プロポーズ10題sideB
【義理の息子】
病室のドアが勢いよくノックされた。
羽鳥が答える間もなく勢いよくドアが開き、見慣れた2人の女性が顔を覗かせる。
羽鳥は慌てて座っていたパイプ椅子から立ち上がり、彼女たちを迎え入れた。
吉野は寝不足と過労のために倒れた。
場所は家の近所のコンビニの前で、発見したのはそこでバイトをしている小野寺律だ。
倒れたことはともかく、律がすぐ近くにいたのは不幸中の幸いだろう。
吉野は救急車で病院に搬送され、すぐに律から羽鳥に知らせが来た。
羽鳥は驚き、やりかけの仕事も中断して、病院に向かった。
今までに吉野は何度か倒れたことがある。
吉野は職業柄というべきか、ひ弱なくせに不摂生なのだ。
だが点滴をして、医師から「よく休んでください」などと言われるだけだった。
入院まで言い渡されたのは、今回が初めてのことだ。
ここまで重症だと、さすがに吉野の実家に知らせないわけにはいかない。
羽鳥は吉野の母親に連絡をし、母と妹が駆けつけてきた。
「本当に申し訳ありません。」
吉野の病室で、羽鳥は深々と頭を下げた。
相手はもちろん、吉野の母と妹だ。
吉野本人はまだ眠っており、羽鳥の声など聞こえていない。
「俺がついていながら、こんなことに」
「芳雪くんのせいじゃないわよ。お兄ちゃんはもう立派な大人なんだから」
羽鳥の言葉を遮ったのは、吉野の妹、千夏だった。
しばらく見ない間にまた女らしくなった千夏が、羽鳥を見ながら笑顔でそう言った。
「そうよ。本当に。千秋は芳雪くんに甘やかされすぎなんだから。」
今度は吉野の母、頼子が快活にそう言った。
頼子も千夏も羽鳥が気に病んでいる様子を見て、元気付けてくれているのだろう。
だがそれとは別に、羽鳥は千夏と頼子の言葉に動揺していた。
確かに吉野はもう立派な大人だ。
しかも世間的には、羽鳥の何倍も稼ぐ人気作家なのだ。
その吉野を羽鳥が必要以上に甘やかしているのも事実だった。
羽鳥が編集長と吉野の担当、2つをこなすことは無理だ。
だから吉野の担当でいることを選んだ。
だけどそれは羽鳥の自己満足だったのではないだろうか。
なぜならそのことで吉野は苦しんでいるからだ。
こんな風に倒れるまで、無茶苦茶な仕事をしたのはそのせいだ。
編集長と吉野の担当、どちらを選ぶべきかは2人で納得するまで話すべきではなかったか。
吉野を対等な大人として見ていなかったから、こんなことになったのではないか。
「芳雪くん、あまり思いつめないでね。」
黙り込んでしまった羽鳥を気遣うように、頼子がそう言ってくれる。
まだ2人には羽鳥と吉野の関係を話していないが、羽鳥は勝手に頼子の義理の息子のつもりでいる。
だからこそ吉野とはちゃんと話をしなくてはいけない。
もう2度とこんな風に入院させるようなことだけは、絶対にさせない。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
羽鳥は力強く礼を言うと、もう1度頭を下げた。
頼子が「でも芳雪くん、これからも千秋をよろしくね。」と申し訳なさそうに言った。
羽鳥は笑顔で「はい」と答えると、未だに眠っている吉野の横顔を見つめていた。
*****
柳瀬は地団駄を踏みたい気分だった。
あれほど不審な人物に会ったのに、どうしてつながっていると思わなかったのか。
柳瀬は丸川書店の会議室に呼び出されていた。
どういう用件なのかは、まったく見当もつかない。
丸川書店に来るのは、もちろん初めてではない。
吉野がデット入稿の時、たまに会議室に缶詰にされることがあり、柳瀬も手伝った。
その場合はほとんど呼び出すのは吉野、ごく稀に羽鳥だ。
だが今回柳瀬を呼んだのは、エメラルド編集長の高野だった。
そもそも今はまだ入稿の時期ではない。
「お呼び立てして、申し訳ありません。」
ほぼ時間通りに指定された会議室に入った柳瀬は、さらに驚いた。
待っていたのは高野だけでなく、ジャプン編集長の桐嶋もいたからだ。
確かにどちらの雑誌の仕事をしたこともあり、2人とも面識はある。
だが全然違う2つの雑誌の編集長と同時に話すのは初めてであり、用件など想像もつかない。
まさか知らないうちに何かやらかしていて、出入り禁止にでもなるのか。
「どうぞ、座ってください。」
高野に勧められるままに椅子に座ると、缶コーヒーが差し出された。
柳瀬は「どうも」と短く礼を言うと、缶コーヒーを受け取る。
こんなものが出されるということは、自分の不手際というわけではなさそうだ。
柳瀬はホッとしながら、2人の編集長と向かい合うことになった。
「実はお聞きしたいことがありまして。」
本題を切り出したのは、桐嶋だった。
内容は丸川書店の階段に仕掛けられた糸のこと、そして引ったくり事件のこと。
いずれもエメラルド編集部の小野寺律が、被害にあったことは知っている。
だがもう1件、ジャプンの編集者が犠牲になりかけた未遂事件があるのは知らなかった。
「それで唯一の共通点が、俺ですか。」
柳瀬はようやく自分が呼ばれた理由を知った。
律が引ったくり事件に遭ったのは吉野のマンションからの帰り道。
ジャプンの編集者に階段の糸が仕掛けられたのは、伊集院の仕事場に向かおうとしていた。
共通するのはアシスタントの自分だったということだ。
「ちなみに引ったくり犯人は背の高い女性だったらしいです。」
高野が思い出したようにそう付け加える。
これは律が最近知った情報だった。
それを聞かされた柳瀬は小さく「あ!」と声を上げた。
高野が「何か心当たりでも?」と聞き返してくる。
桐嶋も高野も笑顔のままだが、無意識のうちに柳瀬の方へ身を乗り出していた。
「小野寺さんが引ったくりに遭った日、吉野の家のそばで女の人に声をかけられました。」
柳瀬は懸命に思い出したことを整理しながら、話した。
女は柳瀬を知っているようだったが、柳瀬には覚えがなかった。
だが女は「吉川先生、いえ吉野さんによろしくお伝えください。」と言った。
吉野のことを知っている女が不気味で、感じ悪かったことを覚えている。
だがその後、引ったくりや羽鳥の編集長になるならないの話で、吉野は動揺していた。
その吉野のことに気を取られていたせいで、すっかり忘れていた。
「時間は?」
「確か昼過ぎです。ちょうど俺と小野寺さんが入れ違いだったって聞きました。」
高野の問いに答えながら、柳瀬は地団駄を踏みたい気分だった。
引ったくりと聞かされて、無意識に犯人は男だと思い込んでいた。
同じ日にあれほど不審な人物に会ったのに、どうしてつながっていると思わなかったのか。
「その人、丸川の人です。吉野の部屋にも伊集院先生の仕事場にも来たことがあります。」
柳瀬はきっぱりとそう断言した。
今はもうあの女性をはっきりと思い出した。
確か最初はエメラルド編集部でアルバイトをしていたと思う。
エメラルドに新人編集-律が入ったことで、ジャプンに異動になったと聞いた気がする。
「名前は確か。。。」
柳瀬は苗字しか知らない彼女の名前を告げた。
桐嶋と高野が驚いた表情で、顔を見合わせていた。
*****
入院した吉野は退屈していた。
大した病気ではないし、入院も短いので、親兄弟と羽鳥にしか知らせていないのだ。
母と妹は入院した初日には来てくれたが、今日は来ない。
羽鳥もどうしても片付けなくてはいけない仕事があるからと、会社に行ってしまった。
念のための検査も含めて3日程の入院が、退屈で仕方がない。
「優にも知らせればよかったかな?」
吉野はポツリとそう呟いたものの、ブンブンと首を振った。
知らせれば来てくれるかもしれないが、柳瀬だってあちこちのアシスタントを掛け持ちしている身だ。
せめて仕事以外では無理をさせたくなかった。
「また皆に迷惑かけたよなぁ」
独り言が病室に大きく響いた。
吉野の病室は個室なので、病室内は本当に静まり返っている。
個室じゃない方がよかったかなとも思ったが、文句を言う筋合いでもない。
吉野はぶっ倒れて寝ていたわけで、手続きは羽鳥がしてくれたのだから。
起きていても退屈なだけだし、不貞寝してしまおう。
そう思って布団に潜り、目を閉じた瞬間、コンコンと控えめにドアを叩く音がした。
だが吉野の返事を待っているらしく、中に入ってくる様子がない。
誰だろう?
吉野の母や妹なら、もっと豪快にドンドンと叩くだろう。
羽鳥または医師か看護師なら、返事など待たずに入ってくると思う。
吉野は恐る恐る「どうぞ」と声をかける。
そっと顔をのぞかせたのは、羽鳥の母親だった。
「大丈夫?千秋くん。過労ですって?」
「いえ、その、わざわざ、すみません!」
「いいのよ。診察のついでだから。」
慌てて身体を起こしながら、そう言えば、と吉野は思い至る。
羽鳥の母親はどちらかといえば身体が弱いので、定期的に通院していたはずだ。
おそらくはこの病院なのだろう。
そして診察を終えた後、ここに寄ってくれたのだ。
多分羽鳥が吉野の退屈を思って、寄るように言ってくれたのだろう。
「短い入院だそうだから、お花はやめたわ。」
その言葉とともに差し出されたのは、洋菓子店の包装紙に包まれた箱だ。
おそらくはクッキーか何かの焼き菓子だろう。
吉野は「ありがとうございます」と礼を言った。
「仕事は大変なの?」
「ええ、まぁ。」
「芳雪はちゃんと千秋くんの役に立ってる?」
「はい。っていうか、俺が世話になりっぱなしで。」
羽鳥の母親との時間は、静かに穏やかに過ぎていった。
吉野の母と違って、ひっきりなしに喋るということはない。
どちらかといえば、黙っている時間の方が長いくらいだ。
だが決して気まずい沈黙ではなく、気楽で心地よいものだ。
この人の義理の息子。
密かにそう思うだけで嬉しい気分になるのは、彼女の人柄だろう。
「芳雪にもっと何でもぶつけていいのよ。倒れるまで溜め込んじゃだめ。」
羽鳥の母は最後にそう言って、病室を出て行った。
そうだ。溜め込んでも倒れてしまっては元も子もない。
吉野は再び1人になった病室で、これからの自分と羽鳥のことを考えた。
【続く】
病室のドアが勢いよくノックされた。
羽鳥が答える間もなく勢いよくドアが開き、見慣れた2人の女性が顔を覗かせる。
羽鳥は慌てて座っていたパイプ椅子から立ち上がり、彼女たちを迎え入れた。
吉野は寝不足と過労のために倒れた。
場所は家の近所のコンビニの前で、発見したのはそこでバイトをしている小野寺律だ。
倒れたことはともかく、律がすぐ近くにいたのは不幸中の幸いだろう。
吉野は救急車で病院に搬送され、すぐに律から羽鳥に知らせが来た。
羽鳥は驚き、やりかけの仕事も中断して、病院に向かった。
今までに吉野は何度か倒れたことがある。
吉野は職業柄というべきか、ひ弱なくせに不摂生なのだ。
だが点滴をして、医師から「よく休んでください」などと言われるだけだった。
入院まで言い渡されたのは、今回が初めてのことだ。
ここまで重症だと、さすがに吉野の実家に知らせないわけにはいかない。
羽鳥は吉野の母親に連絡をし、母と妹が駆けつけてきた。
「本当に申し訳ありません。」
吉野の病室で、羽鳥は深々と頭を下げた。
相手はもちろん、吉野の母と妹だ。
吉野本人はまだ眠っており、羽鳥の声など聞こえていない。
「俺がついていながら、こんなことに」
「芳雪くんのせいじゃないわよ。お兄ちゃんはもう立派な大人なんだから」
羽鳥の言葉を遮ったのは、吉野の妹、千夏だった。
しばらく見ない間にまた女らしくなった千夏が、羽鳥を見ながら笑顔でそう言った。
「そうよ。本当に。千秋は芳雪くんに甘やかされすぎなんだから。」
今度は吉野の母、頼子が快活にそう言った。
頼子も千夏も羽鳥が気に病んでいる様子を見て、元気付けてくれているのだろう。
だがそれとは別に、羽鳥は千夏と頼子の言葉に動揺していた。
確かに吉野はもう立派な大人だ。
しかも世間的には、羽鳥の何倍も稼ぐ人気作家なのだ。
その吉野を羽鳥が必要以上に甘やかしているのも事実だった。
羽鳥が編集長と吉野の担当、2つをこなすことは無理だ。
だから吉野の担当でいることを選んだ。
だけどそれは羽鳥の自己満足だったのではないだろうか。
なぜならそのことで吉野は苦しんでいるからだ。
こんな風に倒れるまで、無茶苦茶な仕事をしたのはそのせいだ。
編集長と吉野の担当、どちらを選ぶべきかは2人で納得するまで話すべきではなかったか。
吉野を対等な大人として見ていなかったから、こんなことになったのではないか。
「芳雪くん、あまり思いつめないでね。」
黙り込んでしまった羽鳥を気遣うように、頼子がそう言ってくれる。
まだ2人には羽鳥と吉野の関係を話していないが、羽鳥は勝手に頼子の義理の息子のつもりでいる。
だからこそ吉野とはちゃんと話をしなくてはいけない。
もう2度とこんな風に入院させるようなことだけは、絶対にさせない。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
羽鳥は力強く礼を言うと、もう1度頭を下げた。
頼子が「でも芳雪くん、これからも千秋をよろしくね。」と申し訳なさそうに言った。
羽鳥は笑顔で「はい」と答えると、未だに眠っている吉野の横顔を見つめていた。
*****
柳瀬は地団駄を踏みたい気分だった。
あれほど不審な人物に会ったのに、どうしてつながっていると思わなかったのか。
柳瀬は丸川書店の会議室に呼び出されていた。
どういう用件なのかは、まったく見当もつかない。
丸川書店に来るのは、もちろん初めてではない。
吉野がデット入稿の時、たまに会議室に缶詰にされることがあり、柳瀬も手伝った。
その場合はほとんど呼び出すのは吉野、ごく稀に羽鳥だ。
だが今回柳瀬を呼んだのは、エメラルド編集長の高野だった。
そもそも今はまだ入稿の時期ではない。
「お呼び立てして、申し訳ありません。」
ほぼ時間通りに指定された会議室に入った柳瀬は、さらに驚いた。
待っていたのは高野だけでなく、ジャプン編集長の桐嶋もいたからだ。
確かにどちらの雑誌の仕事をしたこともあり、2人とも面識はある。
だが全然違う2つの雑誌の編集長と同時に話すのは初めてであり、用件など想像もつかない。
まさか知らないうちに何かやらかしていて、出入り禁止にでもなるのか。
「どうぞ、座ってください。」
高野に勧められるままに椅子に座ると、缶コーヒーが差し出された。
柳瀬は「どうも」と短く礼を言うと、缶コーヒーを受け取る。
こんなものが出されるということは、自分の不手際というわけではなさそうだ。
柳瀬はホッとしながら、2人の編集長と向かい合うことになった。
「実はお聞きしたいことがありまして。」
本題を切り出したのは、桐嶋だった。
内容は丸川書店の階段に仕掛けられた糸のこと、そして引ったくり事件のこと。
いずれもエメラルド編集部の小野寺律が、被害にあったことは知っている。
だがもう1件、ジャプンの編集者が犠牲になりかけた未遂事件があるのは知らなかった。
「それで唯一の共通点が、俺ですか。」
柳瀬はようやく自分が呼ばれた理由を知った。
律が引ったくり事件に遭ったのは吉野のマンションからの帰り道。
ジャプンの編集者に階段の糸が仕掛けられたのは、伊集院の仕事場に向かおうとしていた。
共通するのはアシスタントの自分だったということだ。
「ちなみに引ったくり犯人は背の高い女性だったらしいです。」
高野が思い出したようにそう付け加える。
これは律が最近知った情報だった。
それを聞かされた柳瀬は小さく「あ!」と声を上げた。
高野が「何か心当たりでも?」と聞き返してくる。
桐嶋も高野も笑顔のままだが、無意識のうちに柳瀬の方へ身を乗り出していた。
「小野寺さんが引ったくりに遭った日、吉野の家のそばで女の人に声をかけられました。」
柳瀬は懸命に思い出したことを整理しながら、話した。
女は柳瀬を知っているようだったが、柳瀬には覚えがなかった。
だが女は「吉川先生、いえ吉野さんによろしくお伝えください。」と言った。
吉野のことを知っている女が不気味で、感じ悪かったことを覚えている。
だがその後、引ったくりや羽鳥の編集長になるならないの話で、吉野は動揺していた。
その吉野のことに気を取られていたせいで、すっかり忘れていた。
「時間は?」
「確か昼過ぎです。ちょうど俺と小野寺さんが入れ違いだったって聞きました。」
高野の問いに答えながら、柳瀬は地団駄を踏みたい気分だった。
引ったくりと聞かされて、無意識に犯人は男だと思い込んでいた。
同じ日にあれほど不審な人物に会ったのに、どうしてつながっていると思わなかったのか。
「その人、丸川の人です。吉野の部屋にも伊集院先生の仕事場にも来たことがあります。」
柳瀬はきっぱりとそう断言した。
今はもうあの女性をはっきりと思い出した。
確か最初はエメラルド編集部でアルバイトをしていたと思う。
エメラルドに新人編集-律が入ったことで、ジャプンに異動になったと聞いた気がする。
「名前は確か。。。」
柳瀬は苗字しか知らない彼女の名前を告げた。
桐嶋と高野が驚いた表情で、顔を見合わせていた。
*****
入院した吉野は退屈していた。
大した病気ではないし、入院も短いので、親兄弟と羽鳥にしか知らせていないのだ。
母と妹は入院した初日には来てくれたが、今日は来ない。
羽鳥もどうしても片付けなくてはいけない仕事があるからと、会社に行ってしまった。
念のための検査も含めて3日程の入院が、退屈で仕方がない。
「優にも知らせればよかったかな?」
吉野はポツリとそう呟いたものの、ブンブンと首を振った。
知らせれば来てくれるかもしれないが、柳瀬だってあちこちのアシスタントを掛け持ちしている身だ。
せめて仕事以外では無理をさせたくなかった。
「また皆に迷惑かけたよなぁ」
独り言が病室に大きく響いた。
吉野の病室は個室なので、病室内は本当に静まり返っている。
個室じゃない方がよかったかなとも思ったが、文句を言う筋合いでもない。
吉野はぶっ倒れて寝ていたわけで、手続きは羽鳥がしてくれたのだから。
起きていても退屈なだけだし、不貞寝してしまおう。
そう思って布団に潜り、目を閉じた瞬間、コンコンと控えめにドアを叩く音がした。
だが吉野の返事を待っているらしく、中に入ってくる様子がない。
誰だろう?
吉野の母や妹なら、もっと豪快にドンドンと叩くだろう。
羽鳥または医師か看護師なら、返事など待たずに入ってくると思う。
吉野は恐る恐る「どうぞ」と声をかける。
そっと顔をのぞかせたのは、羽鳥の母親だった。
「大丈夫?千秋くん。過労ですって?」
「いえ、その、わざわざ、すみません!」
「いいのよ。診察のついでだから。」
慌てて身体を起こしながら、そう言えば、と吉野は思い至る。
羽鳥の母親はどちらかといえば身体が弱いので、定期的に通院していたはずだ。
おそらくはこの病院なのだろう。
そして診察を終えた後、ここに寄ってくれたのだ。
多分羽鳥が吉野の退屈を思って、寄るように言ってくれたのだろう。
「短い入院だそうだから、お花はやめたわ。」
その言葉とともに差し出されたのは、洋菓子店の包装紙に包まれた箱だ。
おそらくはクッキーか何かの焼き菓子だろう。
吉野は「ありがとうございます」と礼を言った。
「仕事は大変なの?」
「ええ、まぁ。」
「芳雪はちゃんと千秋くんの役に立ってる?」
「はい。っていうか、俺が世話になりっぱなしで。」
羽鳥の母親との時間は、静かに穏やかに過ぎていった。
吉野の母と違って、ひっきりなしに喋るということはない。
どちらかといえば、黙っている時間の方が長いくらいだ。
だが決して気まずい沈黙ではなく、気楽で心地よいものだ。
この人の義理の息子。
密かにそう思うだけで嬉しい気分になるのは、彼女の人柄だろう。
「芳雪にもっと何でもぶつけていいのよ。倒れるまで溜め込んじゃだめ。」
羽鳥の母は最後にそう言って、病室を出て行った。
そうだ。溜め込んでも倒れてしまっては元も子もない。
吉野は再び1人になった病室で、これからの自分と羽鳥のことを考えた。
【続く】