プロポーズ10題sideA
【幸せ】
「幸せだよ、すごく」
杏はきっぱりとそう言い切って笑う。
その笑顔は、律が知っているものよりたくましく見えた。
律は実家近くにあるカフェに来ていた。
ここは母の行きつけの店で、子供の頃から知っている。
杏とも何度も一緒に来ている、いわば思い出深い場所だった。
レトロな雰囲気の店内は、まるで時が止まっているかのように昔とまったく変わらなく見えた。
「久しぶりだね、杏ちゃん」
律は先に来ていた杏に声をかけると、その向かい側に腰を下ろした。
この窓側の席にも愛着がある。
母や杏と来た時、この席が空いていれば必ずここに座っていた。
杏は「呼び出してゴメンね」と、申し訳なさそうな表情で両手を合わせている。
「ううん。気にしないで」
「相変わらず、律っちゃんは優しいね。」
こんな会話も昔から繰り返してきたものだ。
懐かしさに、心がほっこりと温まるような気がする。
律は自分と婚約を解消した後の杏のことを、母親から聞いていた。
杏は親が決めた別の男性と婚約し、結婚の日取りまで決めた。
だが結婚目前になって、式が中止になってしまったのだ。
それでいて新しい婚約者とは、時々会っているらしい。
杏の両親は「何を考えているかわからない」と嘆いているのだという。
「隣の人は元気?」
律がコーヒーを注文するや否や、杏はそう聞いてきた。
隣の人とはもちろん高野のことだ。
初めて杏と高野が顔を合わせたときに「隣の人」と紹介したため、それで覚えてしまったのだ。
「元気だよ。今は別の雑誌の編集長で頑張ってる。」
律は短く高野の近況を告げた。
だが実際は、そんなに穏やかなものではない。
高野は相変わらず思い切ったやり方で、新しい編集部を改革しているらしい。
その結果、確実に部数は伸びており賞賛の声がある一方、反発も多いようだ。
畑違いのエメラルド編集部にまで陰口が聞こえてくるのだから、風当たりは相当なものなのだろう。
それでも高野は律の前ではグチ1つこぼさないどころか、涼しい顔だ。
やはり編集者として尊敬するべき人物なのだと、律は恋人を誇らしく思っていた。
「律っちゃん、ラブラブなんだね。顔見ればわかるよ」
「え?いや、まぁ。。。どうなのかな?」
「幸せそうでよかった。」
律の表情を読んで、杏が微笑した。
どうも自分は感情がすぐに顔に出るタイプらしい。
だが年下の女の子にもあっさりと看破されるなんて、大人の男としてはどうなのだろう?
「杏ちゃんは、幸せなの?」
ふと思いついて、律はそう聞いた。
母親から聞かされている最近の杏の動向は、じつにザックリとしたものだ。
だが細かいことを根掘り葉掘り聞くのも躊躇われる。
それでも杏が今どうしているか気になる律は、聞かずにはいられなかった。
「幸せだよ、すごく」
杏はきっぱりとそう言い切って笑う。
その笑顔は、律が知っているものよりたくましく見えた。
*****
「これにサインして欲しいの」
杏はバックの中から1枚の紙を取り出すと、律の前へとすべらせた。
予想通りに律が驚いた表情になったのが、面白かった。
「杏ちゃん、結婚しないって聞いたんだけど」
「しないわ。親の決めた通りには、ね?」
カフェに呼び出した律に、杏が差し出した紙は婚姻届だ。
夫婦になる者として、杏と婚約者の名前がすでに記入されている。
杏が律にサインを頼んだのは、証人の欄だ。
「え?でも相手の人って、親が決めた婚約者の人、だよね?」
「うん。でも結婚するのは私たちだもん。結婚したい時に自分たちのしたいやり方でする。」
杏ははっきりとそう答えた。
きっかけである出会いは親が作ったものだが、恋に堕ちたのは自分の意思なのだ。
自分たちのペースで愛情を育み、結婚する時期を決めたい。
そんなごくごく当たり前の主張をしただけなのに、親たちは慌てふためいている。
「証人も普通、親じゃないの?」
「律っちゃんがいいの。律っちゃんがこんないい女を逃したんだって記録になるでしょ?」
律がずっと驚いた表情のまま固まっているのが、愉快でたまらない。
だが幼い頃からずっと好きで、長い間想い続けた挙句にフラれたのだ。
このくらい言ってやったところで、バチも当たらないだろう。
「もう書いてある証人の方って、誰なの?」
律は不思議そうな表情で、そう聞いてきた。
婚姻届の2人の証人の欄の1つには、すでに名前が記入されている。
杏とも婚約者とも違う名字の女性の名前だ。
「これはカレの元婚約者。カレもこんないい男を逃したんだって後悔させるんだって。」
杏は笑顔でそう答えてやった。
似たような境遇の2人は、お互いに自分の元婚約者を証人に選んだ。
もっといいパートナーに出逢えたことを喜ぶためだ。
悪趣味かもしれないが、自分たちにはそれが相応しいように思えた。
律は何となく釈然としない表情だったが、それでも証人の欄に記入をしてくれた。
「あとコレ。私とカレから律っちゃんにプレゼント。幸せのお守りだよ。」
杏は律が記入した婚姻届をしまうと、別の紙を取り出した。
これもまた婚姻届だったが、記入されている場所が違う。
杏と婚約者の名前が証人の欄に記入されており、夫婦の名前は空欄だ。
高野と律の名前を夫婦の欄に記入できるように用意した婚姻届だった。
「杏ちゃん、俺たちは結婚できないから」
「だから幸せのお守りなんだってば!」
どこか寂しそうにポツリと呟く律に、杏は力強く言葉を返した。
杏には男同士の恋愛なんて実感はないが、普通と違うから大変なのだとは想像できる。
そんな2人にと杏なりに考えたエールだった。
「律っちゃんも私も幸せになる。そうじゃなきゃ私たちが婚約してた意味がなくなっちゃうよ。」
杏がそう宣言すると、ようやく律も「そうだね」と笑ってくれた。
律と杏が婚約してたことも別れたことも、2人の幸せにとって無駄じゃない。
そう思える人生を、歩んで生きたい。
「ありがとう、杏ちゃん。幸せにね。」
律は別れ際にそう言ってくれて、杏と握手をした。
杏にとって、これでようやく律と対等になれた記念すべき瞬間だった。
*****
「んで、お前は何を悩んでるんだ?」
高野は仏頂面の律に問いかける。
難しい顔をしていた律は「わからないんですか?」と呆れたような声を上げた。
今日は休日、高野は律と2人でゆっくりまったりと過ごすつもりでいた。
いわゆる「おうちデート」というヤツだ。
だが前日になって約束はキャンセルされてしまった。
元婚約者に呼び出されて、自宅近くのカフェで会うという。
今さら元婚約者と会ったところで、律と彼女がどうにかなるとは思わない。
だがやはり気分がいいものではなかった。
高野が知り合う前の2人が過ごした年月にどうしても嫉妬してしまう。
何よりも職場が離れた今、顔を合わせている時間はどうしても減っている。
できればことわって欲しかったというのも本音だった。
だが意外なことに、昼過ぎに出かけた律は明るいうちに帰ってきた。
当然夕飯は食べてくるのだろうと思っていたし、律も多分そのつもりだったと思う。
拍子抜けしながら「えらく早いな」と声をかけると、律は「はぁ」と曖昧に答えた。
よくよく聞くと、元婚約者は手短に用件だけを告げたそうだ。
そして「これからカレとデートだから」と律を置いて、さっさと帰ってしまったらしい。
「それでですね、コレなんですよ。」
律はそう言って、1枚の紙片を高野に見せた。
それは夫婦の欄が白紙で、証人2人の署名だけがなされた婚姻届だった。
そしてこれを渡された経緯を聞いた高野は、苦笑するしかなかった。
高野の中では、律の元婚約者は少女のようにフワフワした女性だった気がする。
だが今はしたたがで強い女性に変わったようだ。
「んで、お前は何を悩んでるんだ?」
高野は仏頂面の律に問いかける。
難しい顔をしていた律は「わからないんですか?」と呆れたような声を上げた。
「せっかくもらった幸せのお守りだろ?俺たちも名前を書けばいいじゃん」
「俺たちってどっちが夫で、どっちが妻なんでしょう?」
律が至極真面目な顔で聞いてきたので、高野は「そこかよ!」と声を上げていた。
納得いかない表情をしているのは、元婚約者の変貌についていけないせいかと思った。
まさかそんなどうでもいいようなことを、真剣に悩んでいようとは。
「夫が俺で妻がお前、でいいんじゃねーの?俺の方が年上だし」
「まさか。俺は男ですよ?」
「じゃあ夫がお前で妻を俺にするか?お前、家事能力ねーし」
「それも違う気もします。そもそも理由が納得いきませんよ!」
適当な発言にいちいち真剣な律が、面白くてたまらない。
律は事件に巻き込まれて、一時は編集部を離れたものの、今はまた復帰して頑張っている。
デット入稿常習作家を担当することになって、苦労も増えただろう。
そのせいか10年ぶりの再会直後より、律は随分成長したと思う。
だがこんなどうでもいいことでムキになる姿は、昔と変わらない。
「じゃあ、公平にジャンケンでどうだ?」
「ジャ、ジャンケン??」
「勝った方が夫、負けた方が妻だ。」
「そんな決め方で、いいんですか?」
「どっちでも納得行かないなら、無理矢理決めちまうしかないだろ?」
どこか納得いかない表情の律に、高野は苦笑した。
何より嬉しいのは、律がこの婚姻届に名前を書くこと自体には何の疑問も持っていないことだ。
再会したばかりの頃の律だったら、婚姻届と言っただけで真っ赤になって怒っただろう。
「わかりました。じゃあジャンケンで」
「俺、最初はパー出すからな。」
「え?パー?ホントにパー出します?」
ちょっと惑わすようにそう言ってやると、律は真剣に何を出そうかと考え込んでいる。
でも律は結局、夫と妻、どちらの欄に名前を書きたいのだろう。
高野はおかしくて、こみ上げる笑みを抑えられない。
法的には結婚などできないけれど、幸せだと思う。
提出できない婚姻届は「幸せのお守り」として、2人の宝物になるだろう。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
「幸せだよ、すごく」
杏はきっぱりとそう言い切って笑う。
その笑顔は、律が知っているものよりたくましく見えた。
律は実家近くにあるカフェに来ていた。
ここは母の行きつけの店で、子供の頃から知っている。
杏とも何度も一緒に来ている、いわば思い出深い場所だった。
レトロな雰囲気の店内は、まるで時が止まっているかのように昔とまったく変わらなく見えた。
「久しぶりだね、杏ちゃん」
律は先に来ていた杏に声をかけると、その向かい側に腰を下ろした。
この窓側の席にも愛着がある。
母や杏と来た時、この席が空いていれば必ずここに座っていた。
杏は「呼び出してゴメンね」と、申し訳なさそうな表情で両手を合わせている。
「ううん。気にしないで」
「相変わらず、律っちゃんは優しいね。」
こんな会話も昔から繰り返してきたものだ。
懐かしさに、心がほっこりと温まるような気がする。
律は自分と婚約を解消した後の杏のことを、母親から聞いていた。
杏は親が決めた別の男性と婚約し、結婚の日取りまで決めた。
だが結婚目前になって、式が中止になってしまったのだ。
それでいて新しい婚約者とは、時々会っているらしい。
杏の両親は「何を考えているかわからない」と嘆いているのだという。
「隣の人は元気?」
律がコーヒーを注文するや否や、杏はそう聞いてきた。
隣の人とはもちろん高野のことだ。
初めて杏と高野が顔を合わせたときに「隣の人」と紹介したため、それで覚えてしまったのだ。
「元気だよ。今は別の雑誌の編集長で頑張ってる。」
律は短く高野の近況を告げた。
だが実際は、そんなに穏やかなものではない。
高野は相変わらず思い切ったやり方で、新しい編集部を改革しているらしい。
その結果、確実に部数は伸びており賞賛の声がある一方、反発も多いようだ。
畑違いのエメラルド編集部にまで陰口が聞こえてくるのだから、風当たりは相当なものなのだろう。
それでも高野は律の前ではグチ1つこぼさないどころか、涼しい顔だ。
やはり編集者として尊敬するべき人物なのだと、律は恋人を誇らしく思っていた。
「律っちゃん、ラブラブなんだね。顔見ればわかるよ」
「え?いや、まぁ。。。どうなのかな?」
「幸せそうでよかった。」
律の表情を読んで、杏が微笑した。
どうも自分は感情がすぐに顔に出るタイプらしい。
だが年下の女の子にもあっさりと看破されるなんて、大人の男としてはどうなのだろう?
「杏ちゃんは、幸せなの?」
ふと思いついて、律はそう聞いた。
母親から聞かされている最近の杏の動向は、じつにザックリとしたものだ。
だが細かいことを根掘り葉掘り聞くのも躊躇われる。
それでも杏が今どうしているか気になる律は、聞かずにはいられなかった。
「幸せだよ、すごく」
杏はきっぱりとそう言い切って笑う。
その笑顔は、律が知っているものよりたくましく見えた。
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「これにサインして欲しいの」
杏はバックの中から1枚の紙を取り出すと、律の前へとすべらせた。
予想通りに律が驚いた表情になったのが、面白かった。
「杏ちゃん、結婚しないって聞いたんだけど」
「しないわ。親の決めた通りには、ね?」
カフェに呼び出した律に、杏が差し出した紙は婚姻届だ。
夫婦になる者として、杏と婚約者の名前がすでに記入されている。
杏が律にサインを頼んだのは、証人の欄だ。
「え?でも相手の人って、親が決めた婚約者の人、だよね?」
「うん。でも結婚するのは私たちだもん。結婚したい時に自分たちのしたいやり方でする。」
杏ははっきりとそう答えた。
きっかけである出会いは親が作ったものだが、恋に堕ちたのは自分の意思なのだ。
自分たちのペースで愛情を育み、結婚する時期を決めたい。
そんなごくごく当たり前の主張をしただけなのに、親たちは慌てふためいている。
「証人も普通、親じゃないの?」
「律っちゃんがいいの。律っちゃんがこんないい女を逃したんだって記録になるでしょ?」
律がずっと驚いた表情のまま固まっているのが、愉快でたまらない。
だが幼い頃からずっと好きで、長い間想い続けた挙句にフラれたのだ。
このくらい言ってやったところで、バチも当たらないだろう。
「もう書いてある証人の方って、誰なの?」
律は不思議そうな表情で、そう聞いてきた。
婚姻届の2人の証人の欄の1つには、すでに名前が記入されている。
杏とも婚約者とも違う名字の女性の名前だ。
「これはカレの元婚約者。カレもこんないい男を逃したんだって後悔させるんだって。」
杏は笑顔でそう答えてやった。
似たような境遇の2人は、お互いに自分の元婚約者を証人に選んだ。
もっといいパートナーに出逢えたことを喜ぶためだ。
悪趣味かもしれないが、自分たちにはそれが相応しいように思えた。
律は何となく釈然としない表情だったが、それでも証人の欄に記入をしてくれた。
「あとコレ。私とカレから律っちゃんにプレゼント。幸せのお守りだよ。」
杏は律が記入した婚姻届をしまうと、別の紙を取り出した。
これもまた婚姻届だったが、記入されている場所が違う。
杏と婚約者の名前が証人の欄に記入されており、夫婦の名前は空欄だ。
高野と律の名前を夫婦の欄に記入できるように用意した婚姻届だった。
「杏ちゃん、俺たちは結婚できないから」
「だから幸せのお守りなんだってば!」
どこか寂しそうにポツリと呟く律に、杏は力強く言葉を返した。
杏には男同士の恋愛なんて実感はないが、普通と違うから大変なのだとは想像できる。
そんな2人にと杏なりに考えたエールだった。
「律っちゃんも私も幸せになる。そうじゃなきゃ私たちが婚約してた意味がなくなっちゃうよ。」
杏がそう宣言すると、ようやく律も「そうだね」と笑ってくれた。
律と杏が婚約してたことも別れたことも、2人の幸せにとって無駄じゃない。
そう思える人生を、歩んで生きたい。
「ありがとう、杏ちゃん。幸せにね。」
律は別れ際にそう言ってくれて、杏と握手をした。
杏にとって、これでようやく律と対等になれた記念すべき瞬間だった。
*****
「んで、お前は何を悩んでるんだ?」
高野は仏頂面の律に問いかける。
難しい顔をしていた律は「わからないんですか?」と呆れたような声を上げた。
今日は休日、高野は律と2人でゆっくりまったりと過ごすつもりでいた。
いわゆる「おうちデート」というヤツだ。
だが前日になって約束はキャンセルされてしまった。
元婚約者に呼び出されて、自宅近くのカフェで会うという。
今さら元婚約者と会ったところで、律と彼女がどうにかなるとは思わない。
だがやはり気分がいいものではなかった。
高野が知り合う前の2人が過ごした年月にどうしても嫉妬してしまう。
何よりも職場が離れた今、顔を合わせている時間はどうしても減っている。
できればことわって欲しかったというのも本音だった。
だが意外なことに、昼過ぎに出かけた律は明るいうちに帰ってきた。
当然夕飯は食べてくるのだろうと思っていたし、律も多分そのつもりだったと思う。
拍子抜けしながら「えらく早いな」と声をかけると、律は「はぁ」と曖昧に答えた。
よくよく聞くと、元婚約者は手短に用件だけを告げたそうだ。
そして「これからカレとデートだから」と律を置いて、さっさと帰ってしまったらしい。
「それでですね、コレなんですよ。」
律はそう言って、1枚の紙片を高野に見せた。
それは夫婦の欄が白紙で、証人2人の署名だけがなされた婚姻届だった。
そしてこれを渡された経緯を聞いた高野は、苦笑するしかなかった。
高野の中では、律の元婚約者は少女のようにフワフワした女性だった気がする。
だが今はしたたがで強い女性に変わったようだ。
「んで、お前は何を悩んでるんだ?」
高野は仏頂面の律に問いかける。
難しい顔をしていた律は「わからないんですか?」と呆れたような声を上げた。
「せっかくもらった幸せのお守りだろ?俺たちも名前を書けばいいじゃん」
「俺たちってどっちが夫で、どっちが妻なんでしょう?」
律が至極真面目な顔で聞いてきたので、高野は「そこかよ!」と声を上げていた。
納得いかない表情をしているのは、元婚約者の変貌についていけないせいかと思った。
まさかそんなどうでもいいようなことを、真剣に悩んでいようとは。
「夫が俺で妻がお前、でいいんじゃねーの?俺の方が年上だし」
「まさか。俺は男ですよ?」
「じゃあ夫がお前で妻を俺にするか?お前、家事能力ねーし」
「それも違う気もします。そもそも理由が納得いきませんよ!」
適当な発言にいちいち真剣な律が、面白くてたまらない。
律は事件に巻き込まれて、一時は編集部を離れたものの、今はまた復帰して頑張っている。
デット入稿常習作家を担当することになって、苦労も増えただろう。
そのせいか10年ぶりの再会直後より、律は随分成長したと思う。
だがこんなどうでもいいことでムキになる姿は、昔と変わらない。
「じゃあ、公平にジャンケンでどうだ?」
「ジャ、ジャンケン??」
「勝った方が夫、負けた方が妻だ。」
「そんな決め方で、いいんですか?」
「どっちでも納得行かないなら、無理矢理決めちまうしかないだろ?」
どこか納得いかない表情の律に、高野は苦笑した。
何より嬉しいのは、律がこの婚姻届に名前を書くこと自体には何の疑問も持っていないことだ。
再会したばかりの頃の律だったら、婚姻届と言っただけで真っ赤になって怒っただろう。
「わかりました。じゃあジャンケンで」
「俺、最初はパー出すからな。」
「え?パー?ホントにパー出します?」
ちょっと惑わすようにそう言ってやると、律は真剣に何を出そうかと考え込んでいる。
でも律は結局、夫と妻、どちらの欄に名前を書きたいのだろう。
高野はおかしくて、こみ上げる笑みを抑えられない。
法的には結婚などできないけれど、幸せだと思う。
提出できない婚姻届は「幸せのお守り」として、2人の宝物になるだろう。
【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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