がうまくいかないようで、玉子の表面は焦げているのに、中は固まっていなかった。
確かにこれならその心配はないが、焼き目はつかないだろう。
柳瀬は「へぇ」と感心しながら、キッチンの中を観察する。
すると卵焼き機以外にも、見慣れないものがいろいろ増えているのがわかる。
どうやら最近流行のキッチングッズのようだ。

「小野寺さん、苦労しないで料理できる器具をいっぱい知ってるんだ。」
柳瀬の視線に気付いた吉野が、照れくさそうにそう言った。
どうやら羽鳥の後任アシスタントは、料理はさほど上手くないらしい。
だが何でも出来る羽鳥や柳瀬よりは、吉野にいい影響を与えているようだ。

「紅茶、出来たよ!」
吉野が得意気にカップを差し出すのを見て、柳瀬も笑顔になった。
恋心に潜む邪心や嫉妬が浄化されて、友情の純度は高くなった気がする。
これからは良き友人として、一緒の時間を重ねていけるだろう。

*****

「やった!」
律が思わず小さく声を上げる。
羽鳥は「よく頑張った」と短く労った。
だが正直なところ、複雑な気分だった。

月刊エメラルドの最新のアンケート結果が出た。
今回の1位は吉川千春。
ここ数回の順位は真ん中からやや上という順位だったので、久しぶりの1位だ。

正直言って、このタイミングの1位は当たり前といえば当たり前なのだ。
今までは主役の恋する2人がじれったくすれ違う展開が続いていた。
それが最新号でやっと両想いなのだと確認したのだ。
劇的な告白シーンが、読者の心を見事に捕らえたというわけだ。

だがそれが偶然にも担当が羽鳥から律に代わったタイミングだった。
羽鳥としては、何とも複雑な気分だ。
吉野の作品が1位なのは嬉しい。
担当の律だって、1位になれば自信につながるだろう。
だけどどうしても割り切れない気持ちがわき上がるのを、抑えられない。

何となくすっきりしない気分で帰宅したら、部屋の中で吉野が待っていた。
椅子に腰掛けて、どこか緊張したような表情だ。
いつもはベットかカーペットの上にゴロリと横になり、自分の家のようにくつろいでいるのに。
羽鳥は挨拶より先に「どうした?」と聞いていた。

「俺たちってさ、元々は友達だったじゃん」
「ああ」
「で、最近はいつも仕事ばかりだったじゃん」
「ああ、そうだな」
「今は恋人、だよな」
「そうだな」
吉野が言葉を選びながら、ポツポツと話している。
羽鳥はスーツを脱ぎながら、吉野の話に相槌を打った。
深刻な雰囲気の吉野に困惑していたが、冷静な振りで話を聞く。

「もう友達には戻れないし、仕事も直接関係なくなって。でもトリの顔が見たくなったんだ。」
「千秋」
「会いたいから来ちゃったんだ。これって正しいのかな?」
ようやく羽鳥は吉野の言いたいことがわかった。
友人から仕事仲間になり、そのうちに恋心が加わった。
ただでさえ男同士というむずかしい関係なのに、さらに仕事という要素が抜けてしまった。
そこで吉野は2人の距離の取り方がわからなくなってしまったのだろう。

「正しいよ。会いたいときに会って、言いたいことを言うんだ。恋人なんだから。」
「そっか。そう、だよな。」
「キスしたい時にするし、抱き合いたい時にもそうする。」
着替えを終えた羽鳥は、吉野の隣に腰を下ろすと、耳元でそっと囁いた。

恋人としての関係を真剣に考える吉野が、かわいくて仕方がない。
もうアンケートの結果なんか、どうでもいい。
仕事のときの吉野は、律に任せる。
恋人のときの吉野だけを見ていればいい。

「よろしくたのむ。これからは恋人として。」
羽鳥は吉野の肩を抱き寄せると、吉野が唇を尖らせながら目を閉じる。
仕事でしょっちゅう顔を合わせていたときには、吉野からキスをせがむなんてことはなかった。
2人の関係は、もっと甘いものに変わっていくだろう。
羽鳥は楽しい予感に胸を躍らせながら、恋人の唇にキスを落とした。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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