プロポーズ10題sideB
【あの子の笑顔】
「あの子って、こんな顔だっけ?」
吉野は写真を見ながら、首を傾げた。
だがいくら考えても「あの子」のことはあまりよく思い出せない。
吉野は自分の仕事机に座りながら、1枚の写真を見ていた。
まさにこの仕事部屋で撮影したもので、吉野とアシスタントたちが写っている。
確かアシスタントの誰かが、新しくデジタルカメラを買ったから試し撮りだと言っていた気がする。
写真の中にいるのは、吉野と柳瀬と3人の女性アシスタント。
そして律から原稿を盗んだあの丸川書店のアルバイトの「あの子」だった。
羽鳥がいないのは、シャッターを押す役目だったからだ。
写真の中では6人が、3人ずつ2列になって座っている。
前列は吉野が真ん中で両側にアシスタントの女性の2人。
後列は柳瀬が真ん中で右側に「あの子」左側には柳瀬のことを好きなアシスタントの希美だ。
こうして見ると柳瀬は、自分に想いを寄せる女性に両側を固められていることになる。
希美は、そして「あの子」は偶然柳瀬の隣に立ったのだろうか?
それともさりげない振りをして、柳瀬の隣を狙ったのだろうか?
確か写真は焼き増しして、全員に1枚ずつ配られたはずだ。
もしかしたら彼女たちは、写真を切り抜いて柳瀬との2ショット写真にして保管していたかもしれない。
それって漫画のネタになるかななどと思いついた吉野は、首を振った。
いくら何でも律があんな目に合った後では、悪趣味すぎる。
ピンポーン、と軽やかな音を立てて、ドアチャイムが鳴った。
約束の時間ピッタリだ。
今日は担当の引継ぎで、羽鳥と律が来ることになっている。
いろいろなことがあったけど、こうして平穏な時間が取り戻せて本当によかったと思う。
吉野はもう1度、写真の中の「あの子」の笑顔を見た。
好きな人の横で笑う「あの子」はごく普通のかわいい女性に見える。
吉野は机の引き出しを開けて写真を放り込むと、ゆっくりと立ち上がった。
今まで頑張ってくれた羽鳥と、これから一緒に仕事をする律。
2人の担当編集者を出迎えるためだ。
*****
「あの、お約束の日は今日なんですが。どうして完成していないんでしょうか?」
吉野の新しい担当編集者が、そう聞いている。
そこには怒りも皮肉も感じられず、本当にわからないという口調だ。
怒るよりもこちらの方が、吉野には利くかも知れない。
柳瀬は吉野と新しい担当編集者、律とのやり取りを聞きながら、こっそりと口元を緩ませた。
「前にお聞きした時には『今日までに間違いなく』とおっしゃっていたと思うんですが。」
律はあくまでも穏やかに吉野に話しかけている。
吉野は真っ直ぐにていねいに問いかけてくる律に、困っているようだ。
柳瀬もアシスタントたちも、吉野と律のやりとりに興味津々だ。
懸命に手を動かしながら、ジッと聞き耳を立てていた。
「ちょっと、いろいろ、行き詰ってしまって」
「具体的にどの辺りでしょうか?」
「ええと、あの、その。。。」
「問題があれば一緒に解決したいんです。もしかして羽鳥さんと比べると相談しにくいですか?」
あくまで生真面目な律に、吉野はタジタジだった。
他のアシスタントたちも唇を噛みしめて、笑い出すのを堪えながら作業をしている。
柳瀬ももう声を上げて笑いたい気持ちを懸命に押さえながら、ペンを動かしていた。
思えば羽鳥と吉野の関係は、漫画家と編集者としては異常だったのだ。
羽鳥にとっては、吉野は「吉川千春」である前に「吉野千秋」だった。
幼なじみでその後に恋人、つまり仕事以外のテイストが強すぎるのだ。
特に羽鳥は吉野の私生活の怠惰な部分を熟知しているから、容赦がなかった。
とにかく文句を言う暇があったらさっさと書けという感じだ。
だが律は吉野を責めるようなことは何も言わない。
最初はそういう作戦なのかと思ったが、そうでもないらしい。
原稿が遅れてしまった一因は自分にもあると受け止めているようだ。
そして吉野の担当として、吉野が仕事をしやすいようなやり方を考えているのだろう。
本当に直球勝負の、真っ直ぐな編集者なのだ。
「本当にすみません!1秒でも早く終わるように頑張りますから。」
ついに律の攻撃(?)に音を上げた吉野が頭を下げた。
「そうですね。まずは終わらせるのが先ですね。俺も手伝います!」
律がそう答えたときには、吉野はあからさまにホッとしたような表情になっていた。
まずは律が主導権を取ったという感じだ。
この2人は案外、いいコンビになるかもしれない。
柳瀬は原稿に向かう吉野と律の真剣な横顔を見比べながら、そう思った。
*****
喜んでいいのか?
羽鳥は複雑な気持ちで、吉野の原稿に目を通していた。
エメラルド編集部に律が戻り、吉野の担当編集を引き継いだ。
羽鳥にとって、やはりそれは感慨深い。
元々少女漫画の編集を志したのだって、吉野の担当になるためだったのだから。
それにあのデット入稿常習者の吉野と生真面目な律がちゃんとやっていけるのか。
結局担当を外れても、羽鳥の悩みの種はもっぱら吉野だった。
「吉川先生の原稿、上がりました!」
律が半ば叩きつける勢いで、羽鳥に原稿を差し出した。
原稿の最終チェックはもう高野ではなく、羽鳥の仕事だ。
だが羽鳥は思わず「何?」と声を上げていた。
もうとっくに締め切りは過ぎている。
でも吉野の原稿にしては早すぎる。
信じられない気持ちで原稿をチェックしたが、特に問題はなかった。
「吉野の担当はどうだ?」
全ての原稿が揃って校了となった後、羽鳥は律を呼び止めてそう聞いた。
今回は吉野にしては早いが、律の担当作家の中では一番遅い。
文句や弱音が出ればフォローしようと思った。
だが律から返ってきた聞かされる言葉は、あくまでも前向きだった。
「何も問題ありません。吉川先生も絶好調です!」
「その割りには、締め切りには遅れているが。」
「それは俺が至らなかったせいですから。」
ニコニコと元気いっぱいの律に、羽鳥は微妙だ。
あれほど手を焼き、校了後にはいつも羽鳥をぐったりさせていた吉野なのに。
「締め切りに遅れがちになる理由を見極めて、解消していこうと思います!」
頼もしい律の表情に、羽鳥は「わかった」と頷いた。
しばらく仕事を離れていた律はきっといろいろ思い悩んで、精神的に成長したのだろう。
それにようやく仕事に戻れた喜びは、入稿の苦しさよりも大きいようだ。
「お疲れ様でした」
「ああ。お疲れ」
羽鳥は頭を下げて帰宅する律を見送りながら、机の引き出しを開けた。
そろそろ編集長席に移るようにと高野に言われており、机を整理しておこうと思ったのだ。
目に留まったのは、いつか吉野の仕事場で撮った写真だ。
吉野と柳瀬、アシスタントの女性たちと、たまたま手伝いを頼んだ彼女が写っている。
階段に糸を張ったり、吉野の原稿を盗んだあの女性だ。
多分もう2度と見ることがない「あの子」の笑顔に、羽鳥は苦い気持ちになった。
「今日は帰ろう」
羽鳥はポツリとそう呟くと、引き出しを閉めた。
嫌な事件だったが、もう過去を振り返るのはやめよう。
律によって吉野の作品が、そして吉野自身がどう進化していくのか。
それを見守るのが羽鳥の役目なのだから。
【続く】
「あの子って、こんな顔だっけ?」
吉野は写真を見ながら、首を傾げた。
だがいくら考えても「あの子」のことはあまりよく思い出せない。
吉野は自分の仕事机に座りながら、1枚の写真を見ていた。
まさにこの仕事部屋で撮影したもので、吉野とアシスタントたちが写っている。
確かアシスタントの誰かが、新しくデジタルカメラを買ったから試し撮りだと言っていた気がする。
写真の中にいるのは、吉野と柳瀬と3人の女性アシスタント。
そして律から原稿を盗んだあの丸川書店のアルバイトの「あの子」だった。
羽鳥がいないのは、シャッターを押す役目だったからだ。
写真の中では6人が、3人ずつ2列になって座っている。
前列は吉野が真ん中で両側にアシスタントの女性の2人。
後列は柳瀬が真ん中で右側に「あの子」左側には柳瀬のことを好きなアシスタントの希美だ。
こうして見ると柳瀬は、自分に想いを寄せる女性に両側を固められていることになる。
希美は、そして「あの子」は偶然柳瀬の隣に立ったのだろうか?
それともさりげない振りをして、柳瀬の隣を狙ったのだろうか?
確か写真は焼き増しして、全員に1枚ずつ配られたはずだ。
もしかしたら彼女たちは、写真を切り抜いて柳瀬との2ショット写真にして保管していたかもしれない。
それって漫画のネタになるかななどと思いついた吉野は、首を振った。
いくら何でも律があんな目に合った後では、悪趣味すぎる。
ピンポーン、と軽やかな音を立てて、ドアチャイムが鳴った。
約束の時間ピッタリだ。
今日は担当の引継ぎで、羽鳥と律が来ることになっている。
いろいろなことがあったけど、こうして平穏な時間が取り戻せて本当によかったと思う。
吉野はもう1度、写真の中の「あの子」の笑顔を見た。
好きな人の横で笑う「あの子」はごく普通のかわいい女性に見える。
吉野は机の引き出しを開けて写真を放り込むと、ゆっくりと立ち上がった。
今まで頑張ってくれた羽鳥と、これから一緒に仕事をする律。
2人の担当編集者を出迎えるためだ。
*****
「あの、お約束の日は今日なんですが。どうして完成していないんでしょうか?」
吉野の新しい担当編集者が、そう聞いている。
そこには怒りも皮肉も感じられず、本当にわからないという口調だ。
怒るよりもこちらの方が、吉野には利くかも知れない。
柳瀬は吉野と新しい担当編集者、律とのやり取りを聞きながら、こっそりと口元を緩ませた。
「前にお聞きした時には『今日までに間違いなく』とおっしゃっていたと思うんですが。」
律はあくまでも穏やかに吉野に話しかけている。
吉野は真っ直ぐにていねいに問いかけてくる律に、困っているようだ。
柳瀬もアシスタントたちも、吉野と律のやりとりに興味津々だ。
懸命に手を動かしながら、ジッと聞き耳を立てていた。
「ちょっと、いろいろ、行き詰ってしまって」
「具体的にどの辺りでしょうか?」
「ええと、あの、その。。。」
「問題があれば一緒に解決したいんです。もしかして羽鳥さんと比べると相談しにくいですか?」
あくまで生真面目な律に、吉野はタジタジだった。
他のアシスタントたちも唇を噛みしめて、笑い出すのを堪えながら作業をしている。
柳瀬ももう声を上げて笑いたい気持ちを懸命に押さえながら、ペンを動かしていた。
思えば羽鳥と吉野の関係は、漫画家と編集者としては異常だったのだ。
羽鳥にとっては、吉野は「吉川千春」である前に「吉野千秋」だった。
幼なじみでその後に恋人、つまり仕事以外のテイストが強すぎるのだ。
特に羽鳥は吉野の私生活の怠惰な部分を熟知しているから、容赦がなかった。
とにかく文句を言う暇があったらさっさと書けという感じだ。
だが律は吉野を責めるようなことは何も言わない。
最初はそういう作戦なのかと思ったが、そうでもないらしい。
原稿が遅れてしまった一因は自分にもあると受け止めているようだ。
そして吉野の担当として、吉野が仕事をしやすいようなやり方を考えているのだろう。
本当に直球勝負の、真っ直ぐな編集者なのだ。
「本当にすみません!1秒でも早く終わるように頑張りますから。」
ついに律の攻撃(?)に音を上げた吉野が頭を下げた。
「そうですね。まずは終わらせるのが先ですね。俺も手伝います!」
律がそう答えたときには、吉野はあからさまにホッとしたような表情になっていた。
まずは律が主導権を取ったという感じだ。
この2人は案外、いいコンビになるかもしれない。
柳瀬は原稿に向かう吉野と律の真剣な横顔を見比べながら、そう思った。
*****
喜んでいいのか?
羽鳥は複雑な気持ちで、吉野の原稿に目を通していた。
エメラルド編集部に律が戻り、吉野の担当編集を引き継いだ。
羽鳥にとって、やはりそれは感慨深い。
元々少女漫画の編集を志したのだって、吉野の担当になるためだったのだから。
それにあのデット入稿常習者の吉野と生真面目な律がちゃんとやっていけるのか。
結局担当を外れても、羽鳥の悩みの種はもっぱら吉野だった。
「吉川先生の原稿、上がりました!」
律が半ば叩きつける勢いで、羽鳥に原稿を差し出した。
原稿の最終チェックはもう高野ではなく、羽鳥の仕事だ。
だが羽鳥は思わず「何?」と声を上げていた。
もうとっくに締め切りは過ぎている。
でも吉野の原稿にしては早すぎる。
信じられない気持ちで原稿をチェックしたが、特に問題はなかった。
「吉野の担当はどうだ?」
全ての原稿が揃って校了となった後、羽鳥は律を呼び止めてそう聞いた。
今回は吉野にしては早いが、律の担当作家の中では一番遅い。
文句や弱音が出ればフォローしようと思った。
だが律から返ってきた聞かされる言葉は、あくまでも前向きだった。
「何も問題ありません。吉川先生も絶好調です!」
「その割りには、締め切りには遅れているが。」
「それは俺が至らなかったせいですから。」
ニコニコと元気いっぱいの律に、羽鳥は微妙だ。
あれほど手を焼き、校了後にはいつも羽鳥をぐったりさせていた吉野なのに。
「締め切りに遅れがちになる理由を見極めて、解消していこうと思います!」
頼もしい律の表情に、羽鳥は「わかった」と頷いた。
しばらく仕事を離れていた律はきっといろいろ思い悩んで、精神的に成長したのだろう。
それにようやく仕事に戻れた喜びは、入稿の苦しさよりも大きいようだ。
「お疲れ様でした」
「ああ。お疲れ」
羽鳥は頭を下げて帰宅する律を見送りながら、机の引き出しを開けた。
そろそろ編集長席に移るようにと高野に言われており、机を整理しておこうと思ったのだ。
目に留まったのは、いつか吉野の仕事場で撮った写真だ。
吉野と柳瀬、アシスタントの女性たちと、たまたま手伝いを頼んだ彼女が写っている。
階段に糸を張ったり、吉野の原稿を盗んだあの女性だ。
多分もう2度と見ることがない「あの子」の笑顔に、羽鳥は苦い気持ちになった。
「今日は帰ろう」
羽鳥はポツリとそう呟くと、引き出しを閉めた。
嫌な事件だったが、もう過去を振り返るのはやめよう。
律によって吉野の作品が、そして吉野自身がどう進化していくのか。
それを見守るのが羽鳥の役目なのだから。
【続く】