プロポーズ10題sideB

【認めない】

「そんなのお前らの都合だろ?俺は認めない!」
柳瀬は声を張り上げて、羽鳥に詰め寄る。
だが当の羽鳥はあくまで冷静で、表情を変えなかった。

そろそろ締め切りに向けて忙しくなり始めた吉野の部屋では、アシスタントたちもフル稼働だ。
そこへ何の事前の予告もなく、羽鳥が現れた。
柳瀬は懸命に手を動かしながら、何となく嫌な気分だった。
単に羽鳥が好きではないということだけではない。
忙しくなりかけているとはいえ、まだ編集者が来るほど切迫した時期ではない。
そんな時期に羽鳥が来るのは、何か不測の事態が発生したということではないか。

「本当にすまない。吉野。表紙をまた描いて欲しいんだ。」
「え?2ヶ月連続?」
「違う。次回掲載分ををもう1回頼みたい。」
羽鳥が身体を90度折り曲げて、頭を下げた。
机の上の原稿に目を落とし、手を動かしながら羽鳥の話を聞いていた吉野のペンが止まる。
柳瀬たちアシスタントの手もつられるように止まった。

「この前の表紙の原稿を紛失した。」
「ええ!?なくしたの?」
「正確に言うと、引ったくりに鞄ごと盗まれたんだ。」
「それって。。。」
吉野は呆然とした表情のまま、しばらく固まってしまった。

柳瀬もあまりのことに、一瞬言葉が出ない。
だが次の瞬間、こみ上げてきたのは怒りだった。
そもそも作家がそれこそ命を削るような思いで書き上げた原稿をなくすなんて、ありえない。
そしてその穴埋めを、今でさえオーバーワークの吉野にさせるなんて、酷過ぎる。

「お前、何考えてるんだ?今の千秋にそんな余裕があるわけないだろ!?」
「そこを何とかして欲しいと頼んでいる。」
「そんなのお前らの都合だろ?俺は認めない!」
柳瀬は声を張り上げて、羽鳥に詰め寄る。
だが当の羽鳥はあくまで冷静で、表情を変えなかった。

「小野寺さんは、大丈夫なの?」
ふと口を開いた吉野が、そう聞いた。
その静かな口調、覚悟を決めたような表情に、柳瀬はため息をつく。
吉野はもう1度表紙を描くつもりのようだ。

それに柳瀬だってわかっている。
羽鳥たち編集者はいつも原稿には細心の敬意と注意を払っている。
今回の紛失は不慮の事故なのだ。
ならば柳瀬も精一杯の協力をするしかない。

「話は後にして、さっさとやろう!」
柳瀬が諦めてそう言うと、アシスタントの女性たちが「はい!」と答えた。
吉野が「優、ありがとう!」と笑って、ペンを動かし始める。
柳瀬は吉野の横顔と羽鳥を交互に一瞥すると、また原稿に向かった。

*****

「俺はどんな理由であれ、原稿を失くす編集者なんて絶対に認めないです。」
羽鳥はきっぱりとそう言い切った後輩のことを思い出していた。

羽鳥は吉野の部屋に来て、原稿を失くしたことを詫び、また描いて欲しいと依頼した。
表紙原稿の紛失という異例の事態。
高野と相談した結果、もう1度吉野に依頼しようということになったのだ。
表紙は吉川千春なのだと、すでに予告してしまっていることもある。
それに現在エメラルドに連載中の作品の中で、一番クライマックスな展開なのが吉野の作品だった。
巻頭になることも決まっているし、読者の期待が高い。

その依頼を、吉野もアシスタントたちも受け入れてくれた。
そしていつにない凄まじいペースで、必死に描き、貼り、塗っていく。
羽鳥はその傍らで、その仕事を手伝っていた。
残念ながら、羽鳥にできることはすごく少ない。
それでも出来ることを精一杯こなし、合間に茶を入れたり、買出しをしたり、とにかく動いた。
そうしながらどうしても考えてしまうのは、後輩である小野寺律のことだ。

「俺も吉川先生の手伝いに行かせてください!」
律は懸命にそう言った。
だがそれはできないと却下したのは、高野だった。
手を怪我をしている律が、戦力にならないというだけではない。
ただでさえ忙しいのに、羽鳥はしばらく吉野にかかりきりになる。
とにかく律にもできることをしてもらうしかない。

「俺はどんな理由であれ、原稿を失くす編集者なんて絶対に認めないです。」
律はそう言って、今回の修羅場が終わったら辞表を出すと宣言した。
羽鳥だけでなく、木佐もあのポーカーフェイスの美濃でさえ動揺した。
だが高野は「とにかく片付けるぞ」と冷静に言い切った。

自分が律の立場でもそうしただろうと思う。
どんな理由であれ、不慮の事故であれ、絶対に自分を許せない。
だが律には残って欲しいと思うし、高野にどうにか説得してほしいと思う。
そして万が一、律が抜けてしまった後、編集部はどうなってしまうのだろうと思う。
高野も律も抜けた編集部は、かなり前途多難であると思う。

やはり編集長になるべきなのだろうか?
羽鳥は何度も悩んでは否定し続けたことを、もう1度考える。
何年も携わり、愛情を注いだ「月刊エメラルド」は羽鳥にとって大事な居場所だ。
ここを守ることが、結局吉野を守ることになる。
吉野の担当であることにこだわりすぎて、結局エメラルドがダメになってしまっては意味がない。
本人に聞いてみようか?他の担当でもいいかと。
羽鳥は一瞬そう思い、だがすぐに首を振った。

今は原稿に集中しよう。
とにかく原稿を全て上げてしまわなければ話もできない。
羽鳥は何度やっても覚束ない手つきで、原稿に消しゴムをかけながらどう思った。

*****

「どんな理由でも、絶対に認めないからな!」
吉野は力任せにそう言い切ると、クルリと背を向けた。
背後から伝わる羽鳥の困っているような気配には、気がつかない振りをした。

何とか原稿を上げた吉野は、放心状態だった。
単に疲れたというだけではない。
魂が抜けたとはまさにこのことだろう。
本来なら1枚描けばよかった表紙を2枚描き、通常の原稿も終わらせた。
こんなハードワークは早々ない。

表紙は羽鳥の要望で、最初の原稿とはまったく違うものにした。
もしも盗まれた原稿が戻ってきたら、また使えるように。
それに考えたくないが、吉野の原稿が望まない形で世に出てしまう場合もありえる。
どこかに不当に掲載されたり、ネットなどで売買されたりする場合だ。
そのときに表紙に掲載されたものと似た作品では、イメージがよくない。
だから構図も色合いもガラリと変えた表紙を描き上げた。

「今回は本当にすまなかった。」
羽鳥は放心状態でソファに沈む吉野に、深々と頭を下げた。
柳瀬たちアシスタントはすでに帰宅し、部屋には2人だけだ。
吉野は羽鳥のこういう潔さが、意外と好きだったりする。
今回の原稿紛失は端的に言ってしまえば、小野寺律のミスだ。
だが羽鳥はそんなことなど言わず、言い訳もせず、ただ詫びる。
吉野がこんなきつい修羅場を引き受けたのも、羽鳥の誠実さにほだされたことが大きい。

「吉野、もし担当が俺以外になったとしたら、どうする?」
「え?」
次に告げられたあまりにも意外な言葉に、吉野は答えにつまった。
意味がわからない。
羽鳥以外の者が担当になるということは、羽鳥はどうなるのか。

「まさか外されるのか?今回のことで責任を取らされるとか。」
高野の異動を知らない吉野には、羽鳥が担当を外れる理由が他に思いつかなかった。
だが羽鳥は「そうじゃない」と苦笑する。
ますます意味がわからない。
外されるのではないとすれば、羽鳥の希望なのだとしか思えない。

もちろん吉野だって、羽鳥以外の担当の下で描いたこともある。
だが編集者として、羽鳥以上に信頼できる担当はいなかった。
何より羽鳥は何もかも預けられる恋人なのだ。
それでわざわざ担当を離れるなんて、吉野からすればひどい裏切り行為だ。

「どんな理由でも、絶対に認めないからな!」
吉野は力任せにそう言い切ると、クルリと椅子を回して、背を向けた。
背後から伝わる羽鳥の困っているような気配には、気がつかない振りをした。
大人気ないとは思うが、頭に血が上ってしまうのを止められない。
疲れていることもあるが、とにかく冷静に考えられないのだ。

「わかった。もう言わないから。」
羽鳥の諦めたようにそう言ったが、吉野は背中を向けたままだった。
このとき羽鳥の言うことをちゃんと聞けばよかったと、吉野は後になって考える。
叩きつけるような勢いで話を打ち切り、羽鳥にこれ以上話をさせない雰囲気にしてしまった。

だが今はとにかく嫌な話など聞きたくなかった。
このことで羽鳥の可能性の芽を摘んでしまったことなど、吉野には考えもつかなかった。

【続く】
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