プロポーズ10題sideA

【大切】

「で、まだ誰も編集長になりたいと名乗り出たヤツはいないと。」
横澤は皮肉っぽい口調で、そう言った。
高野は「まぁな」と軽く受け流し、グラスの中の琥珀色の液体を喉に流し込んだ。

丸川書店に近いシックな雰囲気のバー。
横澤隆史と高野政宗は並んでカウンターに座り、酒を飲んでいた。
学生時代から親しくしており、その昔に肉体関係さえあった2人は、今は良き友人だ。
だがこうして2人っきりで飲むのは、実に久しぶりだった。
その理由は主に横澤にある。
横澤の恋人にはまだ幼い子供がいるのだ。
どういうわけか母親代わりの横澤は、高野に限らずあちこちで、最近付き合いが悪いと言われている。

「順当に行けば羽鳥だろう?」
「そうなんだけどな。」
横澤の問いに、高野は曖昧に言葉を濁した。

高野から見ても、後任の編集長の最有力候補は羽鳥だ。
実は羽鳥を直接指名することも考えた。
だが高野は羽鳥の想いを知っている。
少女漫画家、吉川千春こと吉野千秋への恋心のことだ。
羽鳥は吉野のためにこの職業についたのだろう。

問題は吉野が締め切り破りデット入稿の常習者であることだ。
編集長になったら、余計な雑務がかなり増える。
吉野が今のスタイルで仕事を続けるなら、編集長と吉野の担当を兼務することは事実上不可能だ。
だから高野はその判断を羽鳥本人に委ねたのだ。

「木佐と美濃は?」
「美濃は何も言ってこないし、何を考えているかわからない。木佐は。。。」
高野は言葉を切って、口元に笑みを浮かべた。
今回、編集部の面々には異動の希望があればそれも申し出るように言ってある。
元々律が文芸に行きたいなら、多少の無理をしても人事と交渉するつもりで出た言葉だ。
だが律より先にそれに反応したのが、木佐だった。
木佐は美術の専門誌に異動はできないかと相談してきたのだ。

「そりゃむずかしいだろ。美術って美大の卒業生が採用されてなかったか?」
「大切な人と一緒に仕事がしたいんだそうだ。」
高野はグラスの中の液体を一気に飲み干すと、カウンターの中のバーテンダーに「同じのを」と頼んだ。
横澤は「ペース早いな」と苦笑しながら、楽しく酒を飲んだ。

*****

高野さんにとって、一番大切なものはなんだろう?
それは自分なのだと自惚れていいのだろうか?
律はずっとそれを考えながら、答えが見えないでいる。

「どうして事前に教えてくれなかったんですか?」
高野が編集会議で異動の話をした夜、律は高野の部屋に押しかけてそう聞いた。
高野の特別であるなら、そのくらいの権利はあると思ったのだ。
だが高野は「話したら心が揺らぎそうだったから」と言った。

「お前がいるからエメ編に残りたくなるかもしれない。」
「そうしたら編集者として成長できなくなる。」
「決めた後で後悔して、お前を恨むようなことはしたくないから。」
語気荒い律の問いかけに対して、高野は冷静にそう答えた。

高野なりに考えた末の結論であることはわかったが、不本意だった。
律は仮に事前に相談されたとしても「俺のためにエメ編に残って」とは絶対に言わない。
どちらが高野のためになるかを真剣に考えただろう。
異動になれば顔を合わせる時間が減るのは寂しいが、何しろ家は同じマンションの隣室なのだ。
高野がいなくなった後のエメ編の話や、高野が新しい部署の話など、情報交換するのも悪くない。
異動イコール別れになるとも思わないし、編集者としてプラスに持っていけばいいと思う。

「つまり俺を信用してなかったってことですか?」
高野は律が浅はかに引き止めると思ったのだろうか?
律の心に芽生えた小さな疑問が、怒りへと変わっていくのを止められない。
さすがにこれには高野もカチンときたようだ。
高野もついに声を荒げて「お前だって小野寺出版の復職の話、黙っていただろ?」ときり返してきた。

それもまたショックな話だった。
よくよく聞くと、高野はかつての律の上司に呼び出されて、その話をされたらしい。
確かに黙っていたが、それは別に隠したわけじゃない。
律にとってありえない選択肢だったから、言わなかっただけだ。
まさかその仕返しだとでもいうつもりなのか。
結局話がかみ合わず、それから高野との間に微妙なわだかまりが残ってしまった。

「そろそろ俺も帰るかな。」
もう他に誰もいなくなったエメラルド編集部で、律はポツリと呟いた。
今は時期的に忙しくないので、先輩社員たちはさっさと帰宅していた。
高野は確か今日は久しぶりに横澤と飲みに行くと言っていた気がする。
どうしても帰る気にならず残っていた律だったが、この時期に疲れるほど残業するのもよくない。
律は身支度を整えると、編集部を出た。

エレベーターの前まで来ると『点検中』の札が下がっていた。
こんな時間に点検中であることに少々疑問は感じた。
だが人がいない時間に点検しているのかと思い直す。
大した距離でもないし、最近は会社も節電のためになるべく階段を使うことを奨励していることだし。
律はさして迷うこともなく、階段へと向かった。

だが階段を下ろうとした瞬間、律は不自然な力を感じて「わっ!」と声を上げる。
それが何だか確認する暇もないままバランスを崩して、下の踊り場まで転がり落ちた。

*****

「小野寺は何て言ってるんだ?」
「ああ、それが。。。」
横澤の質問の先が、高野の恋人へと移った。
だが普段ならノロケモードに入る高野が、今日に限っては口ごもる。
高野もまた律とのわだかまりを気にしていた。

高野が異動の話を律にしなかったのは、単に律によって迷ってしまうことを恐れただけではない。
少なくても決心がついた時点で、他のメンバーよりも先に知らせるつもりだった。
だが高野がようやく心を決めたのは、井坂に返事をしなければならない期限ギリギリだった。
そして編集部は修羅場の時期に突入してしまったのだ。
睡眠も満足に取れない状態で、こんな話をするのもよくないだろう。
タイミングを計っているうちに、結局言う機会がなくなってしまったのだ。
大切にしたいと考えすぎるうちに、律を不安にさせてしまった。

「何だ?反対されてるのか?」
「いや、そうじゃない。」
仕事のことは何でも言える横澤にでも、律との私的なことは言いにくい。
高野は曖昧に言葉を濁すと、灰皿の上の吸い差しのタバコに手を伸ばす。
横澤のように気心がしれた友人は、こういう時ありがたいと思う。
言いたくない雰囲気は察してくれて、それ以上追求しようとはしないからだ。

その時、高野の携帯電話が鳴った。
横澤が小さく舌打ちをして「切っとけよ」と文句を言う。
こういう落ち着いた雰囲気のバーに、携帯電話の電子音はいかにも無粋だ。
だが高野は横澤を無視して、携帯電話の画面を覗き込んで、少々驚いた。

こういう場所なのに携帯の電源を入れたままなのは、律からの電話を期待していたからだ。
だが画面に表示されたその名は、サファイア文庫の女性編集長だった。
一応連絡先は知っているものの仕事上のからみは少なく、プライベートでの電話は皆無だ。

「もしもし。。。」
『エメラルドの編集のコが階段から落ちて意識がない。今救急車を呼んだ。』
「は?」
敏腕女性編集長は余計な前置きを言わず、単刀直入に用件だけを告げてきた。
高野は回り始めた酔いが一気に冷めていくのを感じながら「うちの誰?」と聞き返す。

『名前は知らない。木佐の隣の席の茶髪の若いコ!』
病院がわかったらまた連絡するからと言って、電話は一方的に切れた。
木佐の隣の席の茶髪の若い編集部員、思いつくのは1人しかいない。
高野は片手に携帯電話、片手に酒のグラスを持ったまま、呆然と固まった。

尋常ではない様子に驚いた横澤が「どうした?」と高野の肩を叩く。
その拍子に高野の手からグラスが滑り落ち、ガラスの破片と琥珀色の液体が床に飛び散った。

【続く】
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