…したい10題

【喜ばせたい】

喜ばせたいと思ったのに、怖がらせてしまった。
少しでも力になりたかったのに、なんと迂闊だったのだろう。

木佐翔太は編集部の中でただ1人、あの惨劇を目の当たりにしていた。
流れる血、倒れている律、血まみれのナイフ、荒れ狂う犯人の男。
男は木佐が「律っちゃん」と呼んだことで、人違いに気付いた。
そのことに愕然とした男は、憎悪に満ちた目で木佐を睨みつけた。

木佐は事件の後、救急病院に搬送される律に付き添った。
だがその後は編集部に戻り、仕事を続けている。
表面的には今までと変わることなく、淡々とこなしていた。
だがその心のうちは、未だ動揺が治まっていない。

例えば自分の机の引き出しを開けたときに、ふと目に入るカッターナイフとか。
編集部に並べられているファンシーな小物の中に、血のように赤い色を見つけたりとか。
ふとした瞬間に事件を思い出す。
そして心の底から震え上がり、金縛りにあったように動けなくなってしまう。

こんな感じで、どうにも仕事に集中できなかった。
今のところまだ大きなミスこそしていないが、細かいミスを繰り返している。
本来ならこんな状態であるなら、高野なり羽鳥なりが注意するだろう。
だが幸か不幸か、今は高野も羽鳥も同じ事件のことで動揺しており、それどころではなかった。

*****

「木佐さん、おかえりなさい!」
木佐が自宅マンションに戻ると、明るい声が響いた。
声の主は、押しかけ女房よろしく木佐の部屋に住み着いてしまった恋人。
今日もキラキラオーラ満載の雪名皇だ。
雪名はキッチンに立ち、夕食の支度をしている最中だった。

「ただいま」
事件のことで、雪名には心配をかけたくない。
木佐は精一杯明るい声で、そう答えた。
だが次の瞬間、笑顔は凍りついた。
料理中の雪名の手には、包丁が握られていたからだ。
木佐は息を飲み、カバンを取り落とした。

「木佐さん、大丈夫ですか?」
雪名は包丁を置き、さっと手を洗うと、木佐に駆け寄った。
そしてその場に座り込んでしまいそうな木佐の両肩を掴む。
「ゴメン、大丈夫。俺、疲れてるみたいだ。。。」
真っ直ぐに見下ろす雪名から、木佐は目を逸らす。
だが小刻みに震える身体と真っ青な顔色を、雪名は見逃さなかった。

「木佐さん、つらいこと全部、話してくれませんか?」
雪名は木佐の身体を引き寄せ、抱き締めながら言った。
雪名は、あの事件の詳細を知らない。
作家と間違われた編集者がナイフで刺された。
せいぜいその程度だ。
だがその事件以来、木佐の様子がおかしいことは気になっていた。

*****

「本当は、俺が刺されるはずだったんだ。」
木佐は雪名に身体を預けながら、ボソリと呟いた。
あの時、コンビニに行くと最初に言ったのは木佐だった。
でもあの時は風邪気味で、吉川千春の手伝いをしながら何度も咳き込んだ。
それを気遣った律が出かけて、あの事件にあったのだ。

「あと少し刺された所がずれていたら死んでいたかもって。ひょっとしたら俺が。」
ちょっと間違えば、自分が刺し殺されていた。
その事実が木佐を怯えさせていた。
まだまだやりたいことがあるのに。
いい作品を作りたい。雪名と一緒に生きていきたい。

「そんなの木佐さんのせいじゃないですよ。悪いのは刺したヤツだけです。」
雪名は少しでも木佐の不安が少なくなることを祈りながら、言った。
木佐が抱え込んでしまった恐怖を初めて知らされて、雪名は後悔していた。

事件のせいでふさぎこんでいるとしか思っていなかった。
だからちょっと豪華な夕食を作って元気付けようと思ったのに。
何気なく目に入った包丁で、事件を思い出させてしまったのだ。
喜ばせたいと思ったのに、怖がらせてしまった。
少しでも力になりたかったのに、なんと迂闊だったのだろう。

「木佐さんが生きててよかったです。」
雪名は木佐を抱きしめる腕に力を込めた。
木佐の震えが止まるまで、腕を緩めるつもりはない。
好きな人のすべてを受け止め、守りたい。
雪名は心からそう願った。

【続く】
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