プロポーズ10題sideB

【少しの寂しさ】

「小野寺さんじゃ話にならない!羽鳥を呼んでください!」
吉野は怒りにまかせて、そう叫んでいた。

「俺、千秋のアシスタントを辞める事にした。」
事の発端は柳瀬からこの一言だった。
柳瀬の衝撃的な発言に、吉野は冷静さを失った。
「何で?」と聞き返した声は、情けないほど震えていた。

「伊集院先生にずっと頼まれていた専属の話、引き受けることにしたんだ。」
柳瀬は動揺する吉野に、落ち着いた声でそう答えた。
まだアシスタントが必要でないこの時期に、柳瀬は「仕事の話がある」と言って、急に自宅にやって来た。
しかも吉野の担当編集である律も連れて。
何だか妙だと思っていたが、まさかこんな話を切り出させるとは思わなかった。

「必要でしたら、編集部で代わりのアシスタントを捜します。」
傍らで2人のやり取りを見ていた律が、事務的にそう言った。
担当編集である律は、すでに柳瀬の申し出を既成事実として受け止めている。
そのことが余計に吉野の怒りを駆り立てた。

「何で?そんな大事な話、何で俺がいないところで進めてたの?」
「千秋が混乱するだろうから。正式に決まらないうちに耳に入れたくなかったんだ。」
「正式に決まってからじゃ、遅いじゃないか!」
吉野が激しても、柳瀬はあくまで冷静に、穏やかに応じている。
その目は真剣で、もう柳瀬の決心が変わらないことを示していた。

「柳瀬さんの希望も聞いてあげて下さい。」
怒りと動揺で言葉が出ない吉野に、横から律がそっと声をかけてくる。
諌めるような口調がまた癇に障った。
柳瀬が吉野のアシスタントを辞めてしまったら、吉川千春の作品には大ダメージだ。
担当編集なのに、そんなことがわからないのか。

「小野寺さんは、賛成なんですか?」
「確かに少しの寂しさはありますが、柳瀬さんにとってはすごくいいお話ですよ。」
「そんな」
「とにかくちゃんと話しましょう。柳瀬さんだって考えた末のことなんですから。」
律もまた柳瀬同様、冷静だった。
事前にこの件について、律は柳瀬と話し合いをして了承している。
とにかく吉野には気に入らないことだらけだった。

「小野寺さんじゃ話にならない!羽鳥を呼んでください!」
吉野は怒りにまかせて、そう叫んでいた。
後になって、ひどいことを言ってしまったと後悔することになる。
だがこの時の吉野にはまったく余裕がなかった。

*****

「すみません。面倒なことに巻き込んで。」
「いいえ。気にしないで下さい。」
柳瀬が謝罪すると、律は笑顔で頷いた。

柳瀬は律と共に吉野宅の近所のカフェにいた。
先程2人で吉野の部屋を訪ねて、吉野のアシスタントを辞めるという意思を伝えたばかりだ。
律は話し合おうと言ってくれたが、話し合いにはならなかった。
吉野は最後まで怒ったままで、それ以上は会話ができる雰囲気ではなかった。

柳瀬が吉野のアシスタントを辞めようと思ったのは、やはり羽鳥の編集長就任が大きい。
今まではあえて目を背けていた自分と羽鳥の社会的地位の差を意識してしまった。
編集者とはいえ会社員である羽鳥の出世。
それに引き換え柳瀬はどこに雇われているわけでもない不安定な身分だ。
しかも吉野のアシスタントを最優先にしている限りは、今以上のステップアップはない。

だが伊集院響の専属になれば、新しい世界が広がる。
伊集院の専属アシスタントは何人もいてチームを組んでいる。
チーム内での位置付けは、年齢も経験も関係ない実力のみの競争だ。
しかも伊集院は作品の中に、自分のチームのアシスタントの意見を採用することも多々ある。
とにかく今以上に可能性が広がることは間違いない。
羽鳥が出世するのなら、自分だってもっと高みを目指したいと思ったのだ。

「すみません。面倒なことに巻き込んで。」
「いいえ。気にしないで下さい。」
柳瀬が謝罪すると、律は笑顔で頷いた。
実は吉野の担当編集が変わったことも、柳瀬が新たな1歩を踏み出すきっかけになった。

契約などはしていないが、やはりアシスタントを辞めるなら担当編集の了承も必要だ。
ましてや吉野のような筆の遅い作家で、柳瀬はメインのアシスタントなのだから。
だが羽鳥が相手だとどうしても話をするのを躊躇ってしまう。
今までいろいろなことがあったせいで、どうしてもビジネスライクになりきれないのだ。
羽鳥が賛成したら、きっと吉野と自分を遠ざけたいのだと思うだろう。
逆に反対されたら、やはり羽鳥は柳瀬の将来より吉野の仕事優先なのだと思ってしまう。
だが律ならば余計な感情抜きで、話を聞いてくれるだろう。
柳瀬は律に、吉野への恋愛感情以外の気持ちをありのままに話した。

「柳瀬さんの将来を考えるならいいお話だと思います。個人的には柳瀬さんともっとお仕事がしたいですが」
すると律は少しだけ残念そうな笑顔で、柳瀬の決意を聞いてくれた。
そして別れを惜しみながらも、柳瀬が次のステージに進むことを喜んでくれた。
それに勇気付けられて今日、律も立会いの上で吉野に話すことにしたのだった。

「それにしても羽鳥だって、あそこまでキッパリとは言わないのに」
柳瀬は先程の律と吉野のやり取りを思い出しながら、苦笑した。
律はいつまでも怒っている吉野に「子供みたいにいつまでも拗ねないで下さい」と突っぱねたのだ。
いつも口うるさいくせに、いざという時には吉野に弱い羽鳥とは正反対だ。

「小野寺さんみたいな人が吉野の担当になってくれて、よかったですよ。」
「吉野さん本人も、いつかそう思ってくださると嬉しいですが」
律もまた苦笑しながら、コーヒーを口に運ぶ。
吉野が「羽鳥を呼んでください!」と叫んだことは、やはり愉快ではなかったようだ。

「もう今もそう思ってますよ。今頃きっと言い過ぎたって落ち込んでます。」
柳瀬は決してお世辞ではなく、本心からそう言った。
律は「そうだといいですが」と弱気な発言だが、表情も態度もあくまで冷静だ。
かわいらしい容貌だが、この程度のことで落ち込むほどヤワではないようだ。

柳瀬は少しの寂しさを感じた。
吉野とは今後も友人でいるつもりだから、会う機会はいくらでもある。
羽鳥とは吉野との関係上、嫌でも顔を見ることがあるだろう。
だけど律と顔を合わせることはほとんどなくなってしまう。

今回のこの決断は自分にとって一番よい選択をしたつもりだし、後悔はない。
だが美人で有能な編集者とあまり仕事ができなかったことだけが心残りだ。

*****

「俺、もう小野寺さんに愛想つかされてるかも。」
「そんなことはない。小野寺はあれでなかなか忍耐強い。」
羽鳥は言ってしまってから、少しもフォローになっていないことに気付いた。
律を性格を解説しただけで、吉野のことを何も否定していない。

柳瀬が伊集院響の専属になるという話を、羽鳥は律から聞いた。
正直言って、柳瀬が吉野の仕事メインでアシスタントをしていていいのかとは思っていた。
柳瀬を専属に欲しがっている漫画家は少なくないと聞く。
吉野にこだわっているせいで、いろいろとチャンスを失っているのではないか。

だがそれを告げるには、羽鳥と柳瀬の関係は捻れ過ぎていた。
羽鳥が何か言っても、柳瀬は素直に聞き届けてくれないだろう。
吉野を巡って争っていた時期が長く、もうお互い腹を割って話すなんてことができないのだ。

だから今回、律が担当になってこういう話ができるのはいいことだと思う。
問題は吉野がそれを納得して、柳瀬を快く送り出してやれるかどうかだ。
だが律から連絡があり、吉野が羽鳥を呼ぶように言ったと聞かされた。
あまりいい話し合いにはならなかったようだ。
編集長の羽鳥は多忙で、さすがにすぐに駆けつけることはできなかった。
だが急ぎの仕事だけ片付けて、何とかその日のうちに吉野の部屋に来たのだった。

「俺って、すっげー嫌なヤツ。。。」
羽鳥が訪問した時には吉野の怒りはすっかり収まっており、自己嫌悪モードに変わっていた。
吉野だって、そうそう聞き分けのないバカではない。
柳瀬が今より責任ある仕事に就くことは喜ばしいことだとはわかっているのだ。

「優がもっと大きな仕事するんだから、祝ってやらなきゃいけないのに。。。」
「だったら今からでも遅くない。ちゃんとあやまって祝ってやればいいだろう。」
「でもきっと怒ってるよ。。。」
「そんなことで怒るなら、とっくにお前の友人なんかやめてる。」

羽鳥がそう言ってやると、吉野はパッと顔を輝かせた。
そして「怒ってないかな?」とすがるような目で聞き返してきた。
だが羽鳥が言い終える前に、またガックリと肩を落とす。

「小野寺さんにもヒドいこと、言っちゃったんだ。。。」
とにかく感情のアップダウンを繰り返す吉野に、羽鳥は呆れるしかない。
良くも悪くも自分の気持ちに正直なのが、吉野なのだ。

「俺、もう小野寺さんに愛想つかされてるかも。」
「そんなことはない。小野寺はあれでなかなか忍耐強い。」
羽鳥は言ってしまってから、少しもフォローになっていないことに気付いた。
律を性格を解説しただけで、吉野のことを何も否定していない。
だが幸いなことに、取り乱した吉野はそのことには気付かないでいてくれた。

律は小野寺出版にいたとき、宇佐見秋彦の担当をしていたと聞いた。
羽鳥の同期入社の1人が文芸にいるのだが、その話をしたら驚いていた。
宇佐見秋彦はとにかく気難しい作家の代表格で、丸川では相川という担当者でなければダメらしい。
新人でその相手ができたのなら、大抵の作家は大丈夫。
羽鳥の同期はそんな風に評していた。
羽鳥だって、あの高野のシゴキに耐えた律の根性は評価している。
そんな律が、吉野がちょっと拗ねたところで、怒るはずなどない。

「小野寺は大丈夫だ。だけど悪いことを言ったと思うならあやまってやれ。」
「許してくれるかな?」
「許すも許さないも、そもそも気にもしていない。」
羽鳥がそう請合うと、吉野はまたテンションを上げて笑顔になった。
まったく忙しいことだと、羽鳥は苦笑するしかない。
それでも最初こそ怒ったものの、吉野も柳瀬を送り出す決心は固まったようだ。
吉野なりに成長しているのだと思うと、羽鳥もくすぐったいような気分になった。

吉野の担当を離れたことに、少しの寂しさはある。
だがやっぱり少し距離を置くことは必要なのだと思う。
羽鳥も柳瀬も、今までは吉野に近すぎた。
離れたことによって、見えることだってあるはずだ。

【続く】
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