プロポーズ10題sideA

【ありがとうございます!】

「今月もご苦労さん」
「ありがとうございます!」
労いの言葉に、律は大きな声で礼を返した。
羽鳥の何気ない言葉が嬉しく、そして心苦しいと思う。

律はエメラルド編集部に戻り、高野は新たな職場へと異動した。
新編集長には羽鳥、副編集長は美濃が就任した。
事件もあったし、編集部員たちは将来に悩んだが、結局は一番順当な形になったと言える。
羽鳥は高野とは対照的なやり方で、エメラルド編集部を率いていた。

高野は自分が嫌われたり憎まれたりするのも覚悟の上で、わざと喧嘩を売るような物腰だった。
そうして挑発しながら、部下には高いレベルの仕事を要求していたのだ。
そんなやり方に反発して辞めてしまった者も少なくない。
だがそれでこそエメラルド編集部は飛躍的な進歩を遂げ、売り上げも倍増した。

それに対して、羽鳥の物言いは実に穏やかだ。
一仕事終えたときには「よくやった」とか「ご苦労さん」などと労いの言葉を忘れない。
基本的には部下を信頼しており、余程のことがない限り、声を荒げたりするようなこともない。

もちろんそれは高野が鍛えた編集者たちがそのまま残っているせいだ。
だが木佐と美濃は秘かに吉川千春こと吉野のせいではないかと噂していた。
デット入稿を繰り返す吉野に忍耐力を鍛えられて、悟りを開いたのではないか。
だから担当を外れた今、羽鳥は達観の域に達したのだろうと。

律はそんな羽鳥に声をかけられるたびに、いつも申し訳ない気分だった。
自分はここにいる資格はあるのだろうか?
そもそも原稿紛失という失態をやらかしたのに。
勢いで辞表を出したものの、高野に慰留されてノコノコと戻ってしまった。
しかも原稿の穴埋めや休職扱いにしてもらった間の仕事のフォローまで、全部助けてもらった。
だが羽鳥も美濃も木佐も、担当の作家たちだって、誰も律を責めない。

せめて仕事では今まで以上に役に立ちたいと、懸命に仕事をしている。
1度離れてしまったので、頭も身体もまだ慣れず、ついていくのが精一杯だ。
だがとにかく全力で頑張るしかない。
律は何とか笑顔だけを絶やさず、復帰後初の入稿を終わらせたのだった。

木佐も美濃も「お疲れ~」と声をかけてくれながら、フラフラと帰っていく。
羽鳥も帰ろうとしていたが、机に突っ伏して動かない律に「大丈夫か?」と声をかけてくれる。
やはりかなり無理をしていたことはバレていたようだ。

「帰って休んだらどうだ?」
「はい、5分だけ寝たら帰り。。。」
最後まで言い終えないうちに、律はストンと眠りに落ちてしまった。
羽鳥が気を使ってくれているのに申し訳ないが、もう目が開けられない。

「はい。。。小野寺が今。。。ええ。。。編集部です。。。」
その後律は夢うつつの状態で、羽鳥が話している声を聞いていた。
どうやら自分のことを話しているような気もするが、誰と話しているんだろう?
いやこの声ももう夢の中の出来事なのかもしれない。

「終電、前には、起きないと。。。」
律は懸命に自分に言い聞かせながら、今度こそ熟睡モードになった。
かすかに残っている理性がこれはまずいパターンではないかと警告を発している。
だがやはり律はどうしても目を開けることができなかった。

*****

「いろいろとありがとうございます!」
高野は椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
だが相手はいつものように飄々とした様子で「別に~」と答えた。

エメラルド編集部が入稿を終えるより少し早く、高野は新しい部署で入稿を終えていた。
高野が初めて担当した月の売り上げは、すでに前の月を上回っている。
エメラルドのときと同様、最初はいきなり現れたスパルタ編集長に反発ムードだった。
だが最近は少しずつ、部下たちもわかりはじめている。
高野は売れる雑誌を作る能力に長けているということに。
決して闇雲に怒ったりしているわけではなく、ちゃんと勝算があることしかしないのだ。

高野は丸川書店の専務取締役である井坂龍一郎と、会社近くのバーにいた。
先程までは新しい編集部の飲み会だったのだが、どこで聞きつけたのか井坂が突然乱入してきたのだ。
おどけた様子だったが、やはり新しい編集長を迎えた雑誌がどうなるか気になったのだろう。
そして部下たちと別れた後、秘書の朝比奈薫も入れて3人でカウンター席に並び、酒を飲んでいる。
もっとも朝比奈はこれも仕事の一環と思っているようで、ほとんど唇を湿らせる程度しか飲んでいないが

「ところでさ、高野とあの七光り、住んでるのが同じマンションの隣って偶然なのか?」
井坂はふと思い出したようにそう聞いた。
高野としては、別に慌てることもない。
っていうか今まで誰もそれを聞かないのが、不思議で仕方がなかったのだ。
ましてや高野もあの七光り-律も中途入社なのだ。
新卒だったら応募の履歴書は大量なのだから、いちいち住所などあまり見ないかもしれない。
その点中途入社なら履歴書はしっかり見られるし、気付く可能性も高いと思うのだが。

「偶然ですよ。ずっと隣人だったのに、アイツが丸川に入るまでお互いに気付かなかったんです。」
高野は苦笑しながら、そう答えた。
井坂は「そんなもんかね」と、自分から聞いてきたのにさして興味がなさそうだ。

「エメ編の最後のドタバタについては、本当にご迷惑をおかけしました。」
高野は話題が律に向いたのを機に、改まった口調でそう切り出した。
律が巻き込まれたトラブルの収拾の際には、井坂にも世話になった。
律の辞表を休職扱いにしたり、高野の異動時期を調整するのは、井坂の理解なしには無理だっただろう。

「いろいろとありがとうございます!」
高野は椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
だが井坂はいつものように飄々とした様子で「別に~」と答えた。

「どっちの雑誌もちゃんと売れてるし、問題ない。」
井坂がそう答えた瞬間、高野のポケットの中で携帯電話が震えた。
高野は電話を取り出して「え?」と小さく声を上げる。
発信者は「羽鳥芳雪」だったからだ。
エメラルド編集部を出た後、こんな夜遅くに羽鳥から電話が来る理由など見当もつかない。

井坂が「いいよ、出て」と言ってくれたので、高野は電話を取った。
そして羽鳥から、律が校了後の編集部で寝こけてしまっていることを聞かされたのだった。

*****

夢の中で髪をなでられるような気がした。
大きな手が律の髪の感触を楽しむようにかき回している気配がするのだ。
律は今は触らないで欲しくて、手を避けるように身を捩った。
入稿のせいで入浴もままならず、髪も洗っていないからだ。

それでも髪をいじり続ける手にウンザリして目を開けた瞬間。
律の隣の木佐の席に座って、じっと律を見ている高野と目が合った。
しかもありえないほど顔の位置が近い。
律は驚いて「うわぁ」と叫ぶと、飛び上がった。

「何だよ。色気がねーな。」
「色気なんて知りません!」
高野は不満そうに口を尖らせている。
だが負けじと表情を強張らせた律は「あれ?」と思った。
もうエメラルド編集長ではない高野が、なぜ今ここにいるんだろう?

「さっさと帰るぞ。疲れてるならタクシーを使うか?」
「高野さん、酒臭いです。」
心配してくれる高野に律は思わず憎まれ口を叩いていた。
おそらくは机で寝てしまった律を羽鳥が心配して、高野に連絡したのだろう。
すでに会社を出て酒を飲んでいた高野は、わざわざ戻ってきてくれたのだ。
嬉しいしありがたいのだが、不器用な律は素直に感謝を表すことができないのだ。

「うわ!もうこんな時間ですか?」
改めて時計を見た律は、悲鳴のように叫んだ。
ほんの数分だけ寝るつもりだったのに、もう1時間以上経過していた。
慌てて帰り支度を始めた律に、高野は呆れているようだ。

「お前さ、自分がエメ編に戻ったことが悪いことだと思ってねーか?」
高野は相変わらず木佐の席に座ったまま、律を見上げてそう聞いてきた。
律はパソコンを落とし、机の上を片付けながら「何がです?」と聞き返す。
だが内心は、思いのほか鋭い高野の指摘に動揺していた。
職場復帰を果たしたものの、これでいいのかと常に悩み続けていたからだ。

「お前は必要な人間なんだよ。だからみんなが待ってた。」
「でも俺は原稿を失くしました。」
「お前のせいじゃない。たまたま巻き込まれただけだろ?」
「それは、そうかもしれませんが。。。」
「原稿を取り返すためにコンビニでバイトとか。普通しねーぞ、そんなこと」
「わ、悪かったですね!」
「お前のそういう暑苦しいやる気、みんな嫌いじゃねーってことだ。」

高野と話しているうちに、律は何かがふっ切れたのを感じた。
正直言って、迷惑をかけてしまった自分を責める気持ちは消えない。
だがそれ以上に、やはり自分にはここが本来の居場所だと思う。
みんなが許してくれるなら、この丸川書店で、エメラルド編集部で頑張りたい。

「高野さん、ありがとうございます!」
帰り支度を終えた律は、高野に礼を言った。
今はもう上司ではないけど、高野には律の気持ちなどお見通しだった。
そして今一番欲しい言葉をくれたのだ。

「さっさと帰るぞ。」
高野は何事もなかった顔で、さっさと編集部を出て行く。
律は「はい」と短く頷くと、その後に従った。
今日も高野の部屋に引っ張り込まれるかもという甘い期待に胸が痺れる。
だが校了明けなのだから、先にシャワーだけは浴びさせてもらわなくてはと冷静にそう思った。

【続く】
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