プロポーズ10題sideA
【君だけだから】
「君だけだから。」
途方に暮れたようにそう言われて、律もまた途方に暮れた。
律は相変わらずコンビニでアルバイトをしている。
正直なところ、長期間働くつもりはなかった。
律の目的は盗まれた原稿を取り返すことだったからだ。
だが生真面目な律はコンビニの仕事も一生懸命やった。
そしてコンビニの奥深さを知った。
律はカウンターの中でレジを打つのがコンビニ店員の仕事の主な仕事だと思っていた。
だが実際は全然違う。
コンビニの仕事で一番時間が取られるのは、棚への陳列作業だ。
単に配送されてきた商品を棚に並べるというだけではない。
時間ごとに客層も変わり、売れ筋商品も変わる。
それに合わせて、同じ商品でも時間によって置く場所が変わるのだ。
とにかく商品を移す作業が多い。
また客が手に取ったりして、乱れた商品などを並べなおす作業もある。
それ以外にもコンビニの仕事は多岐にわたっている。
イベントのチケットも手配できるし、税金や通信販売の料金などの払い込みもできる。
品物を送ったり、逆に受け取ることもできる。
とにかく覚えることが多かったが、律はそれらの仕事をコツコツとこなした。
いろいろ教えてくれる年下の先輩店員には、敬語でていねいに接した。
吉川千春の原稿が戻ったことで、律はもうここで働く理由がなくなった。
エメラルド編集部の面々はしょっちゅうここに顔を出して「戻って来い」と言う。
戻るか戻らないかは別として、そろそろ次の仕事を捜さなくてはいけない。
だから律は店長に退職を申し出た。
だが店長は何とも微妙な表情で「困ったなぁ」と答えた。
「フルタイムで働けるの、君だけだから。」
途方に暮れたようにそう言われて、律もまた途方に暮れた。
店長の言葉の意味は、律にもよくわかる。
この店は店長夫妻以外は全員アルバイト。
しかも律を除くと、学生か主婦か複数のアルバイトをもつフリーターだ。
つまり働ける時間は限られている。
律のように時間が自由で、人が少ない時間帯にシフトに入れるバイトはいないのだ。
実は律が知らないところで、店側には別の事情もあった。
綺麗な容貌で、人当たりも柔らかい律には客、とくに若い女性客に人気がある。
実は律目当てに来店する客もおり、地味に売り上げに貢献していた。
店側としては律がいなくなるのは、つらいのだ。
「せめて代わりのバイトが見つかるまで、いてくれないかな」
「はい。それはもちろん。」
心底残念そうな店長の言葉に、律は頷いた。
たとえとりあえずの仕事でも、一生懸命やった。
こうやって惜しまれるのは、心苦しいが嬉しいことだ。
*****
「僕は君だけだからって思えそうな気がしてますが。」
男は悪戯っぽい笑顔で、そう言った。
杏が婚約者とカフェで会ってから、数日が経った。
婚約の解消を申し入れた杏に、婚約者は意外な告白をした。
彼もまた杏同様、別に好きな人がいるという。
そしてそのうえで、ある「提案」をされたのだ。
「このままお付き合いしませんか?」
婚約者は、しれっとそう言った。
思わず目を剥く杏に、婚約者は涼しい顔でさらに提案してきた。
「両想いになるか、どっちかに他に好きな人ができるか。それまで付き合うっていうのはどう?」
婚約者の申し出に、杏は絶句した。
お互い好きな人が別にいるのに、婚約状態を続ける。
そんなのはどう考えても普通ではない。
そこまで考えた杏は、そもそも自分の恋愛こそ普通ではないのだと思い至った。
そもそも律に恋したのは、最初に婚約者と設定されたからだ。
つまり先に相手を決められてから恋におちたのだ。
他に付き合った男性もいるが、みんな相手の方から杏に言い寄ってきて始まった。
結局杏自身の気持ちで踏み出した恋は1つもない。
「気持ちがないのに付き合うのは、お互いのためにならないと思います。」
杏はきっぱりとそう答えた。
婚約者はじっと黙って杏の話を聞いている。
「私は、この人だけだからって思える方と恋がしたいんです。」
杏はなおもそう続けた。
成人をとっくに過ぎた女が子供みたいなことを言っていると思う。
だけどやはりもう自分に嘘をつきたくない。
「今日のあなたの告白を聞いて、僕はあなたを『君だけだから』って思えそうな気がしてますが。」
男は悪戯っぽい笑顔で、そう言った。
その笑顔に杏は思わず目を奪われた。
自分より大人で紳士だと思っていた婚約者。
こんな子供のような笑顔を見るのは初めてだ。
結局2人の交際については、そのまま保留になった。
親が決めた結婚式の日程だけは白紙に戻してもらうことにした。
婚約者は「まだ恋人気分を味わいたいと言っておきます」と笑っていた。
予想外の展開に、杏は未だ呆然としていた。
どうにもうまく丸め込まれた気がする。
それでいて婚約解消にならなかったことに、どこかホッとしている自分にさらに困惑した。
*****
「俺、君だけだから何て言われたの、初めてなんですよ!」
律に真剣な顔でそう訴えられて、高野は深いため息をついた。
吉川千春の原稿を盗んだ犯人が判明してから。
エメラルド編集部では一気に色々なことが動いた。
原稿は無事に戻り、次の表紙を飾れることができそうだ。
だがその条件として、吉川千春は次の担当を小野寺律を指名してきたのだ。
そして羽鳥が高野の後の編集長にと名乗りを上げた。
さらに今までまったく動きを見せなかった美濃までが、編集長になりたいと言い出した。
高野としては、期待以上の展開に気分がよかった。
やはり今のエメラルド編集部のメンバーを見渡す限り、編集長に最適なのは羽鳥だ。
だが羽鳥本人がデット常習者、吉川千春-吉野の担当にこだわるなら、編集長の仕事は無理だろう。
高野としては、羽鳥にはもう1つ上の立場で編集を仕切らせてやりたい。
そのためにも羽鳥と吉野が仕事よりも2人の関係を最優先していくのは、いいことではないと思っていた。
だからこそ羽鳥が前向きな決断をしたことが嬉しかった。
おそらく吉野と2人で、真剣に考えた結果なのだろう。
木佐は別にやりたい道をみつけて、それに向かって進む決意をしたようだ。
残念ながらそちらに進めば、もう仕事を一緒にする機会もないかもしれない。
それでも仲間なのだし、できるだけ応援したいと思っている。
高野の予想外は1歩引いて状況を観察していた美濃までも、編集長になると言い出したのだ。
実は羽鳥が編集長になった時、副編集長を誰にするか迷っていた。
他の道に進む木佐や、1度仕事を離れた律では無理がある。
消去法で美濃だが、だがどこまで本気か底が見えない男なのだ。
だが前向きなやる気を見せてくれたことで、信頼度が増した。
あとは律を編集部に戻せば、完璧だ。
しかも吉野が「律を担当に」と条件を出してくれた。
これも嬉しい誤算の1つだ。
律がもう辞表を出したのだからとゴネても、作家の要望だといえば丸め込める。
会社から帰った高野は、意気揚々と律の部屋に乗り込んだ。
「なるべく早く編集部に戻れ。」
轟然とそう言い放つ高野に、案の定律は「ちょっと、それは」と言い澱む。
ここまでは高野の予想通りだ。
だが律は「コンビニ、今、人手が足りないんですよ」と言い出したのだ。
これはまったく高野の想定にはない反応だ。
「コンビニのバイトなんて、何とでもなるだろ?」
「簡単に見えるけど、大変な仕事なんですよ!そう簡単にいきません!」
「大変なら、俺が店と話をつけてもいいんだそ。」
「そんな強引な。まさか高野さんは編集者の方がコンビニ店員より偉いなんて思ってるんですか?」
律の思わぬ反論に、高野はタジタジだった。
「俺、君だけだから何て言われたの、初めてなんですよ!」
律に真剣な顔でそう訴えられて、高野は深いため息をついた。
どうやらコンビニの店長は、律を高く評価してるらしい。
エメラルド編集部の面々は高野を含めて全員、律を褒めるよりからかう方が多い。
真面目な律がいちいち過度に反応するのが面白くて、さらにからかうのだ。
だからこそ「君だけだから」などと口説くように求められたら、頑張りたくなる気持ちもわかる。
「戻る気はあるよな?」
念を押すようにそう聞くと、律は少し躊躇った後にコクリと頷いた。
その様子を見て高野はホッとする。
律の居場所はやはりエメラルド編集部であるということは、本人もわかっているらしい。
「じゃあ店とよく相談して、いつ戻れるのか決めろよ。俺もそこまでは残るし。」
高野は諦めてそう言った。
何と高野は自分の異動日を、律の復帰に合わせて調整するつもりなのだ。
そのことに気がついた律は、驚きで大きな目をさらに思いっきり見開いていた。
「そんなこと、できるんですか?」
「仕方ないだろ。お前が戻ってくる時にはまだエメラルドの編集長でいたいんだから。」
思いがけない甘い言葉に律の頬が赤く染まった。
高野は律の髪に手を伸ばすと、サラサラとした髪の感触を確かめるようになでる。
律は赤い顔のまま高野を見上げて、照れくさそうに笑った。
職場が別々になり、2人が一緒にいる時間は減ってしまう。
だけど2人の距離は開くことなく、ますます近づいていくだろう。
高野も律もそんな予感に胸を熱くしながら、恋人の顔を見つめていた。
【続く】
「君だけだから。」
途方に暮れたようにそう言われて、律もまた途方に暮れた。
律は相変わらずコンビニでアルバイトをしている。
正直なところ、長期間働くつもりはなかった。
律の目的は盗まれた原稿を取り返すことだったからだ。
だが生真面目な律はコンビニの仕事も一生懸命やった。
そしてコンビニの奥深さを知った。
律はカウンターの中でレジを打つのがコンビニ店員の仕事の主な仕事だと思っていた。
だが実際は全然違う。
コンビニの仕事で一番時間が取られるのは、棚への陳列作業だ。
単に配送されてきた商品を棚に並べるというだけではない。
時間ごとに客層も変わり、売れ筋商品も変わる。
それに合わせて、同じ商品でも時間によって置く場所が変わるのだ。
とにかく商品を移す作業が多い。
また客が手に取ったりして、乱れた商品などを並べなおす作業もある。
それ以外にもコンビニの仕事は多岐にわたっている。
イベントのチケットも手配できるし、税金や通信販売の料金などの払い込みもできる。
品物を送ったり、逆に受け取ることもできる。
とにかく覚えることが多かったが、律はそれらの仕事をコツコツとこなした。
いろいろ教えてくれる年下の先輩店員には、敬語でていねいに接した。
吉川千春の原稿が戻ったことで、律はもうここで働く理由がなくなった。
エメラルド編集部の面々はしょっちゅうここに顔を出して「戻って来い」と言う。
戻るか戻らないかは別として、そろそろ次の仕事を捜さなくてはいけない。
だから律は店長に退職を申し出た。
だが店長は何とも微妙な表情で「困ったなぁ」と答えた。
「フルタイムで働けるの、君だけだから。」
途方に暮れたようにそう言われて、律もまた途方に暮れた。
店長の言葉の意味は、律にもよくわかる。
この店は店長夫妻以外は全員アルバイト。
しかも律を除くと、学生か主婦か複数のアルバイトをもつフリーターだ。
つまり働ける時間は限られている。
律のように時間が自由で、人が少ない時間帯にシフトに入れるバイトはいないのだ。
実は律が知らないところで、店側には別の事情もあった。
綺麗な容貌で、人当たりも柔らかい律には客、とくに若い女性客に人気がある。
実は律目当てに来店する客もおり、地味に売り上げに貢献していた。
店側としては律がいなくなるのは、つらいのだ。
「せめて代わりのバイトが見つかるまで、いてくれないかな」
「はい。それはもちろん。」
心底残念そうな店長の言葉に、律は頷いた。
たとえとりあえずの仕事でも、一生懸命やった。
こうやって惜しまれるのは、心苦しいが嬉しいことだ。
*****
「僕は君だけだからって思えそうな気がしてますが。」
男は悪戯っぽい笑顔で、そう言った。
杏が婚約者とカフェで会ってから、数日が経った。
婚約の解消を申し入れた杏に、婚約者は意外な告白をした。
彼もまた杏同様、別に好きな人がいるという。
そしてそのうえで、ある「提案」をされたのだ。
「このままお付き合いしませんか?」
婚約者は、しれっとそう言った。
思わず目を剥く杏に、婚約者は涼しい顔でさらに提案してきた。
「両想いになるか、どっちかに他に好きな人ができるか。それまで付き合うっていうのはどう?」
婚約者の申し出に、杏は絶句した。
お互い好きな人が別にいるのに、婚約状態を続ける。
そんなのはどう考えても普通ではない。
そこまで考えた杏は、そもそも自分の恋愛こそ普通ではないのだと思い至った。
そもそも律に恋したのは、最初に婚約者と設定されたからだ。
つまり先に相手を決められてから恋におちたのだ。
他に付き合った男性もいるが、みんな相手の方から杏に言い寄ってきて始まった。
結局杏自身の気持ちで踏み出した恋は1つもない。
「気持ちがないのに付き合うのは、お互いのためにならないと思います。」
杏はきっぱりとそう答えた。
婚約者はじっと黙って杏の話を聞いている。
「私は、この人だけだからって思える方と恋がしたいんです。」
杏はなおもそう続けた。
成人をとっくに過ぎた女が子供みたいなことを言っていると思う。
だけどやはりもう自分に嘘をつきたくない。
「今日のあなたの告白を聞いて、僕はあなたを『君だけだから』って思えそうな気がしてますが。」
男は悪戯っぽい笑顔で、そう言った。
その笑顔に杏は思わず目を奪われた。
自分より大人で紳士だと思っていた婚約者。
こんな子供のような笑顔を見るのは初めてだ。
結局2人の交際については、そのまま保留になった。
親が決めた結婚式の日程だけは白紙に戻してもらうことにした。
婚約者は「まだ恋人気分を味わいたいと言っておきます」と笑っていた。
予想外の展開に、杏は未だ呆然としていた。
どうにもうまく丸め込まれた気がする。
それでいて婚約解消にならなかったことに、どこかホッとしている自分にさらに困惑した。
*****
「俺、君だけだから何て言われたの、初めてなんですよ!」
律に真剣な顔でそう訴えられて、高野は深いため息をついた。
吉川千春の原稿を盗んだ犯人が判明してから。
エメラルド編集部では一気に色々なことが動いた。
原稿は無事に戻り、次の表紙を飾れることができそうだ。
だがその条件として、吉川千春は次の担当を小野寺律を指名してきたのだ。
そして羽鳥が高野の後の編集長にと名乗りを上げた。
さらに今までまったく動きを見せなかった美濃までが、編集長になりたいと言い出した。
高野としては、期待以上の展開に気分がよかった。
やはり今のエメラルド編集部のメンバーを見渡す限り、編集長に最適なのは羽鳥だ。
だが羽鳥本人がデット常習者、吉川千春-吉野の担当にこだわるなら、編集長の仕事は無理だろう。
高野としては、羽鳥にはもう1つ上の立場で編集を仕切らせてやりたい。
そのためにも羽鳥と吉野が仕事よりも2人の関係を最優先していくのは、いいことではないと思っていた。
だからこそ羽鳥が前向きな決断をしたことが嬉しかった。
おそらく吉野と2人で、真剣に考えた結果なのだろう。
木佐は別にやりたい道をみつけて、それに向かって進む決意をしたようだ。
残念ながらそちらに進めば、もう仕事を一緒にする機会もないかもしれない。
それでも仲間なのだし、できるだけ応援したいと思っている。
高野の予想外は1歩引いて状況を観察していた美濃までも、編集長になると言い出したのだ。
実は羽鳥が編集長になった時、副編集長を誰にするか迷っていた。
他の道に進む木佐や、1度仕事を離れた律では無理がある。
消去法で美濃だが、だがどこまで本気か底が見えない男なのだ。
だが前向きなやる気を見せてくれたことで、信頼度が増した。
あとは律を編集部に戻せば、完璧だ。
しかも吉野が「律を担当に」と条件を出してくれた。
これも嬉しい誤算の1つだ。
律がもう辞表を出したのだからとゴネても、作家の要望だといえば丸め込める。
会社から帰った高野は、意気揚々と律の部屋に乗り込んだ。
「なるべく早く編集部に戻れ。」
轟然とそう言い放つ高野に、案の定律は「ちょっと、それは」と言い澱む。
ここまでは高野の予想通りだ。
だが律は「コンビニ、今、人手が足りないんですよ」と言い出したのだ。
これはまったく高野の想定にはない反応だ。
「コンビニのバイトなんて、何とでもなるだろ?」
「簡単に見えるけど、大変な仕事なんですよ!そう簡単にいきません!」
「大変なら、俺が店と話をつけてもいいんだそ。」
「そんな強引な。まさか高野さんは編集者の方がコンビニ店員より偉いなんて思ってるんですか?」
律の思わぬ反論に、高野はタジタジだった。
「俺、君だけだから何て言われたの、初めてなんですよ!」
律に真剣な顔でそう訴えられて、高野は深いため息をついた。
どうやらコンビニの店長は、律を高く評価してるらしい。
エメラルド編集部の面々は高野を含めて全員、律を褒めるよりからかう方が多い。
真面目な律がいちいち過度に反応するのが面白くて、さらにからかうのだ。
だからこそ「君だけだから」などと口説くように求められたら、頑張りたくなる気持ちもわかる。
「戻る気はあるよな?」
念を押すようにそう聞くと、律は少し躊躇った後にコクリと頷いた。
その様子を見て高野はホッとする。
律の居場所はやはりエメラルド編集部であるということは、本人もわかっているらしい。
「じゃあ店とよく相談して、いつ戻れるのか決めろよ。俺もそこまでは残るし。」
高野は諦めてそう言った。
何と高野は自分の異動日を、律の復帰に合わせて調整するつもりなのだ。
そのことに気がついた律は、驚きで大きな目をさらに思いっきり見開いていた。
「そんなこと、できるんですか?」
「仕方ないだろ。お前が戻ってくる時にはまだエメラルドの編集長でいたいんだから。」
思いがけない甘い言葉に律の頬が赤く染まった。
高野は律の髪に手を伸ばすと、サラサラとした髪の感触を確かめるようになでる。
律は赤い顔のまま高野を見上げて、照れくさそうに笑った。
職場が別々になり、2人が一緒にいる時間は減ってしまう。
だけど2人の距離は開くことなく、ますます近づいていくだろう。
高野も律もそんな予感に胸を熱くしながら、恋人の顔を見つめていた。
【続く】