プロポーズ10題sideB
【諦めないね…】
「諦めないね…」
柳瀬はからかうような口調でそう言った。
表情には呆れの色が浮かんでいる。
だが吉野は気付かず、ウンウン唸りながら原稿に鉛筆を走らせていた。
吉野は自宅で机に向かって、仕事をしていた。
プロットは羽鳥からOKが出て、今はネームを作っている。
スケジュール的に見れば、今までにない順調なスピードだった。
だが内容が悪すぎる。
とにかく急ぐあまり、作業が雑になっていた。
じっくり練ることをせずに、思いついたことをすぐに羽鳥に見せる。
そしてすぐにダメ出しされて、またやり直し。
作業効率が悪いこと、この上なかった。
柳瀬にはその理由がわかっていた。
羽鳥を編集長にして、かつ吉野の担当でい続けてもらうために吉野が出した結論。
それは自分が締め切り厳守の作家になることだった。
だから今までの仕事のスタイルから一転して、プロットの段階から駆け足で仕事をしているのだ。
「お前がやる気になると、ロクなことないな。」
柳瀬はネーム原稿を前にしてブツブツと喋っている吉野を見て、ポツリと呟いた。
予想通り、やはりこの言葉も聞こえていないようだ。
吉野の試みは、残念ながら成功していない。
いくらスケジュール通りでも、思いつきの案をポンポン出されれば、羽鳥の手間は倍増だ。
柳瀬はやはり吉野のことは好きで、もし2人の間に何かがあればいつでも割り込んでやる気はある。
だがこういう吉野を見ると、恋人にならなくて正解なのではないかと思ってしまう。
まったくやることなすこと不器用で、真剣になればなるほど周りの人間をヤキモキさせる。
羽鳥本人に決して言うつもりはないが、時々羽鳥に深く同情してしまったりするのだ。
「焦って変なのを描いても、羽鳥の仕事を増やすだけだぞ。」
見かねた柳瀬は、ついに大きく声を張ってそう言った。
さすがに今回は吉野にも聞こえたようだ。
吉野は不機嫌そうに顔を上げると「わかってるよ!」と口を尖らせる。
子供のような仕草がかわいく見えるのだから、もうお手上げだ。
ああ、まったく諦めが悪すぎる。吉野も、自分も。
柳瀬は心の底からそう思いながら、再びネームと格闘を始めた吉野の横顔を見ていた。
*****
「その2人には1つ、共通点があります。」
羽鳥は思い切って、口を開いた。
とんでもない的外れかもしれないが、とりあえず気づいたことは言っておいた方がいいと思った。
羽鳥は高野と共に呼び出されて、会議室にいた。
呼び出したのは丸川書店の専務取締役である井坂龍一郎だ。
ちなみに「ジャプン」の編集長である桐嶋禅も呼ばれている。
井坂は2つの雑誌の編集長に用があったのだろう。
だが「エメラルド」は、高野がもうすぐ異動するし、後任はまだ決まっていない。
だからとりあえず羽鳥も同席することになったのだ。
「階段に糸が仕掛けられた件ですが」
挨拶も早々に話を切り出したのは、井坂の秘書の朝比奈薫だ。
つまり会議室には、総勢5名が顔を揃えていた。
2つの雑誌では、共通したとある「事件」が起きている。
編集者が作家の仕事場に向かう時間帯に、階段に糸が張られていたのだ。
節電のためなるべく階段を使うように、という会社の指示を嘲笑うかのようだ。
「エメラルド」では、小野寺律がそれに引っかかって怪我をした。
「ジャプン」では、幸い担当者が社を出る前に桐嶋が糸を発見して、事なきを得ている。
「警察に届けるかどうか迷ってるんだ。だがとにかく今は情報を得ておきたい。」
井坂はいつになく真剣な口調で、そう言った。
社内に入れるのは基本的に社員だけで、それ以外の人間は受付で名前をチェックされる。
つまり社内の階段に仕掛けられた糸は、社員が仕掛けた可能性が極めて高い。
井坂が警察に届けることに二の足を踏むのは、そういう理由だった。
「同一犯と考えるのが、自然ですね」
「最初は小野寺個人かうちの雑誌を恨んでいる人間と思いましたが、2件目を考えると違うようです。」
最初に桐嶋が口を開き、次に高野が発言した。
確かにそこまではすぐにわかるが、何かを狙ったものなのか無作為なのかはわからない。
「被害にあった編集者と仕事をしていた作家さんはどなたですか?」
朝比奈が桐嶋と高野の顔を交互に見ると、ふと思いついたようにそう聞いた。
高野は「吉川千春先生です」と、桐嶋が「伊集院先生です」と答えた。
正確にはジャプンの編集者は未遂だし、律は怪我をしたので原稿を取りに行くことになったのだが。
「その2人は面識もないよなぁ。同じ漫画でもジャンルが違いすぎるし、共通性がない。」
井坂が大きくため息をつき、桐嶋も高野も頷く。
だが羽鳥には1つ思い当たることがあった。
「その2人には1つ、共通点があります。」
羽鳥は思い切って、口を開いた。
とんでもない的外れかもしれないが、とりあえず気づいたことは言っておいた方がいいと思った。
高野が「何だ?」と身を乗り出し、他の者たちもじっと羽鳥を凝視している。
「どちらもアシスタントに、柳瀬優を使っています。」
羽鳥は静かにそう答えた。
柳瀬は相変わらず吉野のアシスタントを最優先だが、次に優先しているのは伊集院の仕事だ。
井坂が不機嫌そうに眉をひそめ、高野と桐嶋は顔を見合わせた。
*****
「諦めないね…」
コンビニの前を通りかかった吉野は、店内のレジで接客をしている律を見て呟いた。
律は未だに吉野の原稿を取り返すべく、こうしてアルバイトに励んでいる。
ようやくネーム原稿のOKが出た吉野は、買い物に出た。
といっても、差しあたって必要なものがあるわけではない。
食べ物などは、羽鳥と柳瀬がいろいろ差し入れてくれる。
ずっと部屋に引きこもりがちだったので、気分転換が主な目的だった。
今回いつもよりも急いで原稿を進めたことで、周りを振り回してしまった自覚はある。
焦ったせいでなかなか良い原稿に仕上がらず、羽鳥には何度もチェックをさせた。
柳瀬も心配して、暇さえあれば吉野の様子を見に来てくれていた。
信頼する2人に迷惑をかけていることが申し訳なかった。
それに吉野自身が異様に疲れていた。
早く描かなくてはと気ばかり焦って、作業はなかなか進まない。
必然的に睡眠時間が減り、ようやくベットに入っても今度は逆に目が冴えて眠れない。
今だって、こうして歩いているだけで身体がフラついているような気がする。
「小野寺さんは頑張っているのになぁ。。。」
吉野はテキパキとレジの中で働く律を見て、また呟いた。
もちろん慣れない仕事をする律は、吉野よりはるかに大変だと思う。
しかも確実に引ったくり犯が見つかり、吉野の原稿が戻る保証はないのに。
「どうして俺ってダメダメなんだろう。。。」
吉野は肩を落として、ため息をつく。
締め切りを守る、という作家として当たり前のことに四苦八苦している。
羽鳥を自分の担当のまま、編集長にしたい。
それは律がやろうとしていることに比べたら、全然簡単なことなのに。
吉野は気分が晴れないままに、歩き出した。
買い物はコンビニで済ませることもできたが、吉野が顔を出せば律が気を使うだろう。
だが数歩ほど歩いたところで、軽い眩暈を感じて立ち止まる。
次の瞬間、目の前の風景がグニャリと歪み、膝から力が抜けた。
まずいと思った瞬間には、もう頬にアスファルトの感触を感じていた。
「吉野さんっ!」
吉野はぼんやりとバタバタと慌しい足音と自分の名を呼ぶ声を聞いた。
そしてコンビニの制服姿の律が駆け寄ってくる姿が見える。
ああ、また迷惑をかけてる。
わかっていても意識が遠のき、吉野はもう目を開けていることができなかった。
【続く】
「諦めないね…」
柳瀬はからかうような口調でそう言った。
表情には呆れの色が浮かんでいる。
だが吉野は気付かず、ウンウン唸りながら原稿に鉛筆を走らせていた。
吉野は自宅で机に向かって、仕事をしていた。
プロットは羽鳥からOKが出て、今はネームを作っている。
スケジュール的に見れば、今までにない順調なスピードだった。
だが内容が悪すぎる。
とにかく急ぐあまり、作業が雑になっていた。
じっくり練ることをせずに、思いついたことをすぐに羽鳥に見せる。
そしてすぐにダメ出しされて、またやり直し。
作業効率が悪いこと、この上なかった。
柳瀬にはその理由がわかっていた。
羽鳥を編集長にして、かつ吉野の担当でい続けてもらうために吉野が出した結論。
それは自分が締め切り厳守の作家になることだった。
だから今までの仕事のスタイルから一転して、プロットの段階から駆け足で仕事をしているのだ。
「お前がやる気になると、ロクなことないな。」
柳瀬はネーム原稿を前にしてブツブツと喋っている吉野を見て、ポツリと呟いた。
予想通り、やはりこの言葉も聞こえていないようだ。
吉野の試みは、残念ながら成功していない。
いくらスケジュール通りでも、思いつきの案をポンポン出されれば、羽鳥の手間は倍増だ。
柳瀬はやはり吉野のことは好きで、もし2人の間に何かがあればいつでも割り込んでやる気はある。
だがこういう吉野を見ると、恋人にならなくて正解なのではないかと思ってしまう。
まったくやることなすこと不器用で、真剣になればなるほど周りの人間をヤキモキさせる。
羽鳥本人に決して言うつもりはないが、時々羽鳥に深く同情してしまったりするのだ。
「焦って変なのを描いても、羽鳥の仕事を増やすだけだぞ。」
見かねた柳瀬は、ついに大きく声を張ってそう言った。
さすがに今回は吉野にも聞こえたようだ。
吉野は不機嫌そうに顔を上げると「わかってるよ!」と口を尖らせる。
子供のような仕草がかわいく見えるのだから、もうお手上げだ。
ああ、まったく諦めが悪すぎる。吉野も、自分も。
柳瀬は心の底からそう思いながら、再びネームと格闘を始めた吉野の横顔を見ていた。
*****
「その2人には1つ、共通点があります。」
羽鳥は思い切って、口を開いた。
とんでもない的外れかもしれないが、とりあえず気づいたことは言っておいた方がいいと思った。
羽鳥は高野と共に呼び出されて、会議室にいた。
呼び出したのは丸川書店の専務取締役である井坂龍一郎だ。
ちなみに「ジャプン」の編集長である桐嶋禅も呼ばれている。
井坂は2つの雑誌の編集長に用があったのだろう。
だが「エメラルド」は、高野がもうすぐ異動するし、後任はまだ決まっていない。
だからとりあえず羽鳥も同席することになったのだ。
「階段に糸が仕掛けられた件ですが」
挨拶も早々に話を切り出したのは、井坂の秘書の朝比奈薫だ。
つまり会議室には、総勢5名が顔を揃えていた。
2つの雑誌では、共通したとある「事件」が起きている。
編集者が作家の仕事場に向かう時間帯に、階段に糸が張られていたのだ。
節電のためなるべく階段を使うように、という会社の指示を嘲笑うかのようだ。
「エメラルド」では、小野寺律がそれに引っかかって怪我をした。
「ジャプン」では、幸い担当者が社を出る前に桐嶋が糸を発見して、事なきを得ている。
「警察に届けるかどうか迷ってるんだ。だがとにかく今は情報を得ておきたい。」
井坂はいつになく真剣な口調で、そう言った。
社内に入れるのは基本的に社員だけで、それ以外の人間は受付で名前をチェックされる。
つまり社内の階段に仕掛けられた糸は、社員が仕掛けた可能性が極めて高い。
井坂が警察に届けることに二の足を踏むのは、そういう理由だった。
「同一犯と考えるのが、自然ですね」
「最初は小野寺個人かうちの雑誌を恨んでいる人間と思いましたが、2件目を考えると違うようです。」
最初に桐嶋が口を開き、次に高野が発言した。
確かにそこまではすぐにわかるが、何かを狙ったものなのか無作為なのかはわからない。
「被害にあった編集者と仕事をしていた作家さんはどなたですか?」
朝比奈が桐嶋と高野の顔を交互に見ると、ふと思いついたようにそう聞いた。
高野は「吉川千春先生です」と、桐嶋が「伊集院先生です」と答えた。
正確にはジャプンの編集者は未遂だし、律は怪我をしたので原稿を取りに行くことになったのだが。
「その2人は面識もないよなぁ。同じ漫画でもジャンルが違いすぎるし、共通性がない。」
井坂が大きくため息をつき、桐嶋も高野も頷く。
だが羽鳥には1つ思い当たることがあった。
「その2人には1つ、共通点があります。」
羽鳥は思い切って、口を開いた。
とんでもない的外れかもしれないが、とりあえず気づいたことは言っておいた方がいいと思った。
高野が「何だ?」と身を乗り出し、他の者たちもじっと羽鳥を凝視している。
「どちらもアシスタントに、柳瀬優を使っています。」
羽鳥は静かにそう答えた。
柳瀬は相変わらず吉野のアシスタントを最優先だが、次に優先しているのは伊集院の仕事だ。
井坂が不機嫌そうに眉をひそめ、高野と桐嶋は顔を見合わせた。
*****
「諦めないね…」
コンビニの前を通りかかった吉野は、店内のレジで接客をしている律を見て呟いた。
律は未だに吉野の原稿を取り返すべく、こうしてアルバイトに励んでいる。
ようやくネーム原稿のOKが出た吉野は、買い物に出た。
といっても、差しあたって必要なものがあるわけではない。
食べ物などは、羽鳥と柳瀬がいろいろ差し入れてくれる。
ずっと部屋に引きこもりがちだったので、気分転換が主な目的だった。
今回いつもよりも急いで原稿を進めたことで、周りを振り回してしまった自覚はある。
焦ったせいでなかなか良い原稿に仕上がらず、羽鳥には何度もチェックをさせた。
柳瀬も心配して、暇さえあれば吉野の様子を見に来てくれていた。
信頼する2人に迷惑をかけていることが申し訳なかった。
それに吉野自身が異様に疲れていた。
早く描かなくてはと気ばかり焦って、作業はなかなか進まない。
必然的に睡眠時間が減り、ようやくベットに入っても今度は逆に目が冴えて眠れない。
今だって、こうして歩いているだけで身体がフラついているような気がする。
「小野寺さんは頑張っているのになぁ。。。」
吉野はテキパキとレジの中で働く律を見て、また呟いた。
もちろん慣れない仕事をする律は、吉野よりはるかに大変だと思う。
しかも確実に引ったくり犯が見つかり、吉野の原稿が戻る保証はないのに。
「どうして俺ってダメダメなんだろう。。。」
吉野は肩を落として、ため息をつく。
締め切りを守る、という作家として当たり前のことに四苦八苦している。
羽鳥を自分の担当のまま、編集長にしたい。
それは律がやろうとしていることに比べたら、全然簡単なことなのに。
吉野は気分が晴れないままに、歩き出した。
買い物はコンビニで済ませることもできたが、吉野が顔を出せば律が気を使うだろう。
だが数歩ほど歩いたところで、軽い眩暈を感じて立ち止まる。
次の瞬間、目の前の風景がグニャリと歪み、膝から力が抜けた。
まずいと思った瞬間には、もう頬にアスファルトの感触を感じていた。
「吉野さんっ!」
吉野はぼんやりとバタバタと慌しい足音と自分の名を呼ぶ声を聞いた。
そしてコンビニの制服姿の律が駆け寄ってくる姿が見える。
ああ、また迷惑をかけてる。
わかっていても意識が遠のき、吉野はもう目を開けていることができなかった。
【続く】