プロポーズ10題sideA
【諦めるものか】
わだかまりを消して、開いていた2人の距離を埋めたい。
高野はそんな思いを込めて、静かに律を見つめていた。
バーで酒を飲んでいた高野と横澤が急いでやって来たのは、深夜の病院だった。
律が階段から転落して救急車で搬送されたと聞いて、駆けつけてきたのだった。
今夜の当直だという救急医によると、どうやら大事にはいたっていないという。
律は転落した時に頭を打ち、右腕を捻ったようだが、幸いにも骨には異常はなかった。
それでも脳震盪を起こしているので、念のために2日ほど検査入院することになった。
「ここだな」
声を潜めた横澤の言葉に、高野は黙って頷いた。
教えてもらった病室は扉の横のプレートに「小野寺律様」と名前が書かれている。
深夜ではあるが個室なので、短い時間で静かにするならという条件で面会を許されたのだ。
「俺は待合室で待ってるから、顔を見て来いよ。」
病室の前まで来たのに、横澤はそのままくるりと背を向けると廊下を戻っていく。
高野は横澤のさり気ない気配りに感謝しながら、音を立てないようにそっと病室の扉を開けた。
灯りが落とされた病室でまず目に飛び込んできたのは、額に巻かれた白い包帯。
ベットに横たわる痛々しい律の姿を見て、高野は胸が痛んだ。
元々小顔のせいなのか、包帯が巻かれている部分がやけに広く感じる。
近づいてみると、毛布の上に投げ出された右腕にも白い包帯が巻かれていた。
いくら医師に大したことはないと言われても、やはり心配だ。
愛おしさと切なさが同時にこみ上げて来た高野は小さく「律」と呟いた。
その瞬間、眠っていたと思っていた律が目を開けて、高野を見上げた。
「悪い。起こしたか?」
高野が声を潜めてそう聞くと、最初はぼんやりしていた律の目が次第に驚きで見開かれた。
慌てて起き上がろうとする律を、高野は「いいから」と手でそっと押し留めた。
「わざわざ。。。来てくれたんですか?」
「当たり前だろ」
「もう夜遅いのに。。。」
「関係ねーよ。」
怪我をして弱っているせいか、律の瞳は頼りなく揺れていた。
高野はパイプ椅子に腰を下ろすと、怪我をしていない左手をそっと握った。
本当は頭をなでで、やわらかい髪に触れたかったが、頭を撃っているのだからと我慢した。
そっと握り返してくれる高野より一回り小さい律の手が、愛おしい。
わだかまりを消して、開いていた2人の距離を埋めたい。
高野はそんな思いを込めて、静かに律を見つめていた。
*****
「杏ちゃん、こんなところにいていいの?」
「そんなに邪魔にすることないじゃない。」
杏は顎を引くと、上目遣いに律を見た。
そんな恋人に甘えるような素振りを見せられて、律は困惑した。
律が怪我のことを両親に連絡したのは、翌日のことだ。
その日のうちに駆けつけてきた高野は、親に連絡しようかと申し出てくれた。
高野は律の上司だし、落ちたのは会社の階段なのだからと。
だが律は「自分で出来ますよ」とことわった。
高野をわずらわせたくないし、親にも余計な心配をさせたくない。
律は翌日に自分で親に連絡し、大したことはないのだと何度も強調した。
あくまで検査入院で明日には退院するから、病院には来てくれるなと。
それなのに病院に駆けつけてきたのは、なぜか婚約を解消したはずの杏だった。
「邪魔になんかしないけど。忙しいんじゃないかと思って。」
律は思ったことを正直に答えた。
平日だから友人や仕事仲間は仕事で来られないし、親にも来ないように言った。
たった2泊の入院なので、特に時間を潰すようなものも持ち込んでいない。
つまり暇なわけで、話し相手がいるのはありがたい。
だが杏はすでに新たな婚約者と挙式の準備中のはずだ。
元婚約者の病室で、こんな風に時間を過ごしていていいのだろうか?
「あの人は来てくれないの?」
杏は探るように律を見ながら、そう聞いてきた。
あの人。名前を言わなくても杏がわかる。
隣人であり、恋人である高野のことだ。
「忙しいからね。仕方ないよ。」
律はそう言って、微笑した。
本当は律が病院に運び込まれた後、駆けつけて来てくれた。
1人で心細かったときに手を握ってくれたのが、すごく嬉しかった。
本当は今日も会社を休むと言ってくれたが、律がそれを止めたのだ。
いろいろ迷ったが、やっぱり高野が好きだと思う。
だがさすがに元婚約者にそんなことを言うつもりはなかった。
諦めるものか。
律は杏が秘かにそう思ったことに気がつかなかった。
深夜にも関わらず高野が来たことを知らない杏は、高野のことを冷たいと決め付けた。
恋人が入院しているのに、見舞いに来ないなどありえない。
そんな歪んだフィルターを通してしまうと、律の穏やかな微笑さえ寂しげに見える。
まだ割り込む余地がある、身を引く必要はないのではないかと思ってしまう。
「でも久しぶりに杏ちゃんの顔が見られたから、よかった。」
律の笑顔と言葉が、また杏を迷わせる。
だが律はまったくそんなことには思い至らずに、柔らかい物腰で杏に接していた。
*****
「残念だが、そういうことだ。」
高野はつとめてさり気ない口調でそう言った。
だが木佐は「まぁわかってたし」と、特に残念そうでもない口振りで答えた。
律が病院で杏と向かい合っている頃、高野は会社にいた。
エメラルド編集部の面々を集めて、急遽の会議だ。
その場で律が昨晩階段から落ちて怪我をしたことを話した。
そして会議が終わった後、高野は木佐だけを残し、2人で向かい合っていた。
「美術雑誌は欠員がない。今、売れ行きが落ちてるし、増員の予定もないらしい。」
「だよねぇ。。。美大卒も最近採用してないらしいし。」
「残念だが、そういうことだ。」
「まぁわかってたし」
木佐は美術雑誌への異動を希望したので、高野はそれを打診した。
だがそもそも専門的な部署である上に、部数も落ちているという理由で断られたのだ。
高野はそれを木佐に伝えると、木佐は冷静に受け止めた。
ダメ元で出した異動願いであり、断られるのは覚悟の上だったようだ。
「美大卒の専門要員を採ってないんだ。逆に言えば、欠員が出たときはチャンスだぞ。」
「そうだね。今回はダメだったけど、異動願いは出し続けるよ。」
諦めるもんか、と拳を握る木佐に、高野は苦笑した。
なぜそんなに美術に行きたいのかは知らないが、木佐にもきっと大事なものがあるのだろう。
「あのさ、さっきの律っちゃんの話だけど。」
今度は木佐が、話を高野に振ってきた。
全員が揃っている席で、高野は他の編集部員たちにある可能性の話をした。
それは律が不注意で転落したのではなく、誰かに転落させられたのではないかという可能性だ。
昨晩律の手を握っていた高野は、律が眠ったのを見て、そっと帰宅しようとした。
そのときにふと床に置いてあった律の靴が目に入ったのだ。
茶色いローファーの側面に、一直線に長い不自然な傷がついていた。
このローファーはよく律が履いているのを見るが、こんな傷はなかったはずだ。
もしかして階段のところに誰かが紐か糸でも張っていて、転ばされた?
確認しようにも律は眠ってしまったし、起こすのはかわいそうだ。
だから確認は後日することにして、編集部のメンバーにだけは先に伝えたのだった。
靴の傷だけで考えすぎかもしれないが、用心するに越したことはない。
「サファイア文庫の編集長様がさ、気になることを言ってたんだ。」
木佐は同年代のサファイア文庫の編集長とは軽口を叩き合う仲だ。
昨日たまたま残っていて、律を見つけてくれた彼女と話をしたらしい。
「ちょうど律っちゃんが帰る頃、エレベーターに点検中の札がかかってたらしいんだ。」
「え?かなり遅いだろ?」
「うん。そんな時間に業者なんか来ないでしょ?だからおかしいと思ったんだって。」
「まさか。。。」
まさかと思い、心の底ではあって欲しくないと願ってきた可能性。
それは誰かが律をエレベータに札をかけて階段に誘導し、仕掛けを作って転ばせたということだ。
そしてそれが律を狙ったものだとしたら。
高野は動揺を抑えながら、懸命に考えを巡らせた。
【続く】
わだかまりを消して、開いていた2人の距離を埋めたい。
高野はそんな思いを込めて、静かに律を見つめていた。
バーで酒を飲んでいた高野と横澤が急いでやって来たのは、深夜の病院だった。
律が階段から転落して救急車で搬送されたと聞いて、駆けつけてきたのだった。
今夜の当直だという救急医によると、どうやら大事にはいたっていないという。
律は転落した時に頭を打ち、右腕を捻ったようだが、幸いにも骨には異常はなかった。
それでも脳震盪を起こしているので、念のために2日ほど検査入院することになった。
「ここだな」
声を潜めた横澤の言葉に、高野は黙って頷いた。
教えてもらった病室は扉の横のプレートに「小野寺律様」と名前が書かれている。
深夜ではあるが個室なので、短い時間で静かにするならという条件で面会を許されたのだ。
「俺は待合室で待ってるから、顔を見て来いよ。」
病室の前まで来たのに、横澤はそのままくるりと背を向けると廊下を戻っていく。
高野は横澤のさり気ない気配りに感謝しながら、音を立てないようにそっと病室の扉を開けた。
灯りが落とされた病室でまず目に飛び込んできたのは、額に巻かれた白い包帯。
ベットに横たわる痛々しい律の姿を見て、高野は胸が痛んだ。
元々小顔のせいなのか、包帯が巻かれている部分がやけに広く感じる。
近づいてみると、毛布の上に投げ出された右腕にも白い包帯が巻かれていた。
いくら医師に大したことはないと言われても、やはり心配だ。
愛おしさと切なさが同時にこみ上げて来た高野は小さく「律」と呟いた。
その瞬間、眠っていたと思っていた律が目を開けて、高野を見上げた。
「悪い。起こしたか?」
高野が声を潜めてそう聞くと、最初はぼんやりしていた律の目が次第に驚きで見開かれた。
慌てて起き上がろうとする律を、高野は「いいから」と手でそっと押し留めた。
「わざわざ。。。来てくれたんですか?」
「当たり前だろ」
「もう夜遅いのに。。。」
「関係ねーよ。」
怪我をして弱っているせいか、律の瞳は頼りなく揺れていた。
高野はパイプ椅子に腰を下ろすと、怪我をしていない左手をそっと握った。
本当は頭をなでで、やわらかい髪に触れたかったが、頭を撃っているのだからと我慢した。
そっと握り返してくれる高野より一回り小さい律の手が、愛おしい。
わだかまりを消して、開いていた2人の距離を埋めたい。
高野はそんな思いを込めて、静かに律を見つめていた。
*****
「杏ちゃん、こんなところにいていいの?」
「そんなに邪魔にすることないじゃない。」
杏は顎を引くと、上目遣いに律を見た。
そんな恋人に甘えるような素振りを見せられて、律は困惑した。
律が怪我のことを両親に連絡したのは、翌日のことだ。
その日のうちに駆けつけてきた高野は、親に連絡しようかと申し出てくれた。
高野は律の上司だし、落ちたのは会社の階段なのだからと。
だが律は「自分で出来ますよ」とことわった。
高野をわずらわせたくないし、親にも余計な心配をさせたくない。
律は翌日に自分で親に連絡し、大したことはないのだと何度も強調した。
あくまで検査入院で明日には退院するから、病院には来てくれるなと。
それなのに病院に駆けつけてきたのは、なぜか婚約を解消したはずの杏だった。
「邪魔になんかしないけど。忙しいんじゃないかと思って。」
律は思ったことを正直に答えた。
平日だから友人や仕事仲間は仕事で来られないし、親にも来ないように言った。
たった2泊の入院なので、特に時間を潰すようなものも持ち込んでいない。
つまり暇なわけで、話し相手がいるのはありがたい。
だが杏はすでに新たな婚約者と挙式の準備中のはずだ。
元婚約者の病室で、こんな風に時間を過ごしていていいのだろうか?
「あの人は来てくれないの?」
杏は探るように律を見ながら、そう聞いてきた。
あの人。名前を言わなくても杏がわかる。
隣人であり、恋人である高野のことだ。
「忙しいからね。仕方ないよ。」
律はそう言って、微笑した。
本当は律が病院に運び込まれた後、駆けつけて来てくれた。
1人で心細かったときに手を握ってくれたのが、すごく嬉しかった。
本当は今日も会社を休むと言ってくれたが、律がそれを止めたのだ。
いろいろ迷ったが、やっぱり高野が好きだと思う。
だがさすがに元婚約者にそんなことを言うつもりはなかった。
諦めるものか。
律は杏が秘かにそう思ったことに気がつかなかった。
深夜にも関わらず高野が来たことを知らない杏は、高野のことを冷たいと決め付けた。
恋人が入院しているのに、見舞いに来ないなどありえない。
そんな歪んだフィルターを通してしまうと、律の穏やかな微笑さえ寂しげに見える。
まだ割り込む余地がある、身を引く必要はないのではないかと思ってしまう。
「でも久しぶりに杏ちゃんの顔が見られたから、よかった。」
律の笑顔と言葉が、また杏を迷わせる。
だが律はまったくそんなことには思い至らずに、柔らかい物腰で杏に接していた。
*****
「残念だが、そういうことだ。」
高野はつとめてさり気ない口調でそう言った。
だが木佐は「まぁわかってたし」と、特に残念そうでもない口振りで答えた。
律が病院で杏と向かい合っている頃、高野は会社にいた。
エメラルド編集部の面々を集めて、急遽の会議だ。
その場で律が昨晩階段から落ちて怪我をしたことを話した。
そして会議が終わった後、高野は木佐だけを残し、2人で向かい合っていた。
「美術雑誌は欠員がない。今、売れ行きが落ちてるし、増員の予定もないらしい。」
「だよねぇ。。。美大卒も最近採用してないらしいし。」
「残念だが、そういうことだ。」
「まぁわかってたし」
木佐は美術雑誌への異動を希望したので、高野はそれを打診した。
だがそもそも専門的な部署である上に、部数も落ちているという理由で断られたのだ。
高野はそれを木佐に伝えると、木佐は冷静に受け止めた。
ダメ元で出した異動願いであり、断られるのは覚悟の上だったようだ。
「美大卒の専門要員を採ってないんだ。逆に言えば、欠員が出たときはチャンスだぞ。」
「そうだね。今回はダメだったけど、異動願いは出し続けるよ。」
諦めるもんか、と拳を握る木佐に、高野は苦笑した。
なぜそんなに美術に行きたいのかは知らないが、木佐にもきっと大事なものがあるのだろう。
「あのさ、さっきの律っちゃんの話だけど。」
今度は木佐が、話を高野に振ってきた。
全員が揃っている席で、高野は他の編集部員たちにある可能性の話をした。
それは律が不注意で転落したのではなく、誰かに転落させられたのではないかという可能性だ。
昨晩律の手を握っていた高野は、律が眠ったのを見て、そっと帰宅しようとした。
そのときにふと床に置いてあった律の靴が目に入ったのだ。
茶色いローファーの側面に、一直線に長い不自然な傷がついていた。
このローファーはよく律が履いているのを見るが、こんな傷はなかったはずだ。
もしかして階段のところに誰かが紐か糸でも張っていて、転ばされた?
確認しようにも律は眠ってしまったし、起こすのはかわいそうだ。
だから確認は後日することにして、編集部のメンバーにだけは先に伝えたのだった。
靴の傷だけで考えすぎかもしれないが、用心するに越したことはない。
「サファイア文庫の編集長様がさ、気になることを言ってたんだ。」
木佐は同年代のサファイア文庫の編集長とは軽口を叩き合う仲だ。
昨日たまたま残っていて、律を見つけてくれた彼女と話をしたらしい。
「ちょうど律っちゃんが帰る頃、エレベーターに点検中の札がかかってたらしいんだ。」
「え?かなり遅いだろ?」
「うん。そんな時間に業者なんか来ないでしょ?だからおかしいと思ったんだって。」
「まさか。。。」
まさかと思い、心の底ではあって欲しくないと願ってきた可能性。
それは誰かが律をエレベータに札をかけて階段に誘導し、仕掛けを作って転ばせたということだ。
そしてそれが律を狙ったものだとしたら。
高野は動揺を抑えながら、懸命に考えを巡らせた。
【続く】