SMILE5-2

【満面の笑み】

「本当にごめんね。律っちゃん。」
「そんな、杏ちゃん。全然気にしてないから。」
2人の間に漂うのは、穏やかで優しい空気だ。
兄妹のように育った幼なじみ。
いろいろあったけど、またこんな風に話せるのは嬉しいことだと思う。

ここは丸川書店から程近いカフェだった。
仕事を終えて会社を出た律は、杏と向かい合っていた。
ずっと着信拒否にしていた杏の番号とアドレス。
拒否設定を解除した途端に、杏から「会いたい」とメールが来たのだ。
誘いに応じて、律は久しぶりに杏と会うことにした。

今までは杏との縁をきっぱりと断ち切るつもりだった。
それが高野に対する誠実さだと思っていたからだ。
だが今は違う。
杏と会ったり話をしたくらいで、律と高野の関係が揺らぐことはない。
高野と横澤が親しく話をしても、今さら傷ついたりしないのと同じことだ。
今の律は高野を信頼しているし、高野も律を信じてくれていると思えるのだ。

それに杏ももう律のことを、完全に幼なじみと割り切ってくれていた。
昔のように明るい笑顔で接してくれる。

*****

「あ、今の『ゴメン』は先週、私の友だちが律っちゃんにひどいことをしたんです。」
「ひどいことなんて、されてないから。」
杏と律が説明している相手は、高野だ。
高野は律の隣に腰を下ろして、黙ってコーヒーを飲んでいた。

律は今回、杏に会うに当たっては高野に同席してもらうことにした。
最近ずっと心の中でわだかまっていたモヤモヤが、晴れたばかりだからだ。
杏はあくまで友人であり、やましい事などなにもない。
そのことを高野にはっきりと示しておきたいと思ったのだ。

「ひどいことって何?」
「その友だち、会社の前で律っちゃんを待ち伏せして、私が律っちゃんにフラれ。。。」
「ちょっとした誤解です。少し口調がきつくなっただけで。」
高野の質問に答えようとした杏。
だが律が杏の言葉を遮って、穏やかに笑った。

律が杏をフッたことを知った友人が、丸川書店の前で律をなじった。
杏はそれを高野に説明しようとしたのだろう。
だが律はそれを言わせたくなかった。
今ここで杏やその友人を貶めるような話題はしたくないのだ。
高野にはあとで説明すれば、それでいい。

「うん。そうだね。いろいろ相談に乗ってもらってて、ちょっと誤解させちゃって。」
「もう気にしなくていいよ。杏ちゃんも。彼も。」
律と杏は顔を見合わせて、笑う。
高野は2人の様子を見ながら、黙ってコーヒーのカップを口に運んだ。

*****

「そうだ!おばさんがちゃんと病院に行けって。。。あ!」
律の母親からの伝言を告げた後、慌てた表情になった。
高野の前で、不用意に律の病気について口をすべらせたと思ったのだ。

「いいんだ。この人は知ってるから。病院は今週末に行くから。」
「ホントに?適当に誤魔化してないよね?」
「大丈夫。絶対に行かせるから。」
律と杏の会話に、ずっと黙っていた高野が口を挟んだ。
一瞬意外そうな表情になった杏が、すぐにニッコリと笑う。

「お願いします。お隣の人!」
「高野さんだよ。ちゃんと名前を覚えてよ。」
律は困ったように苦笑した。
杏は高野のことを、律の「隣の人」としてインプットしてしまったらしい。
初対面が律たちのマンションの前で、しかも「隣の人」と紹介したからだ。

「律っちゃん、私、幸せになるから!」
その後、律と杏はたわいのない話をし続けた。
自分たちの近況や昔話など、はっきり言って雑談だ。
そしてひとしきり話をした後、杏は言った。

「ステキな人と恋して、絶対幸せになる。」
「それで今よりすごく綺麗になっちゃうから。」
「何でこんないいコを手放したんだって律っちゃんが後悔するくらい。」
杏はそう宣言すると、満面の笑みを浮かべた。

*****

「高野さん、さっき杏ちゃんが言ってた話」
「知ってる。」
杏と別れてマンションへと戻る道すがら、律は切り出した。
杏の友人に、なぜ杏をフったのかと責められた話をだ。
だが高野はそれを遮った。

「知って。。。るんですか?」
「見たんだ。偶然」
高野は静かにそう答えた。
律は驚いて、並んで歩く高野の横顔を見上げた。

「知らない男とお前が話しているのを見た。キスしそうなほど顔が近かった。」
「キ、キスって!」
律は高野の言葉に顔を赤くしてしまう。
いい歳の大人の男なのに、律は未だに色恋沙汰には弱い。
キスという単語だけで、顔を赤くしてしまうほどに。

「見てたのに、黙ってたんですね。」
「必要があるなら、お前から言うだろ?」
高野は表情1つ変えずにそう言った。

高野は律のことを信頼してくれている。
だから何も聞かずに、ただ律が話をするのを待っていたのだ。
穏やかな高野の表情から、そのことが切ないほど伝わってきた。

*****

「高野さんは優しいですね。」
「優しい?俺が?」
憮然とした表情に変わった高野に、律は驚いた。
なぜこの話の流れでこんな表情になるのかと思う。
もしやと思い、まさかと思う。
考えられる理由はたった1つだ。

「高野さん、もしかして照れてます?」
「ああ?悪いか?」
悪くなんかない。むしろかわいい。
こんな高野は初めて見るからだ。

考えてみれば、律は今まで高野を手放しで褒めたことなどなかった。
昔は先輩で、今は上司。
高野は仕事でも人間的にも、自分よりも上であって当然と思っている。
でも恋人である時間は対等であっていいと思う。
そうすればもっと高野のいろいろな面が見えてくるだろう。
現に今、こんなにかわいい表情が見られたのだから。

律は返事の代わりに、そっと手を伸ばして高野の手に触れた。
そのままてのひらを合わせると、どちらからともなく指をからめる。
てのひらから伝わる温かさ、お互いに見つめる恋人の満面の笑み。
たったそれだけのことが、こんなに幸せなことだなんて。

2人は手を繋いだまま、ゆっくりと歩いていく。
帰ったら、一緒に食事をして、抱き合って眠る。
幸せはまだまだ終わらない。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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