プロポーズ10題sideB

【…誰?(こんにちは?)】

「…誰?」
吉野千秋は訪問者の姿を見て、思わずそう口にしていた。
玄関先に立つ彼は「え~と、こんにちは?」と取ってつけたように会釈をする。
困ったような彼の顔を見て、吉野はようやく見知った編集者であることに気付いた。

「す、すみません!失礼なことを。。。」
「いえ、仕方ないですよ。」
吉野は訪問者を部屋に招きいれながら、頭を下げようとする。
だが当の小野寺律は吉野の言葉を遮って、やわらかく微笑した。

吉野が律を思わず「誰?」などと聞いてしまったのは、頭に巻かれた包帯のせいだ。
グルグル巻かれた包帯は痛々しいだけではなく、律の顔をかなり隠している。
包帯が占める割合がやけに多く見えるのは、おそらく律が今風な小顔であるからだろう。

それに不意打ちであったこともある。
律が右手に怪我をしたために、今月は原稿などの受け渡しを彼に集めているという話は聞いている。
手ではなく足を使う仕事をさせて、効率的に編集部の仕事を回すためだ。
だが律が手の怪我をしていることは知っていたが、頭の怪我は聞いていなかったのだ。
吉野は心の中で羽鳥に「ちゃんと言っといてくれよ!」と悪態をついた。

「大丈夫なんですか?」
「ええ。検査結果は異常なしって言われました。」
「でも、包帯」
「頭を打ったのとは別に、おでこを擦りむいちゃってて。」
律は「ちょっと大げさなんですけど」と額をさすりながら苦笑した。
実際の怪我の度合いを知らない吉野は、何と返していいかわからずに曖昧な微笑で答える。

「でもすごく痛そうです~!」
「無理しないで下さいね。」
「はやく包帯が取れるといいですね。小野寺さん、綺麗な顔なんですから!」
黙ってしまった吉野を助けるように、アシスタントの女性たちが律に声をかけた。
他の作家の仕事で遅れている柳瀬優を除いたいつもの面々だ。
律は彼女たちの剣幕に少々驚いたようだが、すぐに「ありがとうございます」と笑顔になる。
まったくこういう時に自分は全然気がきかないと、吉野は少しだけ落ち込んだ。

「これ、表紙の原稿です。」
吉野は気を取り直すと、出来上がったばかりの原稿を差し出した。
睡眠時間を削って、とにかく精魂込めて描き上げた渾身の力作だ。
律はそれを手に取ると「ステキですね!」と目を輝かせる。

吉野は自分の担当は羽鳥以外には考えられないと思っている。
だが小野寺律を見ていると、少しは羽鳥も見習ってくれればいいのにと思う。
律は吉野の作品を見ると、綺麗な瞳をキラキラさせながら、邪気のない笑顔で褒める。
惜しみもなく「ステキです」とか「面白いです」なんて言われれば、それは作家としては嬉しいものだ。
だが羽鳥は絶対にそんなことは絶対にしない。
悪いところは容赦なく貶すが、褒める時には表情もあまり変わらないし、言葉も少ない。

「それではお預かりしていきますね。」
「え、お茶でも飲んでいかれませんか?」
律がここに来てから、まだ3分も経っていない。
少し休憩してもからでもいいだろうに。

だが律は「羽鳥さんが待ってますから」と答えると、早々に吉野邸を後にした。
律同様、吉野もまたこの後律を見舞う災難などまったく想像することもできなかった。

*****

「遅い」
羽鳥芳雪は小さくそう呟いた。
思わず口をついてしまったことに驚き、慌てて周りを見回す。
だが美濃と律は席におらず、高野も木佐も気がついた様子はない。
羽鳥はホッと安堵のため息をつくと、パソコンの画面に視線を戻した。

「編集長の座を俺にくださいってヤツは名乗り出るように。」
高野が編集会議の席でそんなことを切り出したのは数日前のこと。
別の雑誌の編集長になることに決まった高野が、後任者の立候補を募ったのだ。
引継ぎなどの時期を考えたら、そろそろ次の編集長を決めなくてはならない時期だろう。

自分で手を上げろというのは、おそらく高野の思いやりなのだと思う。
決して自分の力を過信しているつもりはないが、後任の一番の適任者は自分だと思っている。
何せ現在の立場は副編集長、エメラルド編集部では高野に次ぐナンバー2なんだから。
それなのに高野が羽鳥に強制的に「やれ」と言わないのは、吉野のことがあるからだ。
吉川千春こと吉野千秋はデット入稿の常習者であり、他の作家よりも断然手がかかる。
つまり編集長になるのなら、吉野の担当を続けることはむずかしい。

高野の心遣いに感謝しながら、羽鳥は未だに迷っていた。
羽鳥にも野心はあり、やはり編集長というポジションには興味がある。
編集者としては、自分の裁量で1つの雑誌の方向性を決める仕事をしたいと思うのは当然だ。
だが羽鳥は元々吉野のそばにいたいという不純な動機で漫画編集になったのだ。
その吉野と距離を開けてまで編集長になるのは、いかがなものだろう。

「原稿や書類の受け渡しは小野寺にさせるから、頼む。」
律の右手の怪我を見た高野にそう言われたときには、実のところホッとした。
編集長の仕事を受けるべきかどうか。
悩んでいる最中に吉野の顔を見てしまえば、どうしても揺れてしまうだろう。
怪我をした律には申し訳ないが、吉野から距離を取る理由になってくれるのはありがたかった。

それにしても遅い。
今度は口に出さずに心の中だけで、羽鳥はこっそりと呟いた。
その律は吉野の表紙の原稿を取りに、吉野邸に行っている。
戻ってきたらチェックをするつもりで、別の雑用仕事をしながら待っているのに。
ふと見ると高野の様子も何だか落ち着かない。
怪我をしている律が戻ってこないことが心配なのだろう。

吉野に電話をして、聞いてみようか。
そう思って机の上の電話を取り上げようとした瞬間、高野の携帯電話が鳴った。
高野が表示を確認しながら電話を取り「小野寺、どうした?」などと聞いている。

「引ったくり?。。。鞄を取られたのか?」
羽鳥に聞こえるのはもちろん高野の声だけで、律の声は聞こえない。
だが何があったのか理解するには、充分だった。
おそらく吉野の表紙原稿も一緒に盗まれてしまったのだろう。

ひょっとして律の怪我とひったくりは関係があるのだろうか?
羽鳥の心に小さな疑念が浮かんだが、無理矢理それを頭の隅に追いやった。
まずは何があっても、次回の本を出さなくてはいけないのだ。
ただでさえギリギリの吉野のスケジュールを、羽鳥は頭の中で組み直し始めた。
慌てても仕方がない。
とにかく効率よくできることをしなくてはならない。

*****

「こんにちは?ええと。。。柳瀬さん」
すれ違いざまに声をかけられて、柳瀬優は振り返った。
声をかけてきたのは恐らく20代半ば、柳瀬よりも少々若い女性だ。
誰だがわからないので、正直に「…誰?」と聞いた。

「残念。覚えてないですかぁ?」
女はさほど残念でもない口調で、軽薄そうな笑顔を見せた。
何となく女には、柳瀬を引き止めるような素振りが見える。
柳瀬は「悪いけど、急ぐから」と、さっさと通り過ぎようとした。

急いでいるのは本当だった。
つい先程まで伊集院響のアシスタントの仕事をしていた。
だが思いのほか作業が長引いてしまい、次の仕事場である吉野邸へ急いでいる途中だったのだ。

今の柳瀬は吉野のアシスタントに入るのが楽しくて仕方がなかった。
最近羽鳥が吉野の家に来ることが減ったからだ。
何でもエメラルド編集部の1人が右腕を怪我をしたからという話だ。
デスクワークに支障があるので、原稿や資料の受け渡しはその編集部員にまかせるということだった。
邪魔な羽鳥がいないのだから、吉野と仕事する時間はいつもの何倍も楽しい。

「あ、待ってください~」
「本当に急ぐんで」
さらに甘えるように声をかけてくる女が不愉快で、柳瀬は歩き出した。
彼女に限らず他のアシスタントの女性などでも、こういう物言いが嫌いだった。
回りくどくて、ねちっこくて、結局何が言いたいのかよくわからない。
吉野にしか興味がない柳瀬が、女性と仲良くしようなどとは考えないせいだ。
用件はシンプルに伝えるものであり、会話そのものを楽しむという発想がないのだ。

「吉川先生、いえ吉野さんによろしくお伝えください。」
女が柳瀬の背中に向かって、そう声をかけてきた。
その言葉に柳瀬は思わず足を止める。
この女は吉川千春が吉野千秋であることを知っている。
羽鳥たちや吉野本人がひた隠しにしていることなのに。

「あんた、誰なんだ?」
柳瀬が振り返ると、すでに女の姿は消えていた。
角を曲がったか、人混みにまぎれてしまったのだろう。
柳瀬は薄気味悪さに顔をしかめた。

何だか嫌な予感がする。
得体の知れない黒い影がまとわりつくような不吉な予感だ。
柳瀬はそれを振り払うように首を振ると、吉野の家へと急いだ。

【続く】
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