プロポーズ10題sideB
【好きなの?】
「君は本当にアイツが好きなの?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
吉野の原稿を小野寺律の鞄ごと盗んだ犯人が判明した。
丸川書店のアルバイト社員で、驚くべきことに女性だった。
羽鳥は彼女を会議室に呼び出して、こうして話をしている。
「小野寺の鞄を盗んだのは、君だね?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
当初、彼女は「何のことかわかりません」とシラを切った。
だが引ったくりを目撃したコンビニ店員に、彼女の履歴書の写真を見せた。
するとその店員は「間違いない」と証言したのだ。
そのことを言うと、彼女の表情は明らかに動揺していた。
彼女を問い詰める役割は、当初は高野が自分でするつもりだったようだ。
後味が悪いことになるのは間違いないから、高野は憎まれ役を自分でやろうとしたのだろう。
だが羽鳥は自分にさせて欲しいと高野に頼んだのだ。
何しろ盗まれたのは、吉野の原稿なのだ。
担当である自分の手で、明らかにしなくてはいけないと思った。
「引ったくりだけじゃない。階段に張った糸も君だな?」
彼女は一瞬羽鳥の顔を見たが、すぐに俯いてしまった。
そして下を向いたままポツリと「わかりません」と小さく答えた。
だがその瞬間、羽鳥は見た。
彼女の瞳は狡猾で、反省も後悔もしていない。
何とかこの場を切り抜けることだけを考えているようだ。
「君は本当にアイツが好きなの?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
彼女は一瞬ビクリと肩を揺らしたが、下を向いたままだった。
あくまでトボけるつもりなら、痛い部分を付くしかない。
「本当に柳瀬が好きなら、どうして堂々と告白することをどうして考えなかった?」
羽鳥はなおもそう聞いた。
またしても答えはなかったが、動揺する彼女の肩が震えている。
それだけで羽鳥には、自分の推測が当たっていたことがわかった。
「残念だが警察に通報する。糸の方はともかく、引ったくりはちゃんと証人がいるからな。」
「そんな」
「会社は免職になるだろう。今後うちの作家やアシスタントたちには近寄れば容赦しない。」
羽鳥はあくまで穏やかな口調で、そう言い切った。
懸命に感情を抑えていた彼女は、ついに泣き出した。
羽鳥はそんな彼女をずっと鋭い目で見据えていた。
もしも恨むなら羽鳥を恨んでもらう。
吉野や柳瀬が、もう余計なトラブルに巻き込まれないようにだ。
そのためには副編集長とか、吉野の担当編集などという中途半端な立場では駄目なのかもしれない。
エメラルドのトップに立ち、全てを守る権力を持つことが必要なのではないか。
羽鳥はわざと挑発的な目で泣きじゃくる女を睨みながら、そう思った。
*****
俺のどこが好きなの?
柳瀬は彼女に聞いてみたいと思う。
だけどもう彼女は塀の中の人だ。
丸川書店で起きた一連の事件は、一気に急展開を見せていた。
柳瀬が事件の日に見かけたあの女性は、引ったくりの犯人として逮捕された。
その後、警察の取り調べで丸川書店の階段に糸を張ったことも認めたらしい。
つまり解決したということなのだろう。
だが柳瀬はちっとも気分が晴れなかった。
彼女は元々エメラルド編集部でバイトをしていた。
羽鳥が忙しい時には吉野のところに原稿を取りに来ることもあり、柳瀬も顔を合わせている。
柳瀬には、うっすらとしか記憶にない。
忙しいのに妙に話しかけてくるので、ちょっとウンザリしたような気がする。
だがエメラルド編集部に小野寺律という新人が入ったことで、彼女はエメラルドから外れた。
次に顔を合わせたのは、伊集院響の仕事場だった。
エメラルドを外れた彼女は、ジャプンの編集補助の仕事に回されたのだ。
このときも忙しいのにどうでもいいような話をされて、迷惑だと思ったような気がする。
だがジャプンにも新しい編集部員が入ったことで、また他部署に移ったそうだ。
だが彼女の顔を見ることがなくなったことにさえ、言われるまで気づかなかった。
羽鳥は「彼女は柳瀬のことを好きだったらしい」と教えてくれた。
だから担当を外され柳瀬に会えなくなったときに、きっかけになった新人編集を逆恨みした。
わざわざ彼らを狙って階段に糸を仕掛けたり、果ては女の身で引ったくりにまで及んだのだ。
そうすれば自分が元の仕事に戻り、また柳瀬に会えるなどと浅はかなことを考えた。
そのエネルギーをもっと別のことに向ければよかったのにと思う。
久しぶりの休日なのに柳瀬は何もする気が起きずに、家でボンヤリしていた。
事件の原因の一端が自分にあったのに、気付けなかったことが悔しい。
とばっちりを受けたあのエメラルドの新人編集には、本当に申し訳ないと思う。
だが何より忌々しいのは、羽鳥の態度だった。
羽鳥は柳瀬のことを心配し「身辺に気をつけろ」とか「引っ越した方がいい」と言う。
今は塀の中の彼女だが、そう遠からず戻ってきた時の心配をしているようだ。
単純に吉野の担当編集として、アシスタントの身辺を気遣っているだけかもしれない。
だが以前の関係からすれば、羽鳥が柳瀬の心配をするなど絶対にありえないことだ。
羽鳥にとって、もう柳瀬との諍いは過去のことなのだ。
もう吉野が柳瀬になびくことがないと、絶対の自信を持っているのか。
とにかく今までの羽鳥にはない強さのようなものを感じるのだ。
今までは対等な立場だったのに、いつの間にか羽鳥の方が数段上にいるような感じがする。
俺のどこが好きなの?
柳瀬は彼女に聞いてみたいと思う。
今の柳瀬が羽鳥以上に誰か惹きつけるとしたら、それは何だろう?
だがそれを聞いたところで、きっと気分は晴れない。
柳瀬が本当に好きな人は、別の人間と幸せな時間を過ごしているのだから。
*****
「条件があるんだけど」
吉野はもったいぶったようにそう切り出した。
「そうだよ、これこれ!」
吉野は久しぶりに自分が描いた表紙の原稿を手にしていた。
引ったくり犯が逮捕されて、律の鞄と一緒に戻ってきたものだ。
何だかひどく懐かしいような気がする。
吉野の仕事場に原稿を持って現れたのは、羽鳥だった。
幸いなことに盗まれた表紙の原稿には、季節感はさほどない。
つまり今からでも掲載可能だ。
羽鳥は吉野に原稿の確認と掲載の了承を取りに来たのだった。
「小野寺さんの持ち物も、無事に戻ったんでしょ?」
「ほとんどな。財布の中の現金は使われてしまったようだが。」
彼女は盗んだ律の鞄を、ほとんど手付かずの状態で持っていた。
どうやらほとぼりが冷めた頃に、拾ったとか何とか言って届け出るつもりだったようだ。
そうすることでエメ編や吉野、引いては柳瀬と接点を持てるかもしれないと考えたらしい。
「で、どうなんだ?これを再来月の表紙で使ってもかまわないだろう?」
羽鳥は念を押すように、そう聞いた。
流石に来月発売号の表紙はもう別の作家のものに決まっている。
この原稿は、その次の雑誌の表紙にするつもりのようだ。
元々掲載するために書いたものだし、まさか吉野が反対するなどとは夢にも思っていないだろう。
「条件があるんだけど」
だが吉野はもったいぶったようにそう切り出した。
よもやの条件に、羽鳥はポカンとした表情になった。
そんな羽鳥を見て、吉野は少しだけ愉快な気分になった。
この男のこんな表情は恋人といえどもめったに見られないからだ。
「俺の担当、変えて。」
「何?」
「だ、か、ら。俺の担当を変えてくれ。それが表紙を掲載する条件。」
羽鳥は呆然と吉野の顔を見ている。
吉野はますます楽しい気分だった。
羽鳥との会話で主導権がとれるなんて、そうそうないのだ。
「俺、トリが俺の担当を続けながら編集長になれないかって思った。でも頑張ったけど無理みたい。」
「吉野」
「だからトリ、俺の担当から外れて、編集長になってくれよ。」
「大丈夫か?」
「大丈夫って言いたいけど、ちょっと寂しい。だけど俺たちが別れるわけじゃないだろ?」
最初は本当に驚いていた羽鳥も、吉野の話を聞いて納得したようだ。
吉野は笑顔で「あ、あともう1つ。条件が」と付け加えた。
羽鳥は顔をしかめながら「何だ?」と聞き返す。
「俺の新しい担当に、小野寺さんを指名したいんだけど。」
「吉野」
「それが掲載の条件ね。」
これも吉野が考えた末の答えだった。
原稿を紛失したことで、辞表を提出した真面目で頑固な律のことだ。
おそらく原稿が戻ったから、辞表も撤回するというすんなりとした展開にはならないだろう。
だが作家の指名なら、しかもそれが原稿掲載の条件なら、律だって考えざるを得ないはずだ。
「お前にしては、考えたな?」
羽鳥が悪戯っぽい笑顔でそう言った。
その言葉は吉野にとっては少々心外だ。
あまりモノを考えない俺の方が好きなの?と聞いてやろうかと思ったが、それはやめておく。
せっかく珍しく優位に立てたのだから、余計なことは言わないでおくのがいいだろう。
【続く】
「君は本当にアイツが好きなの?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
吉野の原稿を小野寺律の鞄ごと盗んだ犯人が判明した。
丸川書店のアルバイト社員で、驚くべきことに女性だった。
羽鳥は彼女を会議室に呼び出して、こうして話をしている。
「小野寺の鞄を盗んだのは、君だね?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
当初、彼女は「何のことかわかりません」とシラを切った。
だが引ったくりを目撃したコンビニ店員に、彼女の履歴書の写真を見せた。
するとその店員は「間違いない」と証言したのだ。
そのことを言うと、彼女の表情は明らかに動揺していた。
彼女を問い詰める役割は、当初は高野が自分でするつもりだったようだ。
後味が悪いことになるのは間違いないから、高野は憎まれ役を自分でやろうとしたのだろう。
だが羽鳥は自分にさせて欲しいと高野に頼んだのだ。
何しろ盗まれたのは、吉野の原稿なのだ。
担当である自分の手で、明らかにしなくてはいけないと思った。
「引ったくりだけじゃない。階段に張った糸も君だな?」
彼女は一瞬羽鳥の顔を見たが、すぐに俯いてしまった。
そして下を向いたままポツリと「わかりません」と小さく答えた。
だがその瞬間、羽鳥は見た。
彼女の瞳は狡猾で、反省も後悔もしていない。
何とかこの場を切り抜けることだけを考えているようだ。
「君は本当にアイツが好きなの?」
羽鳥は静かにそう聞いた。
彼女は一瞬ビクリと肩を揺らしたが、下を向いたままだった。
あくまでトボけるつもりなら、痛い部分を付くしかない。
「本当に柳瀬が好きなら、どうして堂々と告白することをどうして考えなかった?」
羽鳥はなおもそう聞いた。
またしても答えはなかったが、動揺する彼女の肩が震えている。
それだけで羽鳥には、自分の推測が当たっていたことがわかった。
「残念だが警察に通報する。糸の方はともかく、引ったくりはちゃんと証人がいるからな。」
「そんな」
「会社は免職になるだろう。今後うちの作家やアシスタントたちには近寄れば容赦しない。」
羽鳥はあくまで穏やかな口調で、そう言い切った。
懸命に感情を抑えていた彼女は、ついに泣き出した。
羽鳥はそんな彼女をずっと鋭い目で見据えていた。
もしも恨むなら羽鳥を恨んでもらう。
吉野や柳瀬が、もう余計なトラブルに巻き込まれないようにだ。
そのためには副編集長とか、吉野の担当編集などという中途半端な立場では駄目なのかもしれない。
エメラルドのトップに立ち、全てを守る権力を持つことが必要なのではないか。
羽鳥はわざと挑発的な目で泣きじゃくる女を睨みながら、そう思った。
*****
俺のどこが好きなの?
柳瀬は彼女に聞いてみたいと思う。
だけどもう彼女は塀の中の人だ。
丸川書店で起きた一連の事件は、一気に急展開を見せていた。
柳瀬が事件の日に見かけたあの女性は、引ったくりの犯人として逮捕された。
その後、警察の取り調べで丸川書店の階段に糸を張ったことも認めたらしい。
つまり解決したということなのだろう。
だが柳瀬はちっとも気分が晴れなかった。
彼女は元々エメラルド編集部でバイトをしていた。
羽鳥が忙しい時には吉野のところに原稿を取りに来ることもあり、柳瀬も顔を合わせている。
柳瀬には、うっすらとしか記憶にない。
忙しいのに妙に話しかけてくるので、ちょっとウンザリしたような気がする。
だがエメラルド編集部に小野寺律という新人が入ったことで、彼女はエメラルドから外れた。
次に顔を合わせたのは、伊集院響の仕事場だった。
エメラルドを外れた彼女は、ジャプンの編集補助の仕事に回されたのだ。
このときも忙しいのにどうでもいいような話をされて、迷惑だと思ったような気がする。
だがジャプンにも新しい編集部員が入ったことで、また他部署に移ったそうだ。
だが彼女の顔を見ることがなくなったことにさえ、言われるまで気づかなかった。
羽鳥は「彼女は柳瀬のことを好きだったらしい」と教えてくれた。
だから担当を外され柳瀬に会えなくなったときに、きっかけになった新人編集を逆恨みした。
わざわざ彼らを狙って階段に糸を仕掛けたり、果ては女の身で引ったくりにまで及んだのだ。
そうすれば自分が元の仕事に戻り、また柳瀬に会えるなどと浅はかなことを考えた。
そのエネルギーをもっと別のことに向ければよかったのにと思う。
久しぶりの休日なのに柳瀬は何もする気が起きずに、家でボンヤリしていた。
事件の原因の一端が自分にあったのに、気付けなかったことが悔しい。
とばっちりを受けたあのエメラルドの新人編集には、本当に申し訳ないと思う。
だが何より忌々しいのは、羽鳥の態度だった。
羽鳥は柳瀬のことを心配し「身辺に気をつけろ」とか「引っ越した方がいい」と言う。
今は塀の中の彼女だが、そう遠からず戻ってきた時の心配をしているようだ。
単純に吉野の担当編集として、アシスタントの身辺を気遣っているだけかもしれない。
だが以前の関係からすれば、羽鳥が柳瀬の心配をするなど絶対にありえないことだ。
羽鳥にとって、もう柳瀬との諍いは過去のことなのだ。
もう吉野が柳瀬になびくことがないと、絶対の自信を持っているのか。
とにかく今までの羽鳥にはない強さのようなものを感じるのだ。
今までは対等な立場だったのに、いつの間にか羽鳥の方が数段上にいるような感じがする。
俺のどこが好きなの?
柳瀬は彼女に聞いてみたいと思う。
今の柳瀬が羽鳥以上に誰か惹きつけるとしたら、それは何だろう?
だがそれを聞いたところで、きっと気分は晴れない。
柳瀬が本当に好きな人は、別の人間と幸せな時間を過ごしているのだから。
*****
「条件があるんだけど」
吉野はもったいぶったようにそう切り出した。
「そうだよ、これこれ!」
吉野は久しぶりに自分が描いた表紙の原稿を手にしていた。
引ったくり犯が逮捕されて、律の鞄と一緒に戻ってきたものだ。
何だかひどく懐かしいような気がする。
吉野の仕事場に原稿を持って現れたのは、羽鳥だった。
幸いなことに盗まれた表紙の原稿には、季節感はさほどない。
つまり今からでも掲載可能だ。
羽鳥は吉野に原稿の確認と掲載の了承を取りに来たのだった。
「小野寺さんの持ち物も、無事に戻ったんでしょ?」
「ほとんどな。財布の中の現金は使われてしまったようだが。」
彼女は盗んだ律の鞄を、ほとんど手付かずの状態で持っていた。
どうやらほとぼりが冷めた頃に、拾ったとか何とか言って届け出るつもりだったようだ。
そうすることでエメ編や吉野、引いては柳瀬と接点を持てるかもしれないと考えたらしい。
「で、どうなんだ?これを再来月の表紙で使ってもかまわないだろう?」
羽鳥は念を押すように、そう聞いた。
流石に来月発売号の表紙はもう別の作家のものに決まっている。
この原稿は、その次の雑誌の表紙にするつもりのようだ。
元々掲載するために書いたものだし、まさか吉野が反対するなどとは夢にも思っていないだろう。
「条件があるんだけど」
だが吉野はもったいぶったようにそう切り出した。
よもやの条件に、羽鳥はポカンとした表情になった。
そんな羽鳥を見て、吉野は少しだけ愉快な気分になった。
この男のこんな表情は恋人といえどもめったに見られないからだ。
「俺の担当、変えて。」
「何?」
「だ、か、ら。俺の担当を変えてくれ。それが表紙を掲載する条件。」
羽鳥は呆然と吉野の顔を見ている。
吉野はますます楽しい気分だった。
羽鳥との会話で主導権がとれるなんて、そうそうないのだ。
「俺、トリが俺の担当を続けながら編集長になれないかって思った。でも頑張ったけど無理みたい。」
「吉野」
「だからトリ、俺の担当から外れて、編集長になってくれよ。」
「大丈夫か?」
「大丈夫って言いたいけど、ちょっと寂しい。だけど俺たちが別れるわけじゃないだろ?」
最初は本当に驚いていた羽鳥も、吉野の話を聞いて納得したようだ。
吉野は笑顔で「あ、あともう1つ。条件が」と付け加えた。
羽鳥は顔をしかめながら「何だ?」と聞き返す。
「俺の新しい担当に、小野寺さんを指名したいんだけど。」
「吉野」
「それが掲載の条件ね。」
これも吉野が考えた末の答えだった。
原稿を紛失したことで、辞表を提出した真面目で頑固な律のことだ。
おそらく原稿が戻ったから、辞表も撤回するというすんなりとした展開にはならないだろう。
だが作家の指名なら、しかもそれが原稿掲載の条件なら、律だって考えざるを得ないはずだ。
「お前にしては、考えたな?」
羽鳥が悪戯っぽい笑顔でそう言った。
その言葉は吉野にとっては少々心外だ。
あまりモノを考えない俺の方が好きなの?と聞いてやろうかと思ったが、それはやめておく。
せっかく珍しく優位に立てたのだから、余計なことは言わないでおくのがいいだろう。
【続く】