プロポーズ10題sideB
【大事な】
「大事な原稿をなくしてしまって、本当に申し訳ありませんでした!」
律は吉野の仕事部屋に通されるなり、いきなり床に正座して深々と頭を下げた。
生まれて初めて目の前で見る土下座に、吉野は一瞬呆然としてしまう。
だがすぐに「そんな!やめて下さい!」と叫んでいた。
今月も無事に締め切りを終えた吉野は、のんびりと過ごしていた。
ただでさえ筆が遅いのに、通常原稿の他に表紙を2度も描くという技をやってのけたのだ。
もう完全に燃え尽きたという感じで、何をする気も起きない状態だった。
そんな吉野の部屋にやって来たのは、月刊エメラルドの編集長の高野政宗と編集部員の小野寺律だ。
1度は描き上げた吉野の原稿を紛失した件について、謝罪に来たのだった。
吉野としては終わってしまったことであり、わざわざ家まで来ての謝罪など申し訳ない。
緊張してしまうし、それならダラダラとしていたかった。
だが羽鳥から事前にどうしても詫びたいと言っているからと念押しされてしまった。
そこで仕方なくこうして「謝罪訪問」を受けている。
「小野寺、吉川先生が困ってるだろ。さっさと立て。」
土下座というショッキングな光景にも、編集長の高野は冷静だった。
さっさと律の腕を掴んで立たせると、今度は2人で直立のまま深々と頭を下げる。
吉野はただただ困惑しながら「本当にもう気にしないで下さい」と答えた。
「悪いのは小野寺さんじゃなくて、引ったくり犯でしょ?俺は怒ってませんから。」
「そう言っていただけると、助かります。」
高野はそう言って微かに笑ったが、律は硬い表情のままだ。
どうにも重い空気に、吉野はいたたまれない気もちになった。
「これから気をつけてくださいね。原稿はともかく、編集部の皆さんが怪我とかしたら大変ですし。」
「あの、俺はもう、今日で退職しますので。」
場を少しでも明るくしたくて切り出した言葉に、律は予想外の答えを返してきた。
吉野は思わず「え?」と声を上げてしまった。
「まさか原稿を失くしたから、クビとか。。。」
「自主退社です。でも自分なりにケジメをつけなくてはいけませんので。」
律は静かに、だがきっぱりとそう言い切った。
吉野はあまりのことに混乱してしまう。
確かに原稿を失くすのは大変なことだが、この場合はあくまで不慮の出来事だ。
何よりも当の吉野が気にしていないのだし、何も会社を辞めることなどないと思う。
「俺は吉川先生と話がある。お前は先に帰れ。」
吉野が言うべき言葉が見つからずにいるうちに、高野が律にそう言った。
律はもう1度吉野に向かって「今までありがとうございました」と頭を下げる。
そして吉野が口を開く前に、律はさっさと出て行ってしまった。
「高野さん。俺は別に怒っていないし、こんな形で小野寺さんが辞めるなんて嫌です!」
高野と2人きりになった吉野は、抗議した。
こんなことであの真面目で一生懸命な若い編集者がいなくなるなんて、あんまりだと思う。
「そのことも含めて、お話があります。」
高野は詰め寄る吉野に対して、そう言った。
態度はあくまでも冷静だが、いつにない迫力がある。
いつも思うのだが、高野が自分より年下であるというのが信じられない。
この人が大人なのか、自分が子供っぽすぎるのか。
「どうぞ。座ってください。」
とにかく話を聞くことにした吉野は高野に椅子を勧めると、キッチンに向かった。
どうやら長い話になりそうだし、飲み物を用意した方がいいだろう。
*****
「編集長よりも吉川千春の担当。それが俺にとっては一番大事なことだ。」
羽鳥はきっぱりとそう答えると、真っ直ぐに吉野を見た。
高野と律が謝罪に訪れた日の夜、羽鳥は吉野宅を訪れた。
仕事の一環として訪問した高野たちと違い、完全に私的な訪問。
このところオーバーワーク気味だった吉野の食事を作るためだ。
「吉野、食事まだだろ?」
羽鳥が声をかけても、吉野はベットにゴロリと横たわったまま動かない。
吉野はひどく機嫌が悪そうだったが、それは羽鳥の想定内だ。
昼間高野と一緒に現れた律は、吉野に退社の挨拶をしたと聞いている。
吉野としてはさぞかし後味の悪いことだろう。
「とりあえず食事の支度するからな」
「トリ、何で黙ってたの?」
部屋を出て行こうとする羽鳥の背中に、吉野が問いかけてくる。
羽鳥は食事で吉野の機嫌を取るつもりだったが、どうやらそうもいかないらしい。
「小野寺の件は高野さんから聞いただろ?」
羽鳥は小さな子供に諭すように、そう言った。
高野は律の辞表を受け取り、律自身はこれで丸川書店を退社したつもりでいるだろう。
だがあくまで高野が預かるという形であり、律は高野の権限で休職扱いとなる。
高野がそんなことをするのは、律を襲った2つのアクシデントが不自然だからだ。
階段からの落下、そして引ったくり。
短い期間にそんなことにトラブルに巻き込まれるのは不自然だ。
それにいずれも業務中のことであるのも気になる。
もしかして律個人ではなく、エメラルド編集部を狙った何かなのかもしれない。
それを調査するため、律の辞表は高野のところで止まっているのだった。
「小野寺さんのことじゃないよ。トリのことだ!」
「俺が何だ?」
「どうして編集長にならないんだよ!」
「そのことか」
どうやら高野は律のことと一緒に、自分の異動も話したようだ。
次の編集長はまだ決まっていないが、吉野は羽鳥がすんなり後任にならないことに怒っているらしい。
「高野さんは何て言っていた?」
「希望者は申し出るように言ったけど、トリは希望しなかったって!」
「それが全てだ。」
「やっぱりそれって俺のせいか?この間担当を外れるとか言ってたのはそのせい?」
高野はその答えに気付いているだろうが、吉野には言わなかったのだろう。
羽鳥だってそれだけは言わないつもりだったが、どうやら誤魔化しはきかないようだ。
「そうだ。編集長よりも吉川千春の担当。それが俺にとっては一番大事なことだ。」
羽鳥はきっぱりとそう答えると、真っ直ぐに吉野を見た。
*****
「俺だって、千秋が一番大事なんだけど」
柳瀬はポツリと一言、そう呟いた。
高野と律、そして夜には羽鳥が吉野宅を訪れた翌日の昼。
今度は柳瀬が吉野の部屋に来ていた。
柳瀬もまた羽鳥同様、前回の吉野のオーバーワークを心配してのことだ。
「で、千秋としてはどうしたいわけ?」
柳瀬は少々白けた気持ちで、持参したサンドイッチを食べながら聞いた。
まったく馬鹿馬鹿しい。
夕食は羽鳥が用意するだろうから、わざわざ昼食を作ってきたのに。
聞かされるのは羽鳥の話ばかり、柳瀬にはノロケにしか聞こえない。
「トリに編集長になって欲しいけど、俺の担当も続けて欲しい。。。」
「千秋が締め切りを守ればいいだけだろ?」
「それができれば、とっくにやってるよ!」
「俺に怒るなよ。」
イライラしながら、サンドイッチを齧った吉野は「美味い!」と笑顔になった。
まったく怒ったり笑ったり、忙しいことだ。
どうして漫画家って締め切りを守らないんだろう、と柳瀬はいつも思っている。
それでいて最終的なデット入稿のラインを決められれば、それには間に合わせてくる。
つまり当初の締め切りを守らなくても、まだ大丈夫なことを知っているから破るのだ。
裏を返せば、当初の締め切りを最終のデットラインと思えば間に合うのではないだろうか。
「よく考えるんだな。羽鳥だって本当は編集長やりたいんじゃないかって思うし。」
「だよね。。。」
迷う吉野に、柳瀬は少しだけ後ろめたい気分になった。
柳瀬の本音は、羽鳥が吉野の担当を外れて欲しいと思っている。
もちろん今さら羽鳥と吉野の仲をどうこうできるとは考えていないが、一緒にいるのは見たくない。
「それより千秋も気をつけろよ。」
「え?何が?」
「小野寺さんだっけ?立て続けにトラブルに巻き込まれてるんだろ?」
「あ~、高野さんも気をつけてって言ってたなぁ。。。」
かなり大事なことを言ったつもりなのに、サンドイッチを平らげた吉野は眠くなってきたらしい。
目をトロンとさせながらすっかり上の空の吉野に、柳瀬はため息をつく。
いいかげん吉野には、自分がいかに無防備で危なっかしいか自覚して欲しいものだ。
一応有名人なのだから、それだけで狙われる危険があるのだ。
そもそも自分に気がある男と2人きりで、居眠りをするなど問題外だ。
「俺だって、千秋が一番大事なんだけど」
柳瀬はウトウトと舟を漕ぎ始めた吉野にポツリと一言、そう呟いた。
【続く】
「大事な原稿をなくしてしまって、本当に申し訳ありませんでした!」
律は吉野の仕事部屋に通されるなり、いきなり床に正座して深々と頭を下げた。
生まれて初めて目の前で見る土下座に、吉野は一瞬呆然としてしまう。
だがすぐに「そんな!やめて下さい!」と叫んでいた。
今月も無事に締め切りを終えた吉野は、のんびりと過ごしていた。
ただでさえ筆が遅いのに、通常原稿の他に表紙を2度も描くという技をやってのけたのだ。
もう完全に燃え尽きたという感じで、何をする気も起きない状態だった。
そんな吉野の部屋にやって来たのは、月刊エメラルドの編集長の高野政宗と編集部員の小野寺律だ。
1度は描き上げた吉野の原稿を紛失した件について、謝罪に来たのだった。
吉野としては終わってしまったことであり、わざわざ家まで来ての謝罪など申し訳ない。
緊張してしまうし、それならダラダラとしていたかった。
だが羽鳥から事前にどうしても詫びたいと言っているからと念押しされてしまった。
そこで仕方なくこうして「謝罪訪問」を受けている。
「小野寺、吉川先生が困ってるだろ。さっさと立て。」
土下座というショッキングな光景にも、編集長の高野は冷静だった。
さっさと律の腕を掴んで立たせると、今度は2人で直立のまま深々と頭を下げる。
吉野はただただ困惑しながら「本当にもう気にしないで下さい」と答えた。
「悪いのは小野寺さんじゃなくて、引ったくり犯でしょ?俺は怒ってませんから。」
「そう言っていただけると、助かります。」
高野はそう言って微かに笑ったが、律は硬い表情のままだ。
どうにも重い空気に、吉野はいたたまれない気もちになった。
「これから気をつけてくださいね。原稿はともかく、編集部の皆さんが怪我とかしたら大変ですし。」
「あの、俺はもう、今日で退職しますので。」
場を少しでも明るくしたくて切り出した言葉に、律は予想外の答えを返してきた。
吉野は思わず「え?」と声を上げてしまった。
「まさか原稿を失くしたから、クビとか。。。」
「自主退社です。でも自分なりにケジメをつけなくてはいけませんので。」
律は静かに、だがきっぱりとそう言い切った。
吉野はあまりのことに混乱してしまう。
確かに原稿を失くすのは大変なことだが、この場合はあくまで不慮の出来事だ。
何よりも当の吉野が気にしていないのだし、何も会社を辞めることなどないと思う。
「俺は吉川先生と話がある。お前は先に帰れ。」
吉野が言うべき言葉が見つからずにいるうちに、高野が律にそう言った。
律はもう1度吉野に向かって「今までありがとうございました」と頭を下げる。
そして吉野が口を開く前に、律はさっさと出て行ってしまった。
「高野さん。俺は別に怒っていないし、こんな形で小野寺さんが辞めるなんて嫌です!」
高野と2人きりになった吉野は、抗議した。
こんなことであの真面目で一生懸命な若い編集者がいなくなるなんて、あんまりだと思う。
「そのことも含めて、お話があります。」
高野は詰め寄る吉野に対して、そう言った。
態度はあくまでも冷静だが、いつにない迫力がある。
いつも思うのだが、高野が自分より年下であるというのが信じられない。
この人が大人なのか、自分が子供っぽすぎるのか。
「どうぞ。座ってください。」
とにかく話を聞くことにした吉野は高野に椅子を勧めると、キッチンに向かった。
どうやら長い話になりそうだし、飲み物を用意した方がいいだろう。
*****
「編集長よりも吉川千春の担当。それが俺にとっては一番大事なことだ。」
羽鳥はきっぱりとそう答えると、真っ直ぐに吉野を見た。
高野と律が謝罪に訪れた日の夜、羽鳥は吉野宅を訪れた。
仕事の一環として訪問した高野たちと違い、完全に私的な訪問。
このところオーバーワーク気味だった吉野の食事を作るためだ。
「吉野、食事まだだろ?」
羽鳥が声をかけても、吉野はベットにゴロリと横たわったまま動かない。
吉野はひどく機嫌が悪そうだったが、それは羽鳥の想定内だ。
昼間高野と一緒に現れた律は、吉野に退社の挨拶をしたと聞いている。
吉野としてはさぞかし後味の悪いことだろう。
「とりあえず食事の支度するからな」
「トリ、何で黙ってたの?」
部屋を出て行こうとする羽鳥の背中に、吉野が問いかけてくる。
羽鳥は食事で吉野の機嫌を取るつもりだったが、どうやらそうもいかないらしい。
「小野寺の件は高野さんから聞いただろ?」
羽鳥は小さな子供に諭すように、そう言った。
高野は律の辞表を受け取り、律自身はこれで丸川書店を退社したつもりでいるだろう。
だがあくまで高野が預かるという形であり、律は高野の権限で休職扱いとなる。
高野がそんなことをするのは、律を襲った2つのアクシデントが不自然だからだ。
階段からの落下、そして引ったくり。
短い期間にそんなことにトラブルに巻き込まれるのは不自然だ。
それにいずれも業務中のことであるのも気になる。
もしかして律個人ではなく、エメラルド編集部を狙った何かなのかもしれない。
それを調査するため、律の辞表は高野のところで止まっているのだった。
「小野寺さんのことじゃないよ。トリのことだ!」
「俺が何だ?」
「どうして編集長にならないんだよ!」
「そのことか」
どうやら高野は律のことと一緒に、自分の異動も話したようだ。
次の編集長はまだ決まっていないが、吉野は羽鳥がすんなり後任にならないことに怒っているらしい。
「高野さんは何て言っていた?」
「希望者は申し出るように言ったけど、トリは希望しなかったって!」
「それが全てだ。」
「やっぱりそれって俺のせいか?この間担当を外れるとか言ってたのはそのせい?」
高野はその答えに気付いているだろうが、吉野には言わなかったのだろう。
羽鳥だってそれだけは言わないつもりだったが、どうやら誤魔化しはきかないようだ。
「そうだ。編集長よりも吉川千春の担当。それが俺にとっては一番大事なことだ。」
羽鳥はきっぱりとそう答えると、真っ直ぐに吉野を見た。
*****
「俺だって、千秋が一番大事なんだけど」
柳瀬はポツリと一言、そう呟いた。
高野と律、そして夜には羽鳥が吉野宅を訪れた翌日の昼。
今度は柳瀬が吉野の部屋に来ていた。
柳瀬もまた羽鳥同様、前回の吉野のオーバーワークを心配してのことだ。
「で、千秋としてはどうしたいわけ?」
柳瀬は少々白けた気持ちで、持参したサンドイッチを食べながら聞いた。
まったく馬鹿馬鹿しい。
夕食は羽鳥が用意するだろうから、わざわざ昼食を作ってきたのに。
聞かされるのは羽鳥の話ばかり、柳瀬にはノロケにしか聞こえない。
「トリに編集長になって欲しいけど、俺の担当も続けて欲しい。。。」
「千秋が締め切りを守ればいいだけだろ?」
「それができれば、とっくにやってるよ!」
「俺に怒るなよ。」
イライラしながら、サンドイッチを齧った吉野は「美味い!」と笑顔になった。
まったく怒ったり笑ったり、忙しいことだ。
どうして漫画家って締め切りを守らないんだろう、と柳瀬はいつも思っている。
それでいて最終的なデット入稿のラインを決められれば、それには間に合わせてくる。
つまり当初の締め切りを守らなくても、まだ大丈夫なことを知っているから破るのだ。
裏を返せば、当初の締め切りを最終のデットラインと思えば間に合うのではないだろうか。
「よく考えるんだな。羽鳥だって本当は編集長やりたいんじゃないかって思うし。」
「だよね。。。」
迷う吉野に、柳瀬は少しだけ後ろめたい気分になった。
柳瀬の本音は、羽鳥が吉野の担当を外れて欲しいと思っている。
もちろん今さら羽鳥と吉野の仲をどうこうできるとは考えていないが、一緒にいるのは見たくない。
「それより千秋も気をつけろよ。」
「え?何が?」
「小野寺さんだっけ?立て続けにトラブルに巻き込まれてるんだろ?」
「あ~、高野さんも気をつけてって言ってたなぁ。。。」
かなり大事なことを言ったつもりなのに、サンドイッチを平らげた吉野は眠くなってきたらしい。
目をトロンとさせながらすっかり上の空の吉野に、柳瀬はため息をつく。
いいかげん吉野には、自分がいかに無防備で危なっかしいか自覚して欲しいものだ。
一応有名人なのだから、それだけで狙われる危険があるのだ。
そもそも自分に気がある男と2人きりで、居眠りをするなど問題外だ。
「俺だって、千秋が一番大事なんだけど」
柳瀬はウトウトと舟を漕ぎ始めた吉野にポツリと一言、そう呟いた。
【続く】