プロポーズ10題sideA
【俺にください】
「俺にくださいってヤツは名乗り出ろ。」
高野は一同の顔を見渡しながら、そう言った。
エメラルド編集部の面々は、神妙な面持ちでその言葉を聞いていた。
「あと3ヵ月で、俺はエメ編から抜ける。」
エメラルド編集部の定例の会議の最後、高野はそう告げた。
井坂から打診を受けて、しばらく悩んだ末。
高野はエメラルドを去り、新しい雑誌の編集部への異動を決めた。
そして会議の場で、その事実を伝えたのだった。
その場で初めてその事実を聞かされた小野寺律は、激しく動揺していた。
高野は仕事の上では目標であり、まだまだ教えてもらいたいのに。
好きな相手と職場でもずっと一緒にいられることが嬉しかったのに。
そんな幸福な日常はあと3ヵ月だと突然告げられたのだ。
何よりも知らされたタイミングがショックだった。
編集会議の場、つまり他のメンバーと同じタイミングであったことだ。
再会して、1年近くかけて自分の気持ちを認め、高野の想いも受け入れた。
高野とは相思相愛の恋人同士であり、絆はあると思っていた。
だが高野は律に事前に話してくれることはなかったのだ。
「後任の編集長はまだ決まっていないが、俺に一任されている。」
律の葛藤に関わらず、高野は会議を進行していく。
後任の編集長。
普通に考えれば、副編集長の羽鳥が昇格するのが順当だろう。
だが高野は安易に羽鳥をスライドさせるつもりではないらしい。
「編集長の座を俺にくださいってヤツは数日以内に名乗り出るように。その中から選ぶ。」
「もし誰もいなかったらどうするの?」
「その時は外から引っ張ってくることも含めて検討する。」
高野の言葉に反応して聞き返したのは、美濃だ。
当然想定内の質問だったようで、高野もあっさりと答えた。
「それと他に異動の希望もあれば聞くから。」
高野はさりげない口調で、そう付け加えた。
ずっと全員を見回しながら話していた高野が、この時だけは真っ直ぐに律を見ていた。
つまり律に向けて発せられた言葉なのだ。
文芸に行くならそれも自由という意味か?
自分の進む道は自分で決めろと言いたいのだろうか?
「以上、解散。」
最後に高野がそう締めくくると、全員が立ち上がりゾロゾロと会議室を出て行く。
律もまた重い腰を上げると、その後に続いた。
*****
「俺にください」
その言葉を杏はひどく白けた気分で聞いていた。
小日向杏は、自宅の客間で両親と向かい合っていた。
杏の横には婚約者が、両親に頭を下げている。
恋人が親に「お嬢さんを俺に下さい」と告げる。
それは女として生まれたからには、一世一代のイベントだろう。
だが杏は冷めていた。
婚約者は親が決めた人物であり、これはほとんど織り込み済みの通過儀式だ。
それに何よりこの婚約者は、杏が恋焦がれたあの青年ではない。
青年は杏との婚約を破棄し、双方の親が何度説得しても折れなかった。
ついに諦めた杏の両親は、まるで魔法のように次の婚約者を用意した。
それが今杏の隣にいて、両親に頭を下げているこの男だった。
これでいいのかな?
杏はずっと悩み続けた疑問を、また心の中で繰り返した。
新しい婚約者はあの青年にも負けない優しい男で、王女に仕える騎士のように杏を大事にしてくれる。
だけどこの男が出逢って間もない杏を愛しているとは思えなかった。
なぜなら杏だってこの男を愛していない。
杏の心の中には未だに幼い頃からずっと思い続けたあの青年がいるのだ。
「娘をよろしく頼むよ。」
杏の父親がそう言って手を差し出すと、婚約者は両手でその手を握った。
まるで安っぽいホームドラマみたいだと、杏は秘かにため息をつく。
すでにこんなに冷めてしまっているのに、この男と夫婦としてやっていけるのだろうか。
律っちゃん。
杏はかつての婚約者の青年を心の中で呼んだ。
もちろん届くはずはないとわかっていたが、それでも彼の事を考えずにはいられなかった。
*****
「小野寺君は、うちにくるつもりはない?」
それは思いも寄らない誘いだった。
律はすぐに答えることができずに黙り込んだ。
エメラルド編集部の定例会議の後、律はまっすぐ編集部には戻らずに休憩スペースに入った。
ごく簡素なテーブルと椅子、自動販売機があり、奥には喫煙スペースもある。
律は自動販売機で缶コーヒーを買うと、缶を振りながら空いている椅子に腰掛ける。
いきなり聞かされた高野の進退の話に、律はかなり気持ちが揺れていた。
気持ちを落ち着けなければ、とても仕事にならない。
「小野寺君、ちょっといい?」
「長谷川さん」
まるで律を追いかけるように、休憩スペースに入ってきたのは顔見知りの男。
ひょんなことから口を聞くようになった文芸の編集部員だ。
「小野寺君に話があって。エメラルド編集部に行ったらきっとここだって聞いたんだ。」
長谷川たち文芸担当の編集部はこのフロアではない。
休憩スペースは各階にあるのに、わざわざここに来たのは律に用事があったのだ。
長谷川は自動販売機で缶入り緑茶を買うと、律の隣に腰を下ろした。
「実は俺、会社を辞めるんだ。」
「ええ~?」
「今すぐじゃなくて、少し先なんだけど。家業を継ぐんだ」
長谷川が茶をすすりながらサラリと告げると、律は驚きの声を上げる。
今日はどうしてこうもいろいろな人の進退問題を聞く日なんだろう。
律に告げるということは、もう文芸の編集部員たちには周知された話なのだろう。
本人も周囲も納得して、笑顔で送り出してもらえるなら、辞め方としては上々だ。
逃げるようにして小野寺出版を去った律にとっては、羨ましい話だった。
「じゃあ担当の作家さんの引継ぎとか、大変ですね。」
「そのことなんだけど。小野寺君は、うちにくるつもりはない?」
「俺、ですか?」
「小野寺君さえよければ後任に指名したいんだ。角先生も小野寺君を気に入ってるみたいだし。」
それは思いも寄らない誘いだった。
律はすぐに答えることができずに黙り込んだ。
小野寺出版からの復職の依頼をことわった後なのに、なんと皮肉な誘いなのだろう。
少し前なら考えられなかった文芸への異動。
だが今は違う。
高野がエメラルド編集部を去るなら、その選択肢はありかもしれない。
落ち着くために来た休憩スペースで、律はますます心を乱すことになった。
【続く】
「俺にくださいってヤツは名乗り出ろ。」
高野は一同の顔を見渡しながら、そう言った。
エメラルド編集部の面々は、神妙な面持ちでその言葉を聞いていた。
「あと3ヵ月で、俺はエメ編から抜ける。」
エメラルド編集部の定例の会議の最後、高野はそう告げた。
井坂から打診を受けて、しばらく悩んだ末。
高野はエメラルドを去り、新しい雑誌の編集部への異動を決めた。
そして会議の場で、その事実を伝えたのだった。
その場で初めてその事実を聞かされた小野寺律は、激しく動揺していた。
高野は仕事の上では目標であり、まだまだ教えてもらいたいのに。
好きな相手と職場でもずっと一緒にいられることが嬉しかったのに。
そんな幸福な日常はあと3ヵ月だと突然告げられたのだ。
何よりも知らされたタイミングがショックだった。
編集会議の場、つまり他のメンバーと同じタイミングであったことだ。
再会して、1年近くかけて自分の気持ちを認め、高野の想いも受け入れた。
高野とは相思相愛の恋人同士であり、絆はあると思っていた。
だが高野は律に事前に話してくれることはなかったのだ。
「後任の編集長はまだ決まっていないが、俺に一任されている。」
律の葛藤に関わらず、高野は会議を進行していく。
後任の編集長。
普通に考えれば、副編集長の羽鳥が昇格するのが順当だろう。
だが高野は安易に羽鳥をスライドさせるつもりではないらしい。
「編集長の座を俺にくださいってヤツは数日以内に名乗り出るように。その中から選ぶ。」
「もし誰もいなかったらどうするの?」
「その時は外から引っ張ってくることも含めて検討する。」
高野の言葉に反応して聞き返したのは、美濃だ。
当然想定内の質問だったようで、高野もあっさりと答えた。
「それと他に異動の希望もあれば聞くから。」
高野はさりげない口調で、そう付け加えた。
ずっと全員を見回しながら話していた高野が、この時だけは真っ直ぐに律を見ていた。
つまり律に向けて発せられた言葉なのだ。
文芸に行くならそれも自由という意味か?
自分の進む道は自分で決めろと言いたいのだろうか?
「以上、解散。」
最後に高野がそう締めくくると、全員が立ち上がりゾロゾロと会議室を出て行く。
律もまた重い腰を上げると、その後に続いた。
*****
「俺にください」
その言葉を杏はひどく白けた気分で聞いていた。
小日向杏は、自宅の客間で両親と向かい合っていた。
杏の横には婚約者が、両親に頭を下げている。
恋人が親に「お嬢さんを俺に下さい」と告げる。
それは女として生まれたからには、一世一代のイベントだろう。
だが杏は冷めていた。
婚約者は親が決めた人物であり、これはほとんど織り込み済みの通過儀式だ。
それに何よりこの婚約者は、杏が恋焦がれたあの青年ではない。
青年は杏との婚約を破棄し、双方の親が何度説得しても折れなかった。
ついに諦めた杏の両親は、まるで魔法のように次の婚約者を用意した。
それが今杏の隣にいて、両親に頭を下げているこの男だった。
これでいいのかな?
杏はずっと悩み続けた疑問を、また心の中で繰り返した。
新しい婚約者はあの青年にも負けない優しい男で、王女に仕える騎士のように杏を大事にしてくれる。
だけどこの男が出逢って間もない杏を愛しているとは思えなかった。
なぜなら杏だってこの男を愛していない。
杏の心の中には未だに幼い頃からずっと思い続けたあの青年がいるのだ。
「娘をよろしく頼むよ。」
杏の父親がそう言って手を差し出すと、婚約者は両手でその手を握った。
まるで安っぽいホームドラマみたいだと、杏は秘かにため息をつく。
すでにこんなに冷めてしまっているのに、この男と夫婦としてやっていけるのだろうか。
律っちゃん。
杏はかつての婚約者の青年を心の中で呼んだ。
もちろん届くはずはないとわかっていたが、それでも彼の事を考えずにはいられなかった。
*****
「小野寺君は、うちにくるつもりはない?」
それは思いも寄らない誘いだった。
律はすぐに答えることができずに黙り込んだ。
エメラルド編集部の定例会議の後、律はまっすぐ編集部には戻らずに休憩スペースに入った。
ごく簡素なテーブルと椅子、自動販売機があり、奥には喫煙スペースもある。
律は自動販売機で缶コーヒーを買うと、缶を振りながら空いている椅子に腰掛ける。
いきなり聞かされた高野の進退の話に、律はかなり気持ちが揺れていた。
気持ちを落ち着けなければ、とても仕事にならない。
「小野寺君、ちょっといい?」
「長谷川さん」
まるで律を追いかけるように、休憩スペースに入ってきたのは顔見知りの男。
ひょんなことから口を聞くようになった文芸の編集部員だ。
「小野寺君に話があって。エメラルド編集部に行ったらきっとここだって聞いたんだ。」
長谷川たち文芸担当の編集部はこのフロアではない。
休憩スペースは各階にあるのに、わざわざここに来たのは律に用事があったのだ。
長谷川は自動販売機で缶入り緑茶を買うと、律の隣に腰を下ろした。
「実は俺、会社を辞めるんだ。」
「ええ~?」
「今すぐじゃなくて、少し先なんだけど。家業を継ぐんだ」
長谷川が茶をすすりながらサラリと告げると、律は驚きの声を上げる。
今日はどうしてこうもいろいろな人の進退問題を聞く日なんだろう。
律に告げるということは、もう文芸の編集部員たちには周知された話なのだろう。
本人も周囲も納得して、笑顔で送り出してもらえるなら、辞め方としては上々だ。
逃げるようにして小野寺出版を去った律にとっては、羨ましい話だった。
「じゃあ担当の作家さんの引継ぎとか、大変ですね。」
「そのことなんだけど。小野寺君は、うちにくるつもりはない?」
「俺、ですか?」
「小野寺君さえよければ後任に指名したいんだ。角先生も小野寺君を気に入ってるみたいだし。」
それは思いも寄らない誘いだった。
律はすぐに答えることができずに黙り込んだ。
小野寺出版からの復職の依頼をことわった後なのに、なんと皮肉な誘いなのだろう。
少し前なら考えられなかった文芸への異動。
だが今は違う。
高野がエメラルド編集部を去るなら、その選択肢はありかもしれない。
落ち着くために来た休憩スペースで、律はますます心を乱すことになった。
【続く】