プロポーズ10題sideA
【義理の親】
「杏ちゃん、おめでとう。」
「幸せになってね。」
小さい頃から実の子供のように優しくしてくれた2人が嬉しそうに笑う。
この人たちが義理の親になるならどんなにいいだろうと、杏は心からそう思った。
杏は両親と共に、律の実家である小野寺家に来ていた。
家族ぐるみの付き合いである小野寺の両親に、婚約の報告に来たのだ。
本来だったら、婚約者も連れて来るべきなのだろう。
だがさすがにそれは少々悪趣味すぎる。
杏は元々ここの1人息子である律と婚約していたのだから。
同じ理由で、律もこの場には同席していない。
何度も訪れている日当たりのいい小野寺邸の応接間で、2組の両親が談笑している。
その光景を杏はどこか白けた気分で眺めていた。
律の一方的な申し出で婚約が解消されたとき、彼らは怒り、悲しんでいたのに。
その同じ人たちが別の人との婚約をこんなにも喜んでいるのは、滑稽でならない。
結局誰でもいいのかと思ってしまう。
「ちょっと失礼します。」
居たたまれなくなった杏は、席を立った。
勝手知ったる家だし、親たちはトイレにでも立ったと思ってくれるだろう。
杏が向かったのは、かつての婚約者の部屋。
小さい頃から何度も訪れている懐かしい場所に、杏はそっと足を踏み入れた。
「律っちゃんと、結婚したかったなぁ。。。」
杏はベットに腰掛けると、ポツリとそう呟いた。
部屋の主はいないのに掃除が行き届いている部屋は、何だかひどく空虚な気がする。
まるで自分の心のようだと杏は思う。
「杏ちゃん?」
控え目なノックと共に声をかけられて、ドアが開いた。
顔をのぞかせたのは、律の母親だった。
杏は慌てて「ごめんなさい!勝手に!」と立ち上がろうとする。
だけど律の母は緩やかに笑って「いいのよ」と答えると、杏の隣に腰を下ろす。
「杏ちゃん、もしかして迷ってるの?」
真っ直ぐに核心をつかれて、杏は思わず俯いてしまう。
はっきりとは言わないが、おそらくは見抜かれてしまっただろう。
杏はまだ律のことが好きであることを。
「杏ちゃん、律のこと、本当にごめんなさいね。」
「おばさま。。。」
「杏ちゃん、今の婚約者の方のこと、好き?」
思わぬ質問に、杏は答えに詰まった。
未だに律のことばかりを考えている杏は、今の婚約者とまともに向かい合っていないのだ。
「杏ちゃんは、律以上に愛せる人を見つけなくちゃダメよ。」
「律っちゃん、以上?」
「そうよ。かわいい奥様になって律を後悔させてやるの。どうしてこんないいコ逃したんだってね。」
悪戯っぽく笑うその顔は、律によく似ている。
杏はその笑顔に胸が張り裂けそうになりながらも、その言葉の意味について考えた。
律以上に愛せる人。
そんなことは今は考えられない。
だがこのまま気持ちが負の方向に流されてはいけないのではないだろうか。
実の娘のように杏の幸せを考えてくれるこの人のためにも。
*****
「その後、いかがですか?」
その人は笑顔でそう問いかけてくる。
律もまた「大丈夫です」と笑顔で答えた。
律は退院後の検診のため、再び病院に来ていた。
まったく皮肉なものだと思う。
この病院は土日祭日は救急を除けば休診なのだ。
入院のために会社を休んでしまったのに、また通院のために休むのだから、仕事のやりくりが大変。
そんな心配をしていたのに、通院の前に辞表を出してしまったのだから。
「腕の捻挫はどうですか?」
「はい、もうほとんど痛まないです。」
それもまた皮肉な話だ。
仕事をしているときには結構つらかったのに、辞表を出したら嘘みたいに痛みが消えた。
最初からこうだったら、あのとき引ったくりに狙われることもなかっただろう。
律は下唇を噛みしめると、ネガティブに傾きそうな気持ちを引き締めた。
今日は単に診察だけではなく、他にしなくてはならないことがある。
「額の傷も、もうほとんど治ってますね。」
律の担当医師、嵯峨はおそらく律の倍以上の年齢の人だろう。
それなのに、若い律にもていねいに声をかけてくれる。
仕事と言ってしまえばそれまでだが、事務的なだけという感じではない。
それなりに心から律を心配してくれているような気がする。
この嵯峨医師が高野の父親なら。
高野は自分の両親は、自分に無関心な冷たい人たちだと言っていた。
だが律には目の前のこの人物が家庭のことなど顧みない、冷たい人物には見えない。
律は思い切って「あの」と切り出した。
嵯峨医師は「何かありますか?」と笑顔で応じてくれる。
「俺の信頼する先輩に高野政宗という人がいます。旧姓は嵯峨です。」
「高野。。。政宗?」
嵯峨医師の表情が、かすかに揺らいだ。
それは苦笑しているようにも、悲しんでいるようにも見える。
あまりにも小さな変化だったが、律にはわかった。
間違いなくこの人は、高野の義理の父親だ。
「元気でやってる。そう伝えて欲しいって言われました。」
嵯峨医師はじっと黙って律の目を見た。
律の目や表情から、現在の高野の様子を探ろうとしているのかもしれない。
それならば、高野への想いを込めて笑うだけだ。
彼と出逢えたことで、心の底から幸せなのだと伝わるように。
*****
「どういうことなのか聞きたいと思ったので。」
静かだが有無を言わせぬその口調には、やはり迫力がある。
だが高野は表情は変えずに、その人と向かい合っていた。
律が辞表を出して会社を去った2日後、高野は専務取締役である井坂の部屋に呼ばれた。
てっきり早く後任の編集長を決めろと催促されると思ったのに。
井坂と共に高野を待っていたのは、中年の男性だった。
一目見ただけで誰だかすぐにわかったのは、律と面差しがよく似ていたせいだろう。
「小野寺です。律がお世話になったそうだね。」
小野寺出版の社長である律の父親が、わざわざ訪ねてきたのだ。
高野は短く名乗ると、井坂に促されるままに小野寺社長の正面に腰を下ろした。
すると井坂は気を利かせるつもりのようで「ごゆっくり」と部屋を出て行ってしまった。
「律は会社を辞めたと言っていた。理由は今度帰ったときに説明するとしか言わなかった。」
「はい」
「だが龍一郎君、いや井坂専務に聞いたら、律の辞表は提出されていないと。」
「はい」
高野は小野寺社長の言葉に、ていねいに頷いた。
確かに辞表は会社には提出されていない。
なぜならまだ高野が持っているのだから。
「どういうことなのか聞きたいと思ったので、こうして出向いてきたんだ。」
小野寺社長、いや律の父親は困ったように「親バカだろう?」と笑う。
だが高野は「当然のご心配だと思います」と真剣な表情でそう答えた。
確かに会社を辞める云々で親がいちいち会社に押しかけるなど、普通はありえない。
こういうのもきっと律は「七光り」だと言って、嫌うのだろう。
だけど両親の愛情をほとんど感じることもなく育った高野からすれば、うらやましいことだ。
こういう愛情が律を魅力的な人間に育てたのだろう。
「ちょっと問題がありまして。小野寺、いえ律君は巻き込まれたんです。」
律のことを「律君」などと呼ぶのはちょっと気恥ずかしい気分だが仕方がない。
だが小野寺社長は、それを特に気にすることなかった。
むしろ高野が言った「問題」という言葉に顔をしかめた。
「問題とは?」
「律君がいつか話すと思います。それまで待ってあげてくれませんか?」
律は父親に「理由は今度帰ったときに説明する」と言ったのだから、高野が先に言うべきではないだろう。
「俺はその問題が解決した時点で、律君に辞表を返すつもりです。だから会社に出していません。」
高野は、まだ律本人にさえ告げていないことを言った。
小野寺社長は高野を自宅なり会社なりに呼びつけることだって出来たのに、わざわざ丸川書店に来た。
そんな親心に、高野なりに敬意を表したつもりだった。
小野寺社長が驚いたように、高野を見る。
律を生涯の伴侶と思っている高野にとって、律の父親は義理の親。
そんな気持ちを込めて、高野は小野寺社長を真っ直ぐに見つめ返した。
【続く】
「杏ちゃん、おめでとう。」
「幸せになってね。」
小さい頃から実の子供のように優しくしてくれた2人が嬉しそうに笑う。
この人たちが義理の親になるならどんなにいいだろうと、杏は心からそう思った。
杏は両親と共に、律の実家である小野寺家に来ていた。
家族ぐるみの付き合いである小野寺の両親に、婚約の報告に来たのだ。
本来だったら、婚約者も連れて来るべきなのだろう。
だがさすがにそれは少々悪趣味すぎる。
杏は元々ここの1人息子である律と婚約していたのだから。
同じ理由で、律もこの場には同席していない。
何度も訪れている日当たりのいい小野寺邸の応接間で、2組の両親が談笑している。
その光景を杏はどこか白けた気分で眺めていた。
律の一方的な申し出で婚約が解消されたとき、彼らは怒り、悲しんでいたのに。
その同じ人たちが別の人との婚約をこんなにも喜んでいるのは、滑稽でならない。
結局誰でもいいのかと思ってしまう。
「ちょっと失礼します。」
居たたまれなくなった杏は、席を立った。
勝手知ったる家だし、親たちはトイレにでも立ったと思ってくれるだろう。
杏が向かったのは、かつての婚約者の部屋。
小さい頃から何度も訪れている懐かしい場所に、杏はそっと足を踏み入れた。
「律っちゃんと、結婚したかったなぁ。。。」
杏はベットに腰掛けると、ポツリとそう呟いた。
部屋の主はいないのに掃除が行き届いている部屋は、何だかひどく空虚な気がする。
まるで自分の心のようだと杏は思う。
「杏ちゃん?」
控え目なノックと共に声をかけられて、ドアが開いた。
顔をのぞかせたのは、律の母親だった。
杏は慌てて「ごめんなさい!勝手に!」と立ち上がろうとする。
だけど律の母は緩やかに笑って「いいのよ」と答えると、杏の隣に腰を下ろす。
「杏ちゃん、もしかして迷ってるの?」
真っ直ぐに核心をつかれて、杏は思わず俯いてしまう。
はっきりとは言わないが、おそらくは見抜かれてしまっただろう。
杏はまだ律のことが好きであることを。
「杏ちゃん、律のこと、本当にごめんなさいね。」
「おばさま。。。」
「杏ちゃん、今の婚約者の方のこと、好き?」
思わぬ質問に、杏は答えに詰まった。
未だに律のことばかりを考えている杏は、今の婚約者とまともに向かい合っていないのだ。
「杏ちゃんは、律以上に愛せる人を見つけなくちゃダメよ。」
「律っちゃん、以上?」
「そうよ。かわいい奥様になって律を後悔させてやるの。どうしてこんないいコ逃したんだってね。」
悪戯っぽく笑うその顔は、律によく似ている。
杏はその笑顔に胸が張り裂けそうになりながらも、その言葉の意味について考えた。
律以上に愛せる人。
そんなことは今は考えられない。
だがこのまま気持ちが負の方向に流されてはいけないのではないだろうか。
実の娘のように杏の幸せを考えてくれるこの人のためにも。
*****
「その後、いかがですか?」
その人は笑顔でそう問いかけてくる。
律もまた「大丈夫です」と笑顔で答えた。
律は退院後の検診のため、再び病院に来ていた。
まったく皮肉なものだと思う。
この病院は土日祭日は救急を除けば休診なのだ。
入院のために会社を休んでしまったのに、また通院のために休むのだから、仕事のやりくりが大変。
そんな心配をしていたのに、通院の前に辞表を出してしまったのだから。
「腕の捻挫はどうですか?」
「はい、もうほとんど痛まないです。」
それもまた皮肉な話だ。
仕事をしているときには結構つらかったのに、辞表を出したら嘘みたいに痛みが消えた。
最初からこうだったら、あのとき引ったくりに狙われることもなかっただろう。
律は下唇を噛みしめると、ネガティブに傾きそうな気持ちを引き締めた。
今日は単に診察だけではなく、他にしなくてはならないことがある。
「額の傷も、もうほとんど治ってますね。」
律の担当医師、嵯峨はおそらく律の倍以上の年齢の人だろう。
それなのに、若い律にもていねいに声をかけてくれる。
仕事と言ってしまえばそれまでだが、事務的なだけという感じではない。
それなりに心から律を心配してくれているような気がする。
この嵯峨医師が高野の父親なら。
高野は自分の両親は、自分に無関心な冷たい人たちだと言っていた。
だが律には目の前のこの人物が家庭のことなど顧みない、冷たい人物には見えない。
律は思い切って「あの」と切り出した。
嵯峨医師は「何かありますか?」と笑顔で応じてくれる。
「俺の信頼する先輩に高野政宗という人がいます。旧姓は嵯峨です。」
「高野。。。政宗?」
嵯峨医師の表情が、かすかに揺らいだ。
それは苦笑しているようにも、悲しんでいるようにも見える。
あまりにも小さな変化だったが、律にはわかった。
間違いなくこの人は、高野の義理の父親だ。
「元気でやってる。そう伝えて欲しいって言われました。」
嵯峨医師はじっと黙って律の目を見た。
律の目や表情から、現在の高野の様子を探ろうとしているのかもしれない。
それならば、高野への想いを込めて笑うだけだ。
彼と出逢えたことで、心の底から幸せなのだと伝わるように。
*****
「どういうことなのか聞きたいと思ったので。」
静かだが有無を言わせぬその口調には、やはり迫力がある。
だが高野は表情は変えずに、その人と向かい合っていた。
律が辞表を出して会社を去った2日後、高野は専務取締役である井坂の部屋に呼ばれた。
てっきり早く後任の編集長を決めろと催促されると思ったのに。
井坂と共に高野を待っていたのは、中年の男性だった。
一目見ただけで誰だかすぐにわかったのは、律と面差しがよく似ていたせいだろう。
「小野寺です。律がお世話になったそうだね。」
小野寺出版の社長である律の父親が、わざわざ訪ねてきたのだ。
高野は短く名乗ると、井坂に促されるままに小野寺社長の正面に腰を下ろした。
すると井坂は気を利かせるつもりのようで「ごゆっくり」と部屋を出て行ってしまった。
「律は会社を辞めたと言っていた。理由は今度帰ったときに説明するとしか言わなかった。」
「はい」
「だが龍一郎君、いや井坂専務に聞いたら、律の辞表は提出されていないと。」
「はい」
高野は小野寺社長の言葉に、ていねいに頷いた。
確かに辞表は会社には提出されていない。
なぜならまだ高野が持っているのだから。
「どういうことなのか聞きたいと思ったので、こうして出向いてきたんだ。」
小野寺社長、いや律の父親は困ったように「親バカだろう?」と笑う。
だが高野は「当然のご心配だと思います」と真剣な表情でそう答えた。
確かに会社を辞める云々で親がいちいち会社に押しかけるなど、普通はありえない。
こういうのもきっと律は「七光り」だと言って、嫌うのだろう。
だけど両親の愛情をほとんど感じることもなく育った高野からすれば、うらやましいことだ。
こういう愛情が律を魅力的な人間に育てたのだろう。
「ちょっと問題がありまして。小野寺、いえ律君は巻き込まれたんです。」
律のことを「律君」などと呼ぶのはちょっと気恥ずかしい気分だが仕方がない。
だが小野寺社長は、それを特に気にすることなかった。
むしろ高野が言った「問題」という言葉に顔をしかめた。
「問題とは?」
「律君がいつか話すと思います。それまで待ってあげてくれませんか?」
律は父親に「理由は今度帰ったときに説明する」と言ったのだから、高野が先に言うべきではないだろう。
「俺はその問題が解決した時点で、律君に辞表を返すつもりです。だから会社に出していません。」
高野は、まだ律本人にさえ告げていないことを言った。
小野寺社長は高野を自宅なり会社なりに呼びつけることだって出来たのに、わざわざ丸川書店に来た。
そんな親心に、高野なりに敬意を表したつもりだった。
小野寺社長が驚いたように、高野を見る。
律を生涯の伴侶と思っている高野にとって、律の父親は義理の親。
そんな気持ちを込めて、高野は小野寺社長を真っ直ぐに見つめ返した。
【続く】