プロポーズ10題sideA
【頑張る】
高野はコンビニの店内へと足を踏み入れた。
レジの中から学生アルバイトらしき若い女性店員が「いらっしゃませ」と笑顔を向けてくる。
イケメンの客の登場に、彼女の笑顔は通常の5割増だ。
だが高野は女性店員には見向きもしなかった。
ゆっくりと店内を見回し、目当ての人物が雑誌の棚の前にいるのを見つけた。
客が立ち読みしたせいで少々乱雑になってしまった本や雑誌を、揃えて並べ直す。
ただそれだけのことなのに、真剣な表情だ。
高野はそんな風に何にでも頑張る姿を見ると、改めて好きだと思う。
高野の恋人である律から、コンビニの店員になったと聞かされた時には驚いた。
しかも相談もなく、事後報告だ。
会社に辞表を出したその翌日には、律は履歴書持参でコンビニに足を運んでいた。
面接を受け、即日採用で働き始めていた。
「コンビニの店員さんが引ったくり犯を見たそうなんです。もう1度見たらわかるかもって。」
高野は理由を聞かされて、もう一度驚いた。
吉川千春の原稿を引ったくりに盗まれた律が、考えた末に出した結論。
それは引ったくりを目撃した店員の力を借りて犯人を見つけ、原稿を取り返すことだった。
犯人を捕まえられる可能性は低いし、仮に見つかっても今も原稿を持っているとは限らない。
犯罪の証拠となるものだし、捨ててしまっている可能性が高いだろう。
「盗られてしまった吉川先生の原稿、すごく素敵だったんですよ。」
高野が原稿を取り返せる可能性が低いことを指摘すると、律は悔しそうにそう言った。
そう言えば幻となってしまった吉野の原稿の出来を知っているのは、編集部では律だけだ。
「可能性が低くても出来ることは全部やりたいんです。ファンは絶対見たいはずです。」
律がキッパリとそう言い切ったのを見て、高野はもう律の好きにさせるしかないと思った。
編集者として傑作を世に出したいという思いは止められない。
しかも律はやると決めたら、無理でもなんでも強引にやり遂げてしまう直球勝負の男なのだ。
だから高野は黙って見守ることにしていた。
こうして時間があれば顔を出し、売上に貢献している。
「あ、高野さん。いらっしゃいませ。」
雑誌を綺麗に並べ終えた律が、高野に気づいた。
最初はぎこちなかった営業用の笑顔も、今ではすっかりサマになっている。
コンビニのカラフルな制服は律に案外似合っており、編集部にいた頃よりかわいい印象だ。
そのうちコスプレさせて、抱いてやろうか。
高野は最近そんなよからぬ計画を企てているのだが、律は知る由もなかった。
*****
頑張る。頑張らなくっちゃ。
杏は緊張に震える手をギュッと握り締めると、大きく息を吸い込んだ。
嫌なことだけど、相手を傷つけてしまうことだけど、逃げずに言わなくてはいけない。
杏は婚約者の自宅近くのカフェに来ていた。
婚約者の行きつけの店で、初めてのデートで連れてきてもらった店だ。
杏はその店に婚約者を呼び出したのだ。
約束の時間の30分も前に到着したのに、婚約者はすでに店に来ていた。
彼は待ち合わせのときはいつも杏より先にその場に来ている。
そんな心遣いを思い出すと、申し訳なく思う。
陽当りのよい窓際の席で彼と向かい合っていたが、会話も弾まず重苦しい雰囲気だった。
杏は頼んだ紅茶の味もわからないほど緊張していたし、相手にもそれは伝わっただろう。
いたたまれなくなった杏は、不意に勢いよく立ち上がった。
そしてほとんどテーブルに顔がつくほど深く頭を下げると「ごめんなさい!」とあやまった。
「婚約を解消して欲しいんです。」
精一杯声を張ったつもりだったが、語尾が震えてしまっている。
今になって杏は、律の気持ちがわかるような気がした。
好きな人がいるのに、別の誰かと婚約すること。
それは何と心が痛むことなのだろう。
婚約者を欺き、祝福してくれる両親や友人を欺き、自分自身さえ欺くのだから。
「前の婚約者の方を忘れられないんですか?」
律よりも年上で落ち着いた雰囲気を持つ婚約者が、穏やかにそう聞いた。
杏はゆっくりと顔を上げると「ごめんなさい」と呟く。
涙が零れそうになるのを、懸命に奥歯を噛みしめながらこらえた。
「実は僕も恋人と別れたばかりなんです。まだ彼女を完全に忘れられない。」
婚約者は困ったような表情でそう言った。
そして手で椅子を示して、立ち上がったままの杏に座るようにと促す。
杏は椅子に腰を下ろしながら「え?」と声を上げた。
「僕も同じなんです。彼女でないなら誰と結婚しても同じだと思っていました。」
「嘘。。。」
「嘘じゃないです。だから自分を責めないでください。ちゃんと話してくれたあなたは誠実な人です。」
「そうですか。」
悪戯っぽい表情で笑う婚約者を、杏は呆然と見ていた。
欺いていたのは自分だけではなかった。
そう思うと気は楽だが、結局この男にも愛されなかったのかと思うと切なくなる。
「そこで杏さん、提案なんですが。」
婚約者はコーヒーを口に運びながら、涼しい顔で切り出した。
杏は彼の「提案」を聞き、また頭を悩ませることになった。
*****
頑張る。今できるのはそれだけだ。
律は懸命にそう言い聞かせながら、コンビニで黙々と働いている。
引ったくり犯を捕まえるため、そして吉野の原稿を取り戻すためだ。
コンビニの仕事がこんなに大変だとは思わなかった。
律は毎日そう思いながら、働いている。
取り扱っている商品も多く、サービスも多様なコンビニは仕事が多い。
つまり覚えることがものすごく多いのだ。
ましてや小野寺出版の御曹司である律には、学生の頃に誰もが普通にしているアルバイトの経験がない。
つまり仕事と言えば編集しかしたことがない律には、コンビニの仕事はなかり大変だった。
エメラルド編集部のメンバーはかなりの頻度で顔を出す。
みんな心配してくれているのは嬉しいが、木佐や美濃などは冷やかしにきているとしか思えない。
制服姿の律を「かわいい」と茶化し、やいのやいのと仕事ぶりをチェックするからだ。
だが何かしら買ってくれるから、売り上げには貢献している。
だから軽々しく「来るな」とも言えない。
「小野寺さん、だいぶ慣れましたね。」
一緒にバイトに入っている大学生のアルバイト店員がそう言った。
彼こそがこの店の前で律が引ったくりにあったのを目撃した人物だ。
茶髪で一見チャラい印象の、いわゆる今風の「男の子」だ。
だが気のいい性格で、引ったくりの件では深く憤り、律には心から同情しているようだ。
そして犯人をもう1度見かけたらわかると思うから、そのときは教えると請け合ってくれた。
「おかげさまで。色々面倒を見てもらって感謝してます。」
律は年下の先輩に丁寧にそう答えた。
俺の方が年下なんですからタメ口でいいですよ、と彼は再三そう言ってくれる。
だが律は性格上、どうしてもそれができなかった。
いくらこっちが年上でも、この店では後輩なのだから。
「俺、早く小野寺さんの役に立ちたいんスけど。なかなか犯人現れないっスね。」
アルバイト店員が心底悔しそうにそう言った。
犯人は背が高くて、目つきが鋭い人物だったと彼は証言した。
それ以来大柄な男性客が来るたびに、律は身構えてしまっている。
「犯人って背が高かったんですよね?」
「ええ。小野寺さんと同じくらいありましたよ。」
何気ない質問に返ってきた答え。
それを聞いて律は「え?」と思わず聞き返した。
律と同じくらいで背が高いという表現はおかしい。
律は決して背が高い方ではなく、この年齢ではごくごく平均的な身長なのだ。
「その男、背が高いんですか?俺と同じくらいで?」
「いや。ひったくり犯は女ですよ?」
律は驚き、思わず「ええ~~??」と叫んだ。
アルバイト学生は「あれ?言ってませんでしたっけ?」と律と同じくらい驚いている。
どうやら基本的なところで、2人は考え違いをしていたようだ。
引ったくり犯は女。
律にとってそれはかなり衝撃的な事実だった。
もし犯人が男なら、金目当てとか憂さ晴らしとか通り魔的な犯行である可能性も高い。
だが女となると、どうも違うような気がする。
何かもっと違う意図を持って、犯行を企てた気がしてならない。
狙いは俺?それとも。
懸命に考え、そしてある可能性に思い至る。
まさか吉川千春の原稿狙いだったのではないか。
だとしたら吉野の身に何かよくないことが起こる可能性だってある。
落ち着け。どうすればいいか考えろ。
律は混乱しながら、懸命に自分にそう言い聞かせた。
【続く】
高野はコンビニの店内へと足を踏み入れた。
レジの中から学生アルバイトらしき若い女性店員が「いらっしゃませ」と笑顔を向けてくる。
イケメンの客の登場に、彼女の笑顔は通常の5割増だ。
だが高野は女性店員には見向きもしなかった。
ゆっくりと店内を見回し、目当ての人物が雑誌の棚の前にいるのを見つけた。
客が立ち読みしたせいで少々乱雑になってしまった本や雑誌を、揃えて並べ直す。
ただそれだけのことなのに、真剣な表情だ。
高野はそんな風に何にでも頑張る姿を見ると、改めて好きだと思う。
高野の恋人である律から、コンビニの店員になったと聞かされた時には驚いた。
しかも相談もなく、事後報告だ。
会社に辞表を出したその翌日には、律は履歴書持参でコンビニに足を運んでいた。
面接を受け、即日採用で働き始めていた。
「コンビニの店員さんが引ったくり犯を見たそうなんです。もう1度見たらわかるかもって。」
高野は理由を聞かされて、もう一度驚いた。
吉川千春の原稿を引ったくりに盗まれた律が、考えた末に出した結論。
それは引ったくりを目撃した店員の力を借りて犯人を見つけ、原稿を取り返すことだった。
犯人を捕まえられる可能性は低いし、仮に見つかっても今も原稿を持っているとは限らない。
犯罪の証拠となるものだし、捨ててしまっている可能性が高いだろう。
「盗られてしまった吉川先生の原稿、すごく素敵だったんですよ。」
高野が原稿を取り返せる可能性が低いことを指摘すると、律は悔しそうにそう言った。
そう言えば幻となってしまった吉野の原稿の出来を知っているのは、編集部では律だけだ。
「可能性が低くても出来ることは全部やりたいんです。ファンは絶対見たいはずです。」
律がキッパリとそう言い切ったのを見て、高野はもう律の好きにさせるしかないと思った。
編集者として傑作を世に出したいという思いは止められない。
しかも律はやると決めたら、無理でもなんでも強引にやり遂げてしまう直球勝負の男なのだ。
だから高野は黙って見守ることにしていた。
こうして時間があれば顔を出し、売上に貢献している。
「あ、高野さん。いらっしゃいませ。」
雑誌を綺麗に並べ終えた律が、高野に気づいた。
最初はぎこちなかった営業用の笑顔も、今ではすっかりサマになっている。
コンビニのカラフルな制服は律に案外似合っており、編集部にいた頃よりかわいい印象だ。
そのうちコスプレさせて、抱いてやろうか。
高野は最近そんなよからぬ計画を企てているのだが、律は知る由もなかった。
*****
頑張る。頑張らなくっちゃ。
杏は緊張に震える手をギュッと握り締めると、大きく息を吸い込んだ。
嫌なことだけど、相手を傷つけてしまうことだけど、逃げずに言わなくてはいけない。
杏は婚約者の自宅近くのカフェに来ていた。
婚約者の行きつけの店で、初めてのデートで連れてきてもらった店だ。
杏はその店に婚約者を呼び出したのだ。
約束の時間の30分も前に到着したのに、婚約者はすでに店に来ていた。
彼は待ち合わせのときはいつも杏より先にその場に来ている。
そんな心遣いを思い出すと、申し訳なく思う。
陽当りのよい窓際の席で彼と向かい合っていたが、会話も弾まず重苦しい雰囲気だった。
杏は頼んだ紅茶の味もわからないほど緊張していたし、相手にもそれは伝わっただろう。
いたたまれなくなった杏は、不意に勢いよく立ち上がった。
そしてほとんどテーブルに顔がつくほど深く頭を下げると「ごめんなさい!」とあやまった。
「婚約を解消して欲しいんです。」
精一杯声を張ったつもりだったが、語尾が震えてしまっている。
今になって杏は、律の気持ちがわかるような気がした。
好きな人がいるのに、別の誰かと婚約すること。
それは何と心が痛むことなのだろう。
婚約者を欺き、祝福してくれる両親や友人を欺き、自分自身さえ欺くのだから。
「前の婚約者の方を忘れられないんですか?」
律よりも年上で落ち着いた雰囲気を持つ婚約者が、穏やかにそう聞いた。
杏はゆっくりと顔を上げると「ごめんなさい」と呟く。
涙が零れそうになるのを、懸命に奥歯を噛みしめながらこらえた。
「実は僕も恋人と別れたばかりなんです。まだ彼女を完全に忘れられない。」
婚約者は困ったような表情でそう言った。
そして手で椅子を示して、立ち上がったままの杏に座るようにと促す。
杏は椅子に腰を下ろしながら「え?」と声を上げた。
「僕も同じなんです。彼女でないなら誰と結婚しても同じだと思っていました。」
「嘘。。。」
「嘘じゃないです。だから自分を責めないでください。ちゃんと話してくれたあなたは誠実な人です。」
「そうですか。」
悪戯っぽい表情で笑う婚約者を、杏は呆然と見ていた。
欺いていたのは自分だけではなかった。
そう思うと気は楽だが、結局この男にも愛されなかったのかと思うと切なくなる。
「そこで杏さん、提案なんですが。」
婚約者はコーヒーを口に運びながら、涼しい顔で切り出した。
杏は彼の「提案」を聞き、また頭を悩ませることになった。
*****
頑張る。今できるのはそれだけだ。
律は懸命にそう言い聞かせながら、コンビニで黙々と働いている。
引ったくり犯を捕まえるため、そして吉野の原稿を取り戻すためだ。
コンビニの仕事がこんなに大変だとは思わなかった。
律は毎日そう思いながら、働いている。
取り扱っている商品も多く、サービスも多様なコンビニは仕事が多い。
つまり覚えることがものすごく多いのだ。
ましてや小野寺出版の御曹司である律には、学生の頃に誰もが普通にしているアルバイトの経験がない。
つまり仕事と言えば編集しかしたことがない律には、コンビニの仕事はなかり大変だった。
エメラルド編集部のメンバーはかなりの頻度で顔を出す。
みんな心配してくれているのは嬉しいが、木佐や美濃などは冷やかしにきているとしか思えない。
制服姿の律を「かわいい」と茶化し、やいのやいのと仕事ぶりをチェックするからだ。
だが何かしら買ってくれるから、売り上げには貢献している。
だから軽々しく「来るな」とも言えない。
「小野寺さん、だいぶ慣れましたね。」
一緒にバイトに入っている大学生のアルバイト店員がそう言った。
彼こそがこの店の前で律が引ったくりにあったのを目撃した人物だ。
茶髪で一見チャラい印象の、いわゆる今風の「男の子」だ。
だが気のいい性格で、引ったくりの件では深く憤り、律には心から同情しているようだ。
そして犯人をもう1度見かけたらわかると思うから、そのときは教えると請け合ってくれた。
「おかげさまで。色々面倒を見てもらって感謝してます。」
律は年下の先輩に丁寧にそう答えた。
俺の方が年下なんですからタメ口でいいですよ、と彼は再三そう言ってくれる。
だが律は性格上、どうしてもそれができなかった。
いくらこっちが年上でも、この店では後輩なのだから。
「俺、早く小野寺さんの役に立ちたいんスけど。なかなか犯人現れないっスね。」
アルバイト店員が心底悔しそうにそう言った。
犯人は背が高くて、目つきが鋭い人物だったと彼は証言した。
それ以来大柄な男性客が来るたびに、律は身構えてしまっている。
「犯人って背が高かったんですよね?」
「ええ。小野寺さんと同じくらいありましたよ。」
何気ない質問に返ってきた答え。
それを聞いて律は「え?」と思わず聞き返した。
律と同じくらいで背が高いという表現はおかしい。
律は決して背が高い方ではなく、この年齢ではごくごく平均的な身長なのだ。
「その男、背が高いんですか?俺と同じくらいで?」
「いや。ひったくり犯は女ですよ?」
律は驚き、思わず「ええ~~??」と叫んだ。
アルバイト学生は「あれ?言ってませんでしたっけ?」と律と同じくらい驚いている。
どうやら基本的なところで、2人は考え違いをしていたようだ。
引ったくり犯は女。
律にとってそれはかなり衝撃的な事実だった。
もし犯人が男なら、金目当てとか憂さ晴らしとか通り魔的な犯行である可能性も高い。
だが女となると、どうも違うような気がする。
何かもっと違う意図を持って、犯行を企てた気がしてならない。
狙いは俺?それとも。
懸命に考え、そしてある可能性に思い至る。
まさか吉川千春の原稿狙いだったのではないか。
だとしたら吉野の身に何かよくないことが起こる可能性だってある。
落ち着け。どうすればいいか考えろ。
律は混乱しながら、懸命に自分にそう言い聞かせた。
【続く】