プロポーズ10題sideA
【初めまして(こんにちは)】
「初めまして」
男は軽く会釈をすると、名刺を差し出した。
書かれた肩書きは小野寺出版の編集部のある文芸誌の編集長だ。
高野政宗は「どうも」と頭を下げると、自分も名刺を差し出した。
高野は丸川書店の近くのカフェで、その男と向かい合っていた。
名指しではなく「月刊エメラルドの編集長さんとお話がしたい」という電話で呼び出されたのだ。
普通だったら、怪訝に思うことだろう。
通常よその出版社、しかも扱っているジャンルも異なる編集部員同士が会うことはあまりない。
だが相手の肩書きを聞いた高野は、すぐに相手に会うことに決めた。
小野寺出版の文芸と聞けば、思い当たる人物が1人いる。
用件はきっと彼に関わることだろう。
「小野寺君は、元気にやっていますか?」
予想通り男はそう言いながら、運ばれていたコーヒーのカップに手を伸ばす。
だが高野はそれには答えずに「お話とは小野寺のことですか?」と逆に聞き返した。
「小野寺君は、うちにいたときは優秀な編集部員でした。」
男もまた高野の質問には答えない。
電話で最初に話したときから、この男の態度は感じがいいものではなかった。
高野に対する物言いもは横柄で、いくらこちらが年下でも初対面の相手には少々失礼だ。
はっきりとは言わないが、男は漫画というものを文芸よりも低いものだと見下しているようだ。
「今でも優秀ですけど」
高野は短くそう答えた。
男が「うちにいたときは優秀」の「は」にアクセントを置いたからだ。
この男が上司なら辞めたくなる気持ちもわかると、高野は今さらながらに恋人に深く同情した。
陰口を叩かれて孤立しても、会社を辞めようかと迷っても、決して相談する気にはならないだろう。
「それにしてもあの小野寺君が、少女漫画とは」
男は高野にとも独り言ともつかない口調で、ブツブツと呟いている。
正直言って鬱陶しいが、高野は黙って男が用件を切り出すのを待った。
何しろこの男の勤務先は小野寺出版、恋人の父親が経営する会社なのだ。
ここで妙な口論にでもなって、万が一にも恋人にとばっちりが行くような事態は避けたい。
「彼をうちに戻したいと思っています。」
この男のペースなのか、ずっと黙っている高野に焦れたのか、ついに男は切り出した。
ついに来たか。
高野は内心身構えながら、冷静な態度でコーヒーを口に運んだ。
*****
「こんにちは」
偶然、そして久しぶりの再会に小野寺律は思わず顔を綻ばせた。
相手は昔からのファンであり、かつての職場で担当していた作家の宇佐見秋彦だ。
秋彦も律を見て「久しぶりだな」とほんの少しだけ唇の端を上げて笑った。
知らない人間が見れば無愛想だが、彼にしてみればかなり親しみのこもった対応だ。
「そうか、今は丸川にいるんだったな。」
秋彦は今気がついたという様子で、そう言った。
確かにここは丸川書店1階、エレベーターの前。
原稿を持参し担当者の所へ向かう秋彦と作家のところへ打ち合わせに出る律がたまたま顔を合わせたのだ。
「先月発売の先生の新刊、読みました。すごくよかったです!」
律はもう担当どころか、文芸からも離れている。
今の秋彦と律の関係は、作家とファンに過ぎない。
「お前が離れてから、お前がいい編集だって痛感したよ。」
秋彦が昔を懐かしむようにそう言うと、律は複雑な気分になった。
もちろん担当編集として、律を評価してくれるのは嬉しい。
だが律は自分の個人的な事情で、小野寺出版を退職してしまった。
その結果、秋彦にも迷惑をかけたことは間違いないからだ。
「お前、戻る気はないのか?今の小野寺出版の担当編集とはどうも合わないんだ。」
秋彦の言葉に、律は「申し訳ありません」と頭を下げた。
小野寺出版の律の後任の担当編集者と秋彦がうまくいっていないことは聞いていた。
かつての上司から何度か復職の打診があったし、最近は親からもそんなことを言われたのだ。
だけど今の律は少女漫画を極めることを当面の目標と考えている。
いつか文芸に戻ることも考えないではないが、少なくても今ではない。
「これからも先生の作品を楽しみにしています。」
「またいつか一緒に仕事ができるといいな」
律が再び頭を下げると、秋彦は穏やかに応じてくれた。
そしてちょうど扉が開いたエレベーターに乗り込んでいく。
再び扉が閉まりエレベーターが上昇を始めるまで、律はじっと秋彦を見送っていた。
*****
「エメラルドを立て直した、その手腕を貸してもらいたい。」
自分の将来に関わる話なのに、まるで現実感がない。
高野はどこか呆然とした気分で、それを聞いていた。
高野が丸川書店の専務取締役、井坂龍一郎に呼び出されたのは、律のかつての上司と会ってまもなくだ。
そして井坂の部屋で告げられたのは、異動の辞令だった。
異動先は漫画など全然関係ない、若いビジネスマン向けの情報誌の編集長だ。
最近は売り上げが低迷しているので、それを立て直せということだった。
エメラルドの編集長になってからもう数年。
いつまでもこのポジションに留まれないことはわかっていた。
編集者としての高野の終着点は一雑誌の編集長ではなく、目指すのはもっと高い場所だ。
それに高野が今の地位に居座れば、部下たちは後がつかえてしまって上に行きにくくなる。
そもそも少女漫画というジャンルには、年齢的にも限界があるだろう。
女性ならまだしも男であるなら、30代がいいところだと思う。
40代、50代になれば感性がついていかない気がする。
「引き受けてくれるか?」
井坂に念を押されても、高野はすぐに即答できなかった。
高野が返事を躊躇う理由は、やはり律だ。
高野はもうエメラルドでやりたいことはすべてやったという自負がある。
だが律にはまだまだ成長する余地があり、それを見届けたいと思っていたのだ。
高野は答えを保留にしたまま、井坂の部屋を出た。
高野はこのことは結論が出るまで、律には何も言わなかった。
またかつての律の上司に呼び出されたことも黙っていた。
そして律もかつての会社から戻らないかと打診されていることを、高野には言わなかった。
今はまだ少女漫画の編集として頑張るつもりでいたから、言う必要はないと思ったからだ。
余計な心配をかけたくない。
2人とも10年越しの別離を経てようやく恋人となった相手のことを思った上でのことだった。
結局そのことが2人の関係に影を落とすことになる。
だが今は高野も律も知る由もない。
ただただ2人で生きる幸せな未来のことだけを、前向きに考えていた。
【続く】
「初めまして」
男は軽く会釈をすると、名刺を差し出した。
書かれた肩書きは小野寺出版の編集部のある文芸誌の編集長だ。
高野政宗は「どうも」と頭を下げると、自分も名刺を差し出した。
高野は丸川書店の近くのカフェで、その男と向かい合っていた。
名指しではなく「月刊エメラルドの編集長さんとお話がしたい」という電話で呼び出されたのだ。
普通だったら、怪訝に思うことだろう。
通常よその出版社、しかも扱っているジャンルも異なる編集部員同士が会うことはあまりない。
だが相手の肩書きを聞いた高野は、すぐに相手に会うことに決めた。
小野寺出版の文芸と聞けば、思い当たる人物が1人いる。
用件はきっと彼に関わることだろう。
「小野寺君は、元気にやっていますか?」
予想通り男はそう言いながら、運ばれていたコーヒーのカップに手を伸ばす。
だが高野はそれには答えずに「お話とは小野寺のことですか?」と逆に聞き返した。
「小野寺君は、うちにいたときは優秀な編集部員でした。」
男もまた高野の質問には答えない。
電話で最初に話したときから、この男の態度は感じがいいものではなかった。
高野に対する物言いもは横柄で、いくらこちらが年下でも初対面の相手には少々失礼だ。
はっきりとは言わないが、男は漫画というものを文芸よりも低いものだと見下しているようだ。
「今でも優秀ですけど」
高野は短くそう答えた。
男が「うちにいたときは優秀」の「は」にアクセントを置いたからだ。
この男が上司なら辞めたくなる気持ちもわかると、高野は今さらながらに恋人に深く同情した。
陰口を叩かれて孤立しても、会社を辞めようかと迷っても、決して相談する気にはならないだろう。
「それにしてもあの小野寺君が、少女漫画とは」
男は高野にとも独り言ともつかない口調で、ブツブツと呟いている。
正直言って鬱陶しいが、高野は黙って男が用件を切り出すのを待った。
何しろこの男の勤務先は小野寺出版、恋人の父親が経営する会社なのだ。
ここで妙な口論にでもなって、万が一にも恋人にとばっちりが行くような事態は避けたい。
「彼をうちに戻したいと思っています。」
この男のペースなのか、ずっと黙っている高野に焦れたのか、ついに男は切り出した。
ついに来たか。
高野は内心身構えながら、冷静な態度でコーヒーを口に運んだ。
*****
「こんにちは」
偶然、そして久しぶりの再会に小野寺律は思わず顔を綻ばせた。
相手は昔からのファンであり、かつての職場で担当していた作家の宇佐見秋彦だ。
秋彦も律を見て「久しぶりだな」とほんの少しだけ唇の端を上げて笑った。
知らない人間が見れば無愛想だが、彼にしてみればかなり親しみのこもった対応だ。
「そうか、今は丸川にいるんだったな。」
秋彦は今気がついたという様子で、そう言った。
確かにここは丸川書店1階、エレベーターの前。
原稿を持参し担当者の所へ向かう秋彦と作家のところへ打ち合わせに出る律がたまたま顔を合わせたのだ。
「先月発売の先生の新刊、読みました。すごくよかったです!」
律はもう担当どころか、文芸からも離れている。
今の秋彦と律の関係は、作家とファンに過ぎない。
「お前が離れてから、お前がいい編集だって痛感したよ。」
秋彦が昔を懐かしむようにそう言うと、律は複雑な気分になった。
もちろん担当編集として、律を評価してくれるのは嬉しい。
だが律は自分の個人的な事情で、小野寺出版を退職してしまった。
その結果、秋彦にも迷惑をかけたことは間違いないからだ。
「お前、戻る気はないのか?今の小野寺出版の担当編集とはどうも合わないんだ。」
秋彦の言葉に、律は「申し訳ありません」と頭を下げた。
小野寺出版の律の後任の担当編集者と秋彦がうまくいっていないことは聞いていた。
かつての上司から何度か復職の打診があったし、最近は親からもそんなことを言われたのだ。
だけど今の律は少女漫画を極めることを当面の目標と考えている。
いつか文芸に戻ることも考えないではないが、少なくても今ではない。
「これからも先生の作品を楽しみにしています。」
「またいつか一緒に仕事ができるといいな」
律が再び頭を下げると、秋彦は穏やかに応じてくれた。
そしてちょうど扉が開いたエレベーターに乗り込んでいく。
再び扉が閉まりエレベーターが上昇を始めるまで、律はじっと秋彦を見送っていた。
*****
「エメラルドを立て直した、その手腕を貸してもらいたい。」
自分の将来に関わる話なのに、まるで現実感がない。
高野はどこか呆然とした気分で、それを聞いていた。
高野が丸川書店の専務取締役、井坂龍一郎に呼び出されたのは、律のかつての上司と会ってまもなくだ。
そして井坂の部屋で告げられたのは、異動の辞令だった。
異動先は漫画など全然関係ない、若いビジネスマン向けの情報誌の編集長だ。
最近は売り上げが低迷しているので、それを立て直せということだった。
エメラルドの編集長になってからもう数年。
いつまでもこのポジションに留まれないことはわかっていた。
編集者としての高野の終着点は一雑誌の編集長ではなく、目指すのはもっと高い場所だ。
それに高野が今の地位に居座れば、部下たちは後がつかえてしまって上に行きにくくなる。
そもそも少女漫画というジャンルには、年齢的にも限界があるだろう。
女性ならまだしも男であるなら、30代がいいところだと思う。
40代、50代になれば感性がついていかない気がする。
「引き受けてくれるか?」
井坂に念を押されても、高野はすぐに即答できなかった。
高野が返事を躊躇う理由は、やはり律だ。
高野はもうエメラルドでやりたいことはすべてやったという自負がある。
だが律にはまだまだ成長する余地があり、それを見届けたいと思っていたのだ。
高野は答えを保留にしたまま、井坂の部屋を出た。
高野はこのことは結論が出るまで、律には何も言わなかった。
またかつての律の上司に呼び出されたことも黙っていた。
そして律もかつての会社から戻らないかと打診されていることを、高野には言わなかった。
今はまだ少女漫画の編集として頑張るつもりでいたから、言う必要はないと思ったからだ。
余計な心配をかけたくない。
2人とも10年越しの別離を経てようやく恋人となった相手のことを思った上でのことだった。
結局そのことが2人の関係に影を落とすことになる。
だが今は高野も律も知る由もない。
ただただ2人で生きる幸せな未来のことだけを、前向きに考えていた。
【続く】
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