…したい10題
【笑わせたい】
楽しいことだけ並べて、笑わせたい。
ただそれだけのことができないのが、もどかしかった。
吉野千秋がその事件を知ったのは、入稿して経ってからだの後だった。
顔見知りの編集者が刺されたことに驚き、その事件の全容を知って驚愕した。
犯人は、付き合っていた女に振られた男だった。
そしてその狙いは小野寺律ではなく、吉川千春だった。
自分を振った女は吉川千春の大ファンだった。
そんな理不尽な理由で、男の恨みは吉川千春に向かったのだ。
だが男は吉川千春の家まで突き止めたものの、その顔を知らなかった。
唯一の目印は、女が吉川千春に送ったジャケットだった。
ベースは市販品だが、エンブレムをつけて、ボタンも付け替えて、細工がされている。
吉川千春の作品に出てくる登場人物の衣装を模したものだ。
男は女がそれを吉川千春に送ったことを憶えていて、それを目印にしたのだ。
「何ですぐに教えてくれなかったの?」
「教えていたら、お前は描けなかっただろう?」
抗議する吉野に、羽鳥がそう答えた。
木佐経由で高野から事件の連絡を受けた羽鳥は、それを隠した。
とにかくデット入稿の吉野の原稿を回収するためだった。
今、吉野宅にいるのは、吉野本人と羽鳥、そして柳瀬の3人だ。
事件の後、吉野はずっとこうしてベットに寝転がって、ぼんやりと過ごしている。
そろそろ次の原稿に取りかからなくてはならないのに、ずっとそんな調子だった。
羽鳥も柳瀬も、時間を作ってはここへ足を運んでいる。
だがどんな言葉をかけても、吉野の落ち込みは直る気配もなかった。
*****
「俺のせいだ。」
吉野はもう何度繰り返したかわからない言葉を、また繰り返す。
その気持ちはよくわかった。
いつまでも悩み続ける吉野に、羽鳥も柳瀬も困り果てている。
「もういいかげんに仕事をしないか?」
羽鳥がいつもより厳しい口調で言った。
吉野はぼんやりとした表情で、羽鳥を見上げる。
「お前はプロだろ?仕事はきちんとしろ。」
今までずっと吉野を宥めていた羽鳥が、初めて発した厳しい言葉だ
吉野は信じられないという表情で、羽鳥を睨み上げた。
「俺のせいでこんなことになったのに、仕事なんて!」
「お前の作品を待っている読者の期待を裏切るな。」
「狙われたのは俺なのに!」
「今回は無事だった。これから注意すればいい。俺も気をつける。」
「俺がケーキ欲しいなんて言わなければ---!
「今度からもうつまらないわがままを言わなければいい。小野寺は助かったんだから。」
声を荒げて感情をぶつける吉野に対して、羽鳥は静かに答えている。
吉野には羽鳥のその冷静さが、ひどく腹立たしかった。
だが黙って横で聞いている柳瀬には、羽鳥が懸命に感情を抑えているのがわかった。
*****
「トリは平気なの?俺のせいで関係ない彼が傷ついて!」
「俺が平気だと思うのか?」
答えた羽鳥の声はあくまで静かだった。
だがその声が怒りで震えていることに、ようやく吉野も気がついた。
「犯人はお前を狙ったんだぞ。許せるわけないだろ!」
「トリ......?」
「それに小野寺のことだって。大事な後輩なんだ!」
ついに羽鳥も声を荒げた。
編集部宛てに送られ、目印にされたジャケットを吉野に届けたのは羽鳥だった。
羽鳥だって、決して気持ちを切り替えられているわけではないのだ。
「羽鳥、落ち着けよ。」
ずっと黙っていた柳瀬が、羽鳥を制した。
「千秋。俺も今回ばかりは、羽鳥に賛成だ。」
その言葉に、吉野が今度は柳瀬の方を見た。
「いきなり今まで通りっているのは無理かもしれないけど、少しずつでも戻らないと。」
柳瀬は小さい子供に言って聞かせるように、そう続けた。
「また来る。柳瀬、頼むな。」
羽鳥はいつもは天敵である柳瀬にそう言うと、吉野宅を出た。
仕事は他にもあり、吉野だけに関わっているわけにはいかないのだ。
楽しいことだけ並べて、笑わせてやりたいのに。
ただそれだけのことができないのが、もどかしかった。
甘やかしてやりたいけど、仕事はしなければならない。
吉野の原稿を、楽しみに待っている人たちがいるのだから。
羽鳥は大きくため息をつくと、編集部へと急いだ。
【続く】
楽しいことだけ並べて、笑わせたい。
ただそれだけのことができないのが、もどかしかった。
吉野千秋がその事件を知ったのは、入稿して経ってからだの後だった。
顔見知りの編集者が刺されたことに驚き、その事件の全容を知って驚愕した。
犯人は、付き合っていた女に振られた男だった。
そしてその狙いは小野寺律ではなく、吉川千春だった。
自分を振った女は吉川千春の大ファンだった。
そんな理不尽な理由で、男の恨みは吉川千春に向かったのだ。
だが男は吉川千春の家まで突き止めたものの、その顔を知らなかった。
唯一の目印は、女が吉川千春に送ったジャケットだった。
ベースは市販品だが、エンブレムをつけて、ボタンも付け替えて、細工がされている。
吉川千春の作品に出てくる登場人物の衣装を模したものだ。
男は女がそれを吉川千春に送ったことを憶えていて、それを目印にしたのだ。
「何ですぐに教えてくれなかったの?」
「教えていたら、お前は描けなかっただろう?」
抗議する吉野に、羽鳥がそう答えた。
木佐経由で高野から事件の連絡を受けた羽鳥は、それを隠した。
とにかくデット入稿の吉野の原稿を回収するためだった。
今、吉野宅にいるのは、吉野本人と羽鳥、そして柳瀬の3人だ。
事件の後、吉野はずっとこうしてベットに寝転がって、ぼんやりと過ごしている。
そろそろ次の原稿に取りかからなくてはならないのに、ずっとそんな調子だった。
羽鳥も柳瀬も、時間を作ってはここへ足を運んでいる。
だがどんな言葉をかけても、吉野の落ち込みは直る気配もなかった。
*****
「俺のせいだ。」
吉野はもう何度繰り返したかわからない言葉を、また繰り返す。
その気持ちはよくわかった。
いつまでも悩み続ける吉野に、羽鳥も柳瀬も困り果てている。
「もういいかげんに仕事をしないか?」
羽鳥がいつもより厳しい口調で言った。
吉野はぼんやりとした表情で、羽鳥を見上げる。
「お前はプロだろ?仕事はきちんとしろ。」
今までずっと吉野を宥めていた羽鳥が、初めて発した厳しい言葉だ
吉野は信じられないという表情で、羽鳥を睨み上げた。
「俺のせいでこんなことになったのに、仕事なんて!」
「お前の作品を待っている読者の期待を裏切るな。」
「狙われたのは俺なのに!」
「今回は無事だった。これから注意すればいい。俺も気をつける。」
「俺がケーキ欲しいなんて言わなければ---!
「今度からもうつまらないわがままを言わなければいい。小野寺は助かったんだから。」
声を荒げて感情をぶつける吉野に対して、羽鳥は静かに答えている。
吉野には羽鳥のその冷静さが、ひどく腹立たしかった。
だが黙って横で聞いている柳瀬には、羽鳥が懸命に感情を抑えているのがわかった。
*****
「トリは平気なの?俺のせいで関係ない彼が傷ついて!」
「俺が平気だと思うのか?」
答えた羽鳥の声はあくまで静かだった。
だがその声が怒りで震えていることに、ようやく吉野も気がついた。
「犯人はお前を狙ったんだぞ。許せるわけないだろ!」
「トリ......?」
「それに小野寺のことだって。大事な後輩なんだ!」
ついに羽鳥も声を荒げた。
編集部宛てに送られ、目印にされたジャケットを吉野に届けたのは羽鳥だった。
羽鳥だって、決して気持ちを切り替えられているわけではないのだ。
「羽鳥、落ち着けよ。」
ずっと黙っていた柳瀬が、羽鳥を制した。
「千秋。俺も今回ばかりは、羽鳥に賛成だ。」
その言葉に、吉野が今度は柳瀬の方を見た。
「いきなり今まで通りっているのは無理かもしれないけど、少しずつでも戻らないと。」
柳瀬は小さい子供に言って聞かせるように、そう続けた。
「また来る。柳瀬、頼むな。」
羽鳥はいつもは天敵である柳瀬にそう言うと、吉野宅を出た。
仕事は他にもあり、吉野だけに関わっているわけにはいかないのだ。
楽しいことだけ並べて、笑わせてやりたいのに。
ただそれだけのことができないのが、もどかしかった。
甘やかしてやりたいけど、仕事はしなければならない。
吉野の原稿を、楽しみに待っている人たちがいるのだから。
羽鳥は大きくため息をつくと、編集部へと急いだ。
【続く】